慈濟傳播人文志業基金會
林君英  僻地に愛を届ける動く城
 

色鮮やかな車が僻地に愛を届ける

一家四人が力を合わせ

おもちゃで喜びを届け続ける

子供のほか、高齢者や社会的弱者にも

 

「遊びは子供の権利です。夢は遊びから始まります」

陽光が窓の一隅に降り注ぐ。はしゃぎ声が教室中に広がる。いや、教室というよりむしろ「遊びの楽園」という言葉のほうが、この場の状況にふさわしいだろう。窓からのぞき込むと、子供たちの視線が右側の大きなビニール製の滑り台に集まっている。はしゃぎ声の多くはここから聞こえてくる。左側ではおとなしめの子供たちがブロックを囲んでおり、それぞれ両親が付き添っている。中央には「夢想遊園地」の文字入りのシャツを着た男性。保護者に中古玩具の寄付を募りつつ、一方で子供たちにモノポリーで遊ばないかと呼びかけている。この「夢想遊園地」の創設者、林君英さんだ。

 

移動玩具車で僻地集落へ

 

十年前、彼は台湾で初めてバンを運転して僻地の集落を訪れ、各国の玩具や手製の玩具を子供たちに贈った。しかし、最初は、漢人文化を象徴し、伝統と衝突する現代的な玩具を携えて先住民の村に入ったことが、当然ながら意見の相違を引き起こした。

林さんがおもちゃを持って僻地を訪れるたび、村の長老たちは、子供たちが目新しさに惹かれ、手づくりのおもちゃに対して興味を失うのを危惧した。しかし、林さんが長老たちを移動玩具車の前に連れて行き、各国の独創的なおもちゃを紹介すると、長老たちの考えは変わった。

「実際、子供なら誰でも自分だけのおもちゃを作るものです。たとえば、消しゴムでサイコロを作ったりね。遊びは人の天性です。制限され、押さえつけられているだけなんです。僕は村の長老たちに各国のおもちゃの仕組みを紹介しました。それで彼らも僕の持ってきたおもちゃが、子供の創造力を喚起するということが分かったんです」

林さんは誇らしげに言った。

移動玩具車は、金門、馬祖などの離島を除けば、台湾中の僻地にその足跡を残している。その後、彼は「愛のバックパック」活動にも協力し、ボランティアグループを組織して、僻地や先住民の集落、国外などの子供たちに中古の玩具を届けた。

「我々は、二年前に香港の映画俳優の舒淇さんから夢想遊園地に寄贈された移動玩具車に乗り込みました。車体に描かれた、鮮やかな緑色と青色のほほえむ地球は、絵本作家の幾米さんがデザインしたものです」。今では夢想遊園地を代表するロゴとなっている。車中、林さんは始終笑顔で、「僕たちはゲリラなんだ」と言う。というのは、現在の夢想遊園地の事務所は台北青年公園の隣にある軍営の跡地で、地区の里長が彼に貸したものだが、台北市はそこを公営住宅にするつもりで、そのうち立ち退きを求められる可能性が高いのだ。

車を事務所の脇に着け、荷物を下ろす。左側の一号倉庫は他の団体と共有する十坪のスペースで、中は僻地に持って行くおもちゃでいっぱいだ。三万元(一元は約三・五円)もするトランポリンが十台、子供が踏むフロアマットなどがある。はす向かいの二号倉庫の建具はすべて木と釘で作られている。これはお父さんの林文忠さんの手づくりで、文忠さんはその場で私たちに手編みのセパタクロー(籐球)の作り方を教えてくれた。時間がある時は、さまざまな場に出向いて教えている。高齢の文忠さんも実際の行動で子供たちの理想を支えている。

 
 
中古玩具に新舞台
 
上図)林さんは台北市内の東区地下街に青と緑のマットを敷いて、親子の遊び場を作った。
下図)青年公園横の軍営跡地が林さんの事務所だ。屋外には恐竜のボックスを置いて中古玩具を寄贈してもらっている。27項目に分類したおもちゃを透明なペンケースに詰め、バーコードを付けて、僻地の学校に行った時、子供たちに貸し出ししている。
 
