慈濟傳播人文志業基金會
貢寮の娘、 頼玉梅
いつも静かな貢寮は頼玉梅の故郷である。
彼女は誰も知らない山間部の事実に耳を傾ける。
 
├訪問ボランティア  頼玉梅┤
1953年生まれ。1994年、慈済委員の認証取得
訪問ボランティア歴:24年
訪問時の心得:弱者家庭を訪問するに当たって、「私たちでなければならない」と気負って人助けをするのではなく、心して付き添い、成果を気にしないことである。様々な人生に深く関われば関わるほど定められたそれぞれの道があることが分かる。
 
 
貢寮と聞けば、ふつうの人は建設が中止となった第四原子力発電所や、毎年行われる国際海洋音楽祭を思い浮かべるだろう。台湾の東北端に位置する貢寮は、面積が新北市の五パーセントを占めるが人口はわずか三パーセントである。人がまばらな広い土地は都会の人にとっては雑踏から離れるのに格好の場所だが、北部海浜道路が開通する前は交通が非常に不便な所だった。貢寮で生まれ育った慈済ボランティアの頼玉梅が学校に勤めていた時、そこに配属された同僚の一人が夜中にいなくなってしまったことがある。「ここは静かすぎてとても住めない」。これが外部の人から見た貢寮である。
六十四歳の頼玉梅の故郷は貢寮龍崗村で、伝統的なしきたりが残る村である。末っ子の彼女は小学校を卒業する時、進学すると言い張り、母親は根負けして進学させた。彼女は当時の村で唯一女の子で中学校に進学した。
多くの村人は文盲で、頼玉梅は時折、彼らが親しい人に出す手紙の代筆をしたり、扶助会の帳簿を見てあげたりした。ある時、村人が服毒自殺を図って遠くの病院に送られたが、医者は電話で回り回って賴玉梅を探し当て、その人が服用した薬物の名称を見てきて欲しいと彼女に頼んだことがある。しかし、薬の瓶に書かれてあったのは彼女にも分からない英語だった。「大きくなったら、村人の手伝いをしたいと思いました」
後に彼女は慈済訪問ボランティアになり、二十数年間、貢寮で弱者家庭の世話をすることで、少女時代の思いを実践している。
 
表面的なことはしない
 
二十数年前、頼玉梅が初めて花蓮の慈済病院で医療ボランティアをした時、若くて彫の深い美しい顔立ちの先住民を世話した。片親の家庭で育った青年は服毒自殺を図った。「こんなにハンサムで、五体満足なのに、どうして自殺なんかしようと思ったのだろう?」と平凡な人生を送って来た頼玉梅は不思議に思った。
翌日病室を訪れてみると、青年はとても元気だったので、彼女は一安心した。しかし、三日目に突然死んでしまったのだ。「その時、私はとても悲しみました。人生というものが分かりませんでした」
その衝撃的な経験から、外側は立派で明るく振るまっていても、内心には誰にも言えない苦しみが鬱積しているかもしれない、と頼玉梅は理解するようになった。その時から彼女は、本当に人助けするのなら、積極的に相手の話を聞いて観察し、背後で苦しみを作った原因を理解する必要があることが分かった。
初めての医療ボランティア経験がこの二十年間の人助けに役立ち、弱者家庭を訪問する時に一層気を遣い、相手の身になって問題点を見い出そうとするようになった。
人助けの道は平坦なものではなく、彼女はいつも貧しい人や病人、独居老人または堪え難い環境と接し、必要な限り付き添っている。その多くが貢寮の人たちである。
初めのうちは賴玉梅も汚さと臭いに慣れなかったが、何度も経験するうちに「捨て身」になることができ、次第に何とも思わなくなった。それが一歩進んで、そういう奉仕が人生の責任であり、使命であると思うようになった、と彼女は言う。
 
いつでも困難に立ち向かえる
 
冷たい雨の降りしきる冬でも、三十五度を超える灼熱の夏でも、頼玉梅はボランティアと一緒に毎月、貢寮の貧困家庭を訪問する。中には十数年間も訪問を続けている家庭もある。
貢寮では祖父母が孫を育てている家庭が少なくない。「若い世代は遠くで働いていて、子供の世話ができないので、貢寮で祖父母が面倒を見ているのです」。お年寄りたちが健康であれば、まだ世話できるが、生活教育の面では簡単にはいかない。持病があっても自分の面倒を見てくれる人がいないお年寄りもいる。
長年、血液の透析をしている阿澤は右目が失明していて、左目も弱視で、重度身障者手帳を持っている。ボランティアは彼の健康状態に留意しサポートしている。子供の学費は政府が援助しているほか、足りない分は慈済が支援しているので、気にかけないよう励ましている。阿澤のように長年社会福祉の世話になっている家庭では、子供の教育こそが一家の希望であることをボランティアは知っている。
頼玉梅が長期的に訪問しているのは二十世帯ほどあり、各世帯異なった状況にある。定期的な生活補助のほか、ボランティアは毎月訪問を終えた後、補助金の調整や家屋の修理が必要かどうかなどについて意見交換を行う。
 
