慈濟傳播人文志業基金會
靴を失くして
 
 
仏堂に入る前に、私は靴を置いた場所をしっかりと覚えておきました。
しかし、仏堂から出たら靴はなくなっていました。
私はすっかり食欲を失い、何回も何回も探してみました。
たかが一足の靴ですが、それがなくなったことで私の心を掻き乱されてしまいました。
 
八月中旬、花蓮の静思精舍に帰り、三日間医療ステーションでボランティアをしました。二日目のことです。早朝のお勤めと上人の説法を聞いた後、食事の時間を知らせる板を打つ音が鳴り響き、ボランティアは皆一緒に急いで食堂に向かいました。朝食を済まし一日の活動を始まります。
下駄箱へ行き、皆と一緒に行動しようと靴を履こうとすると、靴が見つかりません。シールを貼った靴を、名札をつけた靴袋に入れたのに、見つからないはずはないと、すっかり焦りました。仏堂に入る前に、靴袋を二本目の柱の下に置いたのをしっかりと覚えておいたのに、その靴はどこかに行ってしまいました。
あちこちを探しに走り回りましたが、どうしても見つからなかったので、取りあえずスリッパを履き、急いで食堂に入りました。急いで戻って探さなければと、靴のことにばかり気を取られて、朝食は何も味がしませんでした。饅頭を一つ食べるとすぐに席を立ち、食堂を後にしました。
医療ステーションに戻ってみると、ボランティア朝会がすでに始まっていて、證厳法師の説法がスピーカーから流れていました。私はやはり落ち着かず、もう一度下駄箱に戻りました。靴を間違えた方が戻してくれるだろうと期待していましたが、何回繰り返しても無駄で、最後は絶望した気持ちになりました。
古い靴をあきらめて、この機会に新しいのを買おうかと思ってみたりもしましたが、私の大きなサイズの靴をいったい誰が気に入ってくれたのだろうかと、と悩みは頭から離れませんでした。
午前十時を回ったころ、さすがに靴を間違えた人はもう返してくれただろうと思い、もう一度靴がなくなった場所に戻り、下駄箱を入念に探しましが、やっぱりありませんでした。もしかして大殿の前はないだろうかと思いつきました。
コーナーにある知客室を回り、大殿に近づいて見ると、地面に靴袋が一つ、名札を裏返しにして、寂しそうに置かれていたのを発見しました。しゃがんでその名札を裏返してみると、やっぱり私の靴袋で、とても嬉しくなりました。
靴入れ袋を手に取り、ゆっくりと医療ステーションに戻って歩きました。不安で一杯だった心はやっと落ち着きました。
「やっぱり自分は凡人だ」と自分に言い聞かせました。たった一足の靴なのに、なぜこんなに混乱してしまったのでしょうか。
静思晨語で證厳法師がおっしゃった説法、「法空寂一切相」を思い出しました。全てを「空」にすることだという教えです。これによって心は明らかになり仏性が見えてくるのです。仏性が見えなかったら、我々の心は煩悩に煩わされ、絶えず外的な煩悩に縛られて、自由自在ではいられないどころか、他人を救済することもできません。
この時点で私は理解した気がしました。たかが一足の靴に、私の心は捕られてしまいました。命が終わろうとしている時に自在でいられるのは、全ての「我執」を捨てている時です。あの日が遠くならないことを期待して、今一刻一刻もそれを大切にして、生きていきたいものです。
 
❋注:二〇一六年八月の中旬、證厳法師が静思晨語の時間に《法華經.法師品第十》の経文を解釈されました。「大慈悲を部屋にして住む、柔軟忍辱を衣にして着る、諸法空性を席にして座る、此処にて説法する」。そして「慈悲より全ての善が生まれる、柔らかい和気が全ての悪を防ぐ、諸法空性が全てを静める」と語りました。日常生活の中で、「慈悲、忍辱、空性」の三つの法を用いて、自他に利益を持たすように励ましてくださいました。
どんな事に出会っても心には必ず「大慈悲」を抱き、どんな逆境に置かれても「柔和忍辱」を身から離さないようにします。心を清らかにし、障碍をなくし、執着から脱け出して無明を作らず、最も純粋な真理︱「静寂清澄」に帰りましょう。
NO.240