 
古いおもちゃに新しい生命を
 
林さんは自治体の設置した親子館とも協働している。彼は私たちに親子館の中を案内してくれた。壁には世界各国の国旗や景勝地の写真があって、子供たちが写真を撮れる。傍らにはそれぞれの国の伝統衣装が飾られている。壁際のガラスケースには、林さんが各国から収集したおもちゃが置かれている。マレーシアのマンカラ(ゲーム)、香港の虎頭帽、日本のでんでん太鼓、韓国のめんこなどだ。そのそばの床には八の字型のボールプール。池からボールが溢れないような設計になっている。
プレイホールに入ると、床にはパズルマット。青と緑が入れ違いに敷き詰められている。プラスチックの滑り台、ままごと遊びに使う小部屋などもある。緑色のラベルは中古の玩具であることを示している。壁のそばには、林さんが特別に抜型工場でデザインした「紙れんが」があり、子供が上に立ったり、想像上の建物を作ったりすることができる。彼が大好きなおもちゃの一つだ。傍らの棚にはクリーニング済の透明のペンケースが詰まっている。これはナンバリングしてバーコードを付けて使う。移動玩具車が僻地の学校で活動を行った際に、家でも遊べるようにおもちゃを貸し出しているのだ。
保管室に入ると、まだ分類されていない玩具が所狭しと並べられている。おもちゃは当初十六項目に分類されていたのが、現在では二十七項目になっている。おもちゃのクリーニングのやり方も決まっていて、水に浸して刷毛で洗ったら自然乾燥し、乾いたら分類してしまう。
このほか、「おもちゃのお医者さん」(Dr.Toy)団体と連携している。「おもちゃのお医者さん」は毎週火曜日、木曜日に親子館でおもちゃを修理してくれるほか、その他の時間は新泰小学校に行って、物を大切にする気持ちを育てている。たとえば自家製の天然蜜蝋ワックスを木の器具に塗るのは、衛生と保護の効果がある。古い洋服ダンスの中にベニヤ板を何枚か増やし、標本瓶を置けば、ディスプレイ棚に変身だ。以前は機械修理をしていた李昇両さんは、ここでおもちゃのお医者さんをしている。「お客さんの多くは、おもちゃそのものの価値を求めて来るわけではなく、大切な思い出を残したいといって古いおもちゃを直しに来るんです」と話す。
林さんも笑って言う。「私はシステム派でおもちゃの医者は実務派なんです。私はよく元の部品を探してきて組み立てるわけですが、おもちゃの医者は他にはない代替品を作るので、最後は使うのがもったいなくなってしまうんです」
 
学校だけでなく僻地や被災地にもはるばる足を運ぶ。対象はお年寄りにも広がっている。
 
心のこもった玩具で
病気の子供やお年寄りに寄り添う
 
移動玩具車が赴く先は学校だけではない。末期癌の子供が入院する病院もある。林さんは、いろいろな色のプラスチックの椅子を並べ、床に電車のレールを置いて、病室をおもちゃの部屋に様変わりさせてしまう。全身に点滴の管を付け、顔全体をマスクで覆ってはいても、遊びたいと思う生まれつき備わっている心は変わることはない。小さな瞳がきらきら輝く。
林さんはまた骨肉腫の患者のために「骨細胞」人形もデザインした。分かりやすい説明と癌細胞をかたどった人形で、自分たちが入院している原因や自分の身体の状況を理解できるようになっている。現在「手脚の切断人形」を開発中で、義手や義足を使用している子供に贈る予定だ。こうした人形の教育的意義は大きい。
さらに、手づくりの布の裁断機で「視覚障害児のためのケーキ」を作ろうと考えている。視覚障害の子供はケーキの匂いをかいだり、味わうことはできるが、ケーキに触ってもとろけてしまうだけだ。林さんは触感のあるケーキを作ろうとアイディアを巡らせている。夢想遊園地のボランティアたちもそれぞれ特技を持っている。曽鑠鑠さんは、ベビーシッターの試験の際に林さんと知り合い、協会の理事となった。時間があると壊れたおもちゃを縫い直したり、外での展示の際に使うディスプレイ器具などを準備したりしている。邱育溱さんは以前は北投親子館の館長をしており、両親と子供を連れて僻地への活動を行っている。彼女は手脚の動作をコントロールできない脳性麻痺の子供に会ったことがある。トランポリンを見て興奮して意志の力でトランポリンによじ登って遊んでいたことに、心を打たれた。一緒に来た子供もボランティアという意識はなく、ただ友達と一緒に遊んでいるという感覚だ。
ここ数年、林さんは子供のための新しいおもちゃを研究開発したり、視察したりする以外に、大人用玩具の改善にも力を入れている。たとえば、お年寄りを対象としたシルバーゲーム大会を開催し、四色牌、ラミー、マージャンなどを楽しんでもらった。知育ゲームのクイズや説明書は拡大し、ラミーのルールは簡略化して、お年寄りにも遊びやすくした。今後は香港のお年寄りを台湾に招いて、一緒に国際シルバーゲーム大会に参加してもらいたいと考えている。
林さんがお年寄りのためのゲームを作るのにはわけがある。「台湾では多くの人が年をとるとマージャンをするかテレビを見るかしかありません。記憶が衰えてくると、マージャンの打ち方も忘れてしまって、毎日テレビを見ているだけになります。だから、お年寄りにも面白いゲームをたくさん覚えてもらうことで、記憶力が衰えてもできる遊びがあるようにしたいんです。それによって家族との感情的なつながりも保ってもらいたいと思っています」
二○○九年八月に台湾南部水害が発生した時も林さんの姿があった。当時、南部の被災者の置かれている状況が気になった彼は、すぐに現場に駆けつけた。途中、高速道路が渋滞し、高雄の愛河が氾濫するなどの困難に見舞われたが、彼はあきらめずに避難所にたどり着き、幼児ケアスペースを設置した。子供玩具車を運転して、里加、新美、甲仙、那瑪夏、獅子郷、林辺などの被災地を巡り、大人たちが緊急救助に手一杯の間、彼はいつもと同じように、避難所の中の子供の面倒を見た。
 