医療を送り届ける
 
新北市貢寮区の人口はわずか一万三千人で、統計によると若い人が外部に流れるため、六十五歳以上の人が二十パーセントに達している。この地域の高齢化現象は「超高齢社会」の規準に達しており、それが医療問題にも顕著に現れている。
貢寮澳底保健所では、頼玉梅がよく知っている眼科の蔡医師が月に一度診察するだけで、漢方医もいない。辺鄙な地域は医療資源に乏しく、交通も不便で、お年寄りの多くがバスや誰かの車で保健所に行っている。大病院に行く時は、基隆でも台北でももっと時間がかかる。二〇一四年末に基福公路ができ、基隆の病院に行く時間が大幅に短縮された。
北区慈済人医会の医師や看護師、薬剤師たちがボランティアで定期的に貢寮を訪れて村人の施療を行うようになってから十五年になる。貢寮区は広域で、住宅は密集せず散らばっている。もし、医療を必要としている村民がいれば、あらかじめ現地のボランティアが準備する必要がある。毎回の活動では、事前にビラを配布して村民を招き、施療の場所や往診の経路などを計画している。
「招待しないとお年寄りたちはあまり来ませんから。仕事したり家にいることが多いのです」。お年寄りは我慢できれば医者にかからない。体の調子が悪ければ薬を買って飲み、目がかすめば目薬を差して済ますのを賴玉梅はよく知っている。それゆえ、彼女は自発的に送迎車を出して、村民の健康を護っている。
 
世話してくれる隣人
 
頼玉梅は二十歳の時、貢寮中学校に勤めていた。澳底、福隆、龍洞、馬崗などから通う生徒が下校するのに合わせて、彼女も毎日午後三時半に帰る準備をしていた。ある同僚が独身の彼女に、「他に何かしてみたら?」と慈済の募金集めを勧めた。
一九九二年、頼玉梅は慈済のお茶会を開き、慈済委員に講演してもらった。当時、彼女は婦女会の常任監事をしていて、宗教に興味のある友人を数人招待した。その日はとても暑かったが、 澳底小学校の会場にはクーラーがなく、二百人ほどの来場者は皆、汗びっしょりで参加した。しかし、催しが終わった後、多くの人がこぞって慈済の会員になった。
その年に頼玉梅は、台北から来た先輩の訪問ボランティアと一緒に、本格的に貢寮での貧困者ケアを始めた。それら弱者家庭の場所を熟知するために、彼女は仕事帰りや休日に車であちこち回った。時には番地が少し違うだけで遠く離れていたり、一つ向こうの山の頂にある場合もあった。辺鄙な吉林山や双溪の一番奥にある泰平村などでは滅多に人に出会うことはなく、道を尋ねようにも人っ子一人いない。例えいたとして、教えてくれても、目的地に辿り着ける保証はない。彼女は社会から遠く離れた地域があることを知り、もっと関心を持つべきだとつくづく感じた。
 
積極的になるにも縁が必要
 
細い体の頼玉梅は風にも吹き飛ばされそうに見える。性格は神経質で注意深く、仕事の動作が速いので、誰も彼女の右目が千二百度の近視だとは気がつかない。彼女は一人で生活することに慣れている。ある時、数人と一緒に歩いていたが、足の長い彼女は気がつくと、友人たちから遠く離れていたことがある。
田舎の人らしい純朴で人と争わず控えめな性格は彼女の仕事ぶりにも現れている。せっかちで責任感が強く、いつも仕事をさっさと片付けようとする。しかし、職場での昇格を考えて仕事をすることはない。二十数年間のボランティアもそういう心構えでやってきた。
六十歳を過ぎた頼玉梅は独身で、学校を退職してからは経済面でのストレスも家庭の悩みもない。自分の人生は平凡で大したことはないが、訪問ケアの過程で、弱者家庭の様々な状況や経済的な悩み、長年の病による心身の疲弊などを見てきたことで、彼女は見解と悟りを無限に広めたと思っている。生活は平凡でもいいが、人生は「愛」がある故に非凡なものになった。
(慈済月刊六〇〇期より)
 
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