慈濟傳播人文志業基金會
慈善の家政婦
料理、掃除、雇い主の世話などの家政婦の仕事を、廖秀珠は五十年近くも続けてきた。
 それよりも彼女が力を尽くしているのは弱者家庭の訪問ケア活動である。その過程ではいろいろな困難にぶつかるが、相手によってケアの方法を変えることを知っている。
 相手が心を許してくれない時も、彼女は相手が心を開いてくれるまで、忍耐強く付き添う。
 
├訪問ボランティア  廖秀珠┤
1953年生れ、1997年慈済委員の認証取得
訪問ボランティア歴:26年
訪問時の秘訣:自分はあまりしゃべらず聞き手に徹する。家族に奉仕する心構えで尽くし、ケア対象者に人生は愛に満ち、困難がないことを感じ取ってもらうこと。常に善に解釈し、包容、感謝、足ることを知る「慈済の四神薬膳」を使い分ければ、困難に出会っても乗り越えることができると信じている。
 
夜中の三時過ぎ、廖秀珠は腹部に激しい痛みを覚え体を丸めた。救急外来の医師から卵巣腫瘍と診断され、すぐに手術するよう言われた。
「手術台の上では身動きできず、なされるがままに任すしかありませんでした。気が気でなく、怖い思いをしました」。 
廖秀珠は、慈済に参加してボランティアになったばかりなのに、「天は私を連れ去ろうとでもいうのだろうか?」と思った瞬間、彼女は無常とは何かということと、「人生は使用権があるのみで、所有権はない」という言葉の意味を悟った。病床での自分には裁量権がない。手術が成功し、健康が回復した時には全身全霊で菩薩道に精進し、奉仕することを敬虔に誓った。
 
台北で家政婦となり
恩人に出会う
 
一九九四年、突然やってきた病気は廖秀珠に、真剣に将来の道を考えさせた。手術後の休養期間、しばらく仕事をしなかったため、花蓮で慈済ボランティアになる機会に恵まれ、経験豊富な顔恵美師姐と共に家庭訪問を行った。あるケア対象者は、元々、行動が不自由で杖を使って歩いていたが、口腔癌を患ってもタクシーの運転手として一家を養っていた。
廖秀珠は「人間には無限の可能性がある」ことを悟った。やる気さえあれば、何にも打ちのめされることはない。台北に戻った後、彼女は訪問ボランティアを乗せてケア対象家庭を見舞うために、車の運転免許証を取る決心をした。その後、願いは叶えられ、「おばさん運転手菩薩」というあだ名をもらった。
貧困と病は廖秀珠にとって無関係なものではない。十二、三歳の時から家計を助けるために、小学校を卒業した後、家事手伝いの仕事に就き、その後、故郷の宜蘭県羅東を離れて台北に来た。雇い主は台北市合江街の町医者で、彼女にとっては親代わりと同じだった。人や物事に対する処世術を教え、それが彼女の人生に大きな影響を与えた。雇い主の韓医師の家庭は裕福だが、生活は倹約したもので、書道に使った紙を裏返して使うほどだった。この時に教えられた「衣類を大切にすれば着るものがあり、ご飯を無駄にしなければ食べる物がある」という言葉は、彼女の一生で役に立つものになった。
一九八九年、廖秀珠の姪が結核性脳膜炎を患った。病状は重く、昏睡状態で台湾大学病院に転院した。当時はまだ健康保険がなかったので、家族は入院の莫大な費用に悩んでいた。しかし、たまたま慈済ボランティアが隣の病床を見舞いに来た時に、彼女たちの苦境を知り、二万元の支援金を提供してくれた。そして、政府の補助とキリスト教会の寄付を合わせて、この難関を乗り切った。
廖秀珠と弟は、慈済ボランティアとは何の面識もなかったのに、すぐに支援してもらったことで、その慈悲に感動し、自分も善行して人助けすることを誓った。廖秀珠は定期的に寄付して《慈済道侶》という隔週発行の新聞を購読し、慈済のラジオ放送を聞いた。また、花蓮静思精舎の常住師匠たちの「一日働かねば、一日喰わず」という精神に一層感動し、これこそ参加に値する慈善団体であると確信した。
二〇〇三年、夫の林富裕が胃がんを患った。二度目の難関の訪れによって、生命は呼吸の合間の一瞬にあり、最後の息が吸えない時がこの世とのお別れなのだと悟った。それ故、善行するのもこの時しかなく、待っていられないのである。
家庭訪問では
いつも貧困と病の関係を目にする
 