林さんの父親はタイのセパタクローを改良して、作りやすい編み方を考えた。
 
 
一家四人が被災地を行く
 
二○一一年、日本の宮城県沖の太平洋でマグニチュード九・〇の大地震が起き、巨大津波が発生した。その後、林さんは一人で被災地へ行き、自治体職員と連絡を取り、台湾南部水害における「被災児のケア」の経験を仙台市でも行いたいと申し出たが、初めは日本の自治体職員は反対した。当時、各国のNGOはよい支援の方法が見つからなかった。しかし、林君英は自治体職員に英語で企画書を説明し、日本側もこの前代未聞の方法を試してみることにした。
双方が共通認識に達した後、林さんは台湾に戻り、仙台市へのボランティアを募った。しかし、当時、原発の放射能漏れにより発がんリスクが極めて高いという噂が広まっており、参加の意志を持ったボランティアたちも家族の反対であきらめ、最後は林さん一家四人だけになってしまった。
二人の息子は林さんの影響で僻地や病院で奉仕することを誇りに思うようになっていた。アンディ(長男の林邦沢)とジャッキー(次男の林邦鼎)は、小さい頃から父親と僻地や病院で活動を行っていた。東日本大震災の時、彼らはクラスメートに被災地への励ましのメッセージを募った。ぎこちない日本語で書かれた百枚のカードは、彼らの手で仙台に届けられ、被災地の子供たちを励ました。「言葉は通じなくても、おもちゃで遊べばすぐに仲良くなれたし、日本人と台湾人の違いは何も感じませんでした。遊びが大好きってことは同じですから」と、ジャッキーが補足した。
仙台市在住の「台湾婦女会」の通訳ボランティアの助けを借りて、林さんは子供たちとビーズ遊びをした。さまざまな色のビーズをピンセットでつまんで型枠に入れ、自分の好きなデザインに並べる。断熱紙を敷いてアイロンで伸ばしたらビーズ画のできあがりだ。それから、「感情発散」式の遊びもある。バラエティ番組でよく見られる大きなビニールの球に空気を入れ、その中に人が入る。それを他の人が押して回してストレスを発散するのだ。滞在期間中、仙台市には各国の機関が視察に訪れていたため、ホテルはどこもいっぱいだった。林さん一家は簡素な旅館に泊まるしかなく、一枚の布団に身を寄せ合って夜を過ごした。そして、日本側がプロセス全体に習熟した後、帰国した。
林さんはあるフォーラムで一人のカンボジア人と知り合った。この人はカンボジアの地元に図書館を開いて子供たちが読書できる場を作っていた。そして、村の医療に対する考えが変化に対応できておらず、精神障害者に対して恐怖や無理解から、彼らを部屋に閉じ込めるなど、手荒な扱いをしているということに気づいた。そのことで、彼らが行動できる空間が足りないだけでなく、彼らが一生の中でより多くの活動を行う可能性を奪っているという。このことを聞いて、林さんは遊びを通じて、寂しさを癒やしてもらおうと自費の千元で現地におもちゃを届けることを決めた。
「祖父は思いやり深い人で、我が家には生活に困って身を寄せる人がいました。毎日テーブルを二つ、この人たちのために用意していました」と林さんは言った。彼は幼いころから知らず知らず奉仕の精神を心に刻み込んだのである。
二十四歳の時、熱傷病棟のデータベースシステムの管理を手伝った。二十八歳の時、エデン基金会でCEOの秘書を務め、組織内部の作業を担当した。これらの過去の経験が玩具の片付けの仕事にも生かされている。第一線での活動にこだわる彼は、輔仁大学の教員になる可能性を捨てて非常勤講師になり、中古玩具の募集と、子供たちのためにさまざまな特殊なおもちゃを設計することに全力を傾けている。
妻の邱秀玲さんは彼の事業を支え続けている。彼女は主に事務系の業務を担当している。数年前に超音波検査中に腫瘍が見つかったが、幸い良性で、切除後は回復に向かっている。林さんは三十二歳の時に、突如、臨床上致死率が九割という急性心筋梗塞の発作を起こしたが、幸いにも当時病院での検査中だったため、すぐに緊急治療室に移されて一命を取り留めた。しかし、三十七歳の時、C型肝炎にかかっていることが分かった。「私たち夫婦は、悪い心の持ち主なんです」とユーモアたっぷりに話すが、その言葉には苦労がにじんでいる。
このほか、林さんは子供の時からリュウマチを患い、天候が変わると手や足が痛む。食事の時に、彼が痛み止めを飲むのを見たことがある。昨年、海外で大病を患い、帰国後も仕事を続けたため、一時的に聴力を失った。二カ月の治療を経てようやく徐々に聴覚が戻ってきたが、今でも若干音の聞こえが悪い。
学校での活動中、リュウマチで足が痛いため端っこの方に座っていたら、花蓮の僻地の子供たちの会話が聞こえてきた。「トランポリンで遊んだことある?」「ない。これが初めて。前に夜市にトランポリンがあったけど、一回百元だったの。お金ないからできなかった」。この話を聞いて、林さんは自分のしていることは意義があると思った。彼は立ち上がった。病気があってもこの事業は続けなければならないと思った。
 
