慈濟傳播人文志業基金會
嵐を越えて

事故で負傷して以来、自由に出かけることができなくなった。風景を描くことでその失望を癒していった。

とりわけ樹木や草花は、どんなに強い雨風に打たれても生気に充ち溢れている。この大自然の姿が彼女の励みとなった。

 

「お父さん、私の絵が台中港区芸術センターに展示されることになったから、絶対見に来てよね!」

「わかった、わかった、見に行くよ。」

周玉茹は八十才近くになる父親を連れて、台中市清水にある台中港区芸術センターに展示された作品を鑑賞しに出かけた。広々とした展示場のなかで、父子は幸せなひとときに浸りながら、父親がついにこう言った。「とても良く描けているじゃないか。これから全力で描きなさい!」

二〇一五年、口で筆をくわえて描く画家、周玉茹の作品が台中港区芸術センターに展示された。そしてこの時、彼女は休日を利用して人通りのある広場で絵を描き始めた。美しい顔立ちと愛らしい笑顔、車椅子に座ってはいたが、そのモデルのような佇まいに多くの人が引き付けられ、足を止めた。

「お母さん、あの人はどうして口を使って絵を描いているの? 顔はどう洗うの? 歯磨きは?」

子供の不思議そうな眼差しに気づくと、周玉茹は筆を止めて、どう口を使うのかを見せ、力の入らない両手で、ゆっくりと絵具を開き、色を合わせて見せてあげる。このやり取りを通じて、子供たちに命の授業をしているのだ。

「どうして口や足で描く画家は風景画を描くのが好きなんだい?」と興味本位で聞いてくる人もいた。

「皆さんの愛のおかげで、私はここに来れました。とくに大自然の樹木や草花は、強い雨風に打たれても、生気に満ち溢れているでしょう。これも私の励みになったのです」と周玉茹は平然と答えた。

口に絵筆を含み、周玉茹は無我夢中で皆からの思いやりを繋げた美しい風景をキャンバスに描き出してゆく。

 

父親の老いた姿

 

周玉茹は台中市清水区の純樸な田舎に生まれた。建築関係の仕事に就く父親は毎日朝早くから夜遅くまで雨風に打たれ、日に晒される中で働き、苦労してお金を稼ぎ、子供六人を育てた。父親は違う分野を専攻していたが、専門的な設計図を描く能力がある。周玉茹は幼いころから知らぬ間にその影響を受け、設計図についてある程度理解していた。

高校卒業後、周玉茹は仕事を始めた。美しいスタイルと愛らしい顔つき、また活潑な性格で、彼女は同僚達のマドンナとなった。ほどなく、彼女は理想の白馬の王子と出会い、幸せな結婚生活を送ることになった。

しかし、その幸せは長くは続かなかった。夫は仕事でうまくいかないことがあると、癇癪を起こして彼女に暴力を振るった。清水の媽祖廟で手を上げられたこともあった。「百人以上の人が見ていましたが、助けてくれる人は一人もいませんでした……」。最終的には彼女の両親がその知らせを受け、すぐに病院へと連れて行った。

夫と別居後、周玉茹は仕事が落ち着いたら再び息子と一緒に生活しようと考えていたが、そう思い通りにはいかなかった。一九九六年のある晩、仕事を終えてオートバイで帰宅する途中、路面のくぼみを避けようとした際にオートバイごと投げ出されてしまった。

「私は今どこ?助からないのかしら?」。病院の集中治療室で意識が朦朧とする中、父親と医師のやり取りらしきものを聞いた。「もしかすると寝たきりになり、呼吸器が一生手放せなくなるかもしれません」

「仮に娘が半身不随になったとしても、私が面倒を見ます。お願いですから、どうか娘を救って下さい……」。父親は一心不乱に医師に懇願していた。

周玉茹は泣くに泣けなかった。全身に管を繋がれ、その身体は大きな石に押し潰されたようだった。「どうしよう?息子を連れ戻せなくなるわ……。いったいどうしたらいいの?」

この不慮の事故が彼女の未来を奪い去っていった。身体の傷と心の苦しみは、見えない鎖のように彼女の心を締めつけた。集中治療室では流動食を体が受けつけず、急性胃出血を起こした。まるでむごい方法で自分を痛めつけることでしか、神様の残酷な仕打ちに抗えないようだった。

その時期、父親は病床の傍らにラジオを置き、周玉茹が夜中に目を覚ますと、ラジオをつけてくれた。父親は娘のその美しい長い髪を切り落としてしまうことが惜しく、水を運んで髪を洗って、娘の美しい姿を守り続けた。

年老いた父親は、娘の看病のためにぐっすり眠れる日はめったになかった。ある晩、周玉茹は喉に痰がつまり、うまく呼吸ができなくなったが、疲れ果てて眠っている父親を起こす力もない。指を動かして病床の傍らにあるビニール袋を取ろうとし、その音で父親を起こそうとしたが、振り返って見ると、父親の髪はすっかり真っ白になっていた。