廖秀珠は二十数年の訪問ボランティアの経験がある。この間、病のために貧困に陥ったり、貧困故に病が重くなるケースが多いことを目の当たりにしてきた。中にはびっくりするような境遇の家庭があり、とても見捨てることができない。
中枢神経がブロックされて、いつも目眩を覚える李さんは五十一歳だが、三人の娘がいて、次女は精神疾患を患っている。夫が鼻腔がんで亡くなってから十年余り後、思いも寄らず、最愛の長女が末期の胃がんに罹り、大量に吐血した。
娘の治療のために家を担保に二百万元借金したが、ローンを返済する能力はなく、家は差し押さえられてしまった。諸々のストレスに耐え切れなくなり、人生の無常を悲観して薬で自殺しようとしたが、幸いにも命は取り留めた。次女は鬱病が再発し、薬を大量に服用したことで亡くなり、長女も病に打ち勝つことができず、二人の娘がたったの六日間にこの世を去った。
李さんは知的障害のある末の娘と二人で生活しているが、運命の神様は難題を出し続けた。その娘も健康状態がよくなく、姉がキーモセラピーを受けて苦しんでいたのを見て、西洋医学を信じなくなった。
慈済ボランティアが訪問すると、李さんは話を続けるうちに必ず泣き出してしまう。しかし、ボランティアは彼女を抱いて慰め、思い切り泣いた後、彼女は再び生きていく勇気を出すようになる。慈済ボランティアの訪問は彼女にとって最も心温まる拠り所なのである。慈済の長期に渡るケアと支援の恩はいつになったら返すことができるか分らない。ボランティアは、家庭が落ち着き、余力ができた時に世の中に恩返しすればよい、と彼女に安心するよう諭した。
長女はかつて、いつか母親が他の人のために奉仕し、上人の慈悲と慈済ボランティアの愛に報いる日が来ることを願っている、とボランティアに話したことがある。彼女が亡くなった後、遺言通りに遺体を医学部の研究に寄贈した。
廖秀珠によると、この案件は二〇〇二年に始まり、二年半付き添った後終了した。病と苦難に苛まれたその一家のことを彼女は今でも忘れることができない。
慈済の訪問ケアは情報を聞き、訪問して目で確かめることができれば、精一杯支援をします、と廖秀珠が言った。ボランティアはケア世帯の拠り所となって、彼らが苦しみから解放され、プレッシャーがなくなることを願っている。
 
人は自分の価値を決めることができる
 
廖秀珠によると、慈済の慈善活動から得た最大の悟りは「苦を見て福を知り、貧を見て足るを知る」ことである。
「世の中で最も大きな力は愛であり、人間同士のわだかまりを取り除き、互いの距離を縮めることができる」。二十六年間、訪問ボランティアをしてきたが、案件の家庭はどこも苦しみに喘いでいた。縁があって支援する機会に恵まれたのであり、奉仕できる機会を与えてくれたことに深く感謝すべきだ、と廖秀珠が言った。
この世の病の苦しみを見て手を差し伸べることは福を造ることである。さまざまな人生を見て悟れば、智慧は成長する。訪問ケアの仕事は福と慧の双方を修行するもので、「外見は奉仕しているように見えますが、一番多く得るのは自分なのです」と廖秀珠が言った。
どんな人に対しても相手の身になって、真心で接するべきである。とくに悲しみから立ち上がれない人にはより多くの時間を割き、忍耐強く付き添っていかなければならない。善意で人を支援する時、まず相手を尊重し、要求を理解して初めて有益に支援することができるのだ。互いに交流する時も上人の法と静思語を多く活用すべきである。「言葉を少なくし、良い言葉を選ぶ」。良い言葉を多く使い、聞き手に回ることである。
「相手は私たちの一言で悲しみから抜け出し、人生が変わって、楽しい笑顔を見せるかもしれません。これが長年、私が慈善活動を続ける理由なのです。訪問に出かける度に、必ず胸いっぱいの喜びを持って帰ってきます」
哲学者のサルトルは、「私たちが決めたことは、私たちを決める」と言っています。即ち、「人の存在は自分が自分を造り出していること」にあり、人は自分の次の一歩を決め、自分の価値を決めることができるのである。廖秀珠は慈善に投入して苦の中から真の意義を求め、人生に無私の奉仕をする価値を見出した。
(慈済月刊五九八期より)
 
 
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