骨肉腫患者のために作った骨細胞人形。
 
 
おもちゃのお医者さん、李昇両さんはおもちゃを修理し、物を大切にする気持ちを育てている
 
遊びから夢と愛を
 
移動玩具車は子供と一緒に遊ぶだけで、たいしたことではないと思う人もいるかもしれない。そう思うのは、方法は違えど「遊び」も一つの学びだということを忘れているからだ。林さんにとって、おもちゃが学びの教材なのだ。子供ボランティアを訓練し、ゲームで遊ぶことで、仲間同士のコミュニケーションを促し、世界各地の創意工夫に溢れたおもちゃで、想像力を刺激し、視野を広げているのである。それだけではなく、リサイクル玩具を使うことで子供たちが資源を大切にすることを学び、二酸化炭素の削減にも寄与している。
 
この10年、林さんは移動玩具車で台湾中の僻地を巡り、日本や香港まで足を運んできた。中国で部品の流通ルートを探し、カンボジアで実践した。夢想遊園地を作った初志を胸に、おもちゃによって子供の中に元々備わっている創造力を引き出している。
 
活動当日、ジャッキーが親切に紙れんがの遊び方を紹介してくれた。教室をさっと見渡した後、彼は満足そうにほほえんだ。「見てください。これが私たちの活動の目的なんです。今まで百回もの活動に参加してきましたが、会場が笑声でいっぱいになるたび、やっぱり感動します。父は新しいおもちゃを買うお金はなかったけれど、創意工夫があれば簡単な材料でもびっくりするような新しい遊び方ができるんです」。一家全員が人の笑顔に満足を見いだしているのである。
成功の定義はさまざまだ。財富、権力、名声もそうだろう。しかし、ある人たちにとって、幸せの定義はいたってシンプルだ。自分の周りにいる人のうち何人が目を輝かせているかだ。林さんは、世間の目で自分を評価しない。どれだけ無私の人が彼の後ろに立っているか、助けが必要な時、手をさしのべてくれるかで、自ずから明らかなのだ。
(経典雑誌219期より)       
 
 
NO.240