周玉茹は驚いた。「お父さんがどんどん老けていっているわ。ここ数年私の婚姻と家庭のせいで苦労をかけっぱなしだった。それに半身不随の私の面倒をみるために、ゆっくり休めなかったのね……」

 

さまよう心を信仰で落ち着かせる

 

リハビリは新たな苦痛の始まりだった。入院期間中、リハビリ科の医師とキリスト教徒の患者が気にかけて病室に来てくれた。

「周さんは何か信じていますか?」

「いいえ」。彼女は頭をふった。

この患者は周玉茹よりいくつか年上で、彼女にあらゆるリハビリの経験を教えてくれ、また彼女と一緒に聖書を読んでくれた。「お祈りの力はとても大きいですよ。どんな困難に突き当たったとしても、神様に祈ることができるのです」。敬虔な祈りの声の中、周玉茹は暖かな力を感じ、さまよっていた心をしっかりと落ち着けることができた。

その後、キリスト教徒の友人たちは頻繁に病室を訪れ、周玉茹のために祈り、物心両面で彼女をサポートした。彼らの慈愛が、渇き切っていた彼女の心を潤し、周玉茹は安心して神様に自分を委ねられるようになっていた。

退院後、周玉茹は清水の実家に戻り休養した。娘が戻る前に、父親は家をバリアフリーに改装し、玄関から寝室、浴室に至るまで、娘の立場に立って考えつくしていた。

父親のゆるぎない愛があったからこそ、周玉茹は拠りどころを見つけ、新たな人生を歩み始めることができた。

「父も年を取ったし、癌も患っている。ここ数年、兄や姉が助けてくれているけれど、彼らにも自分の家庭があるし……」。周玉茹は自立するための生活能力を必死になって身につけ、父親の負担を減らそうとした。

「はじめは父も心配して、携帯電話を持って外出するように言いました。時間をおいては何度も電話をかけてきて、私がどこにいるか確認してきました」。一人で買い物に行ったり、郵便局に行ったりするところから、教会での礼拝に至るまで、徐々に電動車椅子に乗れるようになり、清水の大通りや小路を自由に行き来できるようになった。

台中市清水区南社里教会の牧師夫妻や仲間たちの助けもあり、教会は彼女にとって第二の家となった。教会は事務の仕事を与えて彼女の収入を補うだけでなく、牧師夫人は教会のウェブサイトやポスターをデザインする機会を与えてくれた。数年にわたってデザインの経験を積み、絵を描く際の構図の基礎を固めた。

二〇一二年、桃園市脊髄損傷潜在能力開発センターがパソコン建築製図訓練課程を開設した。職業訓練局の審査を通過すれば、訓練受講生として仕事を紹介してもらうことができた。

周玉茹の健康状態は受講生の中で最も思わしくなく、父親でさえ彼女に期待していなかった。「私は二十年設計図を描いてきたが、この種の設計図は専門的で複雑な線ばかりだ。この状況でどうして描くことができる?」

周玉茹は父親のやり切れない思いを理解できたが、この仕事の機会を摑むため、彼女はためらうことなく家を離れ、遠く桃園にまで授業を受けに行った。

彼女の身体は長時間座ることができず、両手はいつもだるかった。日中パソコン室で設計を学び、夜宿舎に戻るとベッドに横になり復習をした。彼女はいつも首で本を挟みながら読み、徹夜をしていたため、目覚めた途端、首筋が固まり全く動かなくなってしまったことがあった。しかし、身体が痛むからといって、退学を考えることはなかった。パソコンの先生は、より長い時間練習ができるようにとノートパソコンを貸してくれた。休日、同級生が遊びに出かける際も、彼女は宿舎に残り、両手に力が入らないことを補うように、パソコンを抱えて設計図を描いた。

資格試験で最も難しいことは、一定の時間内に設計図を完成しなければならないことだ。だが、たゆまぬ努力の末、周玉茹の描いた建築設計図はついに試験に合格した。修了式では大勢の喝采の中、パソコン建築設計3級の資格を手にした。

 

暖かな光に照らされて

 

資格取得後、周玉茹は桃園に留まり就業前の実習課程を受講し、台北の建設会社で働くつもりだった。しかし、北部のじめじめとした寒さが持病の副鼻腔炎の発作を招き、ひどい目眩に襲われた。そこで、彼女は清水へ戻り、沙鹿童総合病院に入院して手術を受けた。やっとの思いで手にした建築設計の資格も、彼女に平穏な日常をもたらすことはなかった。

童総合病院耳鼻咽喉科の主治医である蔡青劭医師は敬虔なキリスト教徒だった。周玉茹の凝血機能が低いことを知ると、従来の手術では出血量が多くなるため、最新の低侵襲手術を受けるよう薦めた。もちろん手術費用は自己負担となるが、周玉茹の努力とその窮状を理解し、彼女は何も言わずにこの費用を負担した。

ある時、周玉茹が写生に出かけて車に乗り移ろうとした際、不注意で負傷し、大腿骨を骨折してしまった。術後、実家に戻り休養していたところ、病院のソーシャルワーカーが彼女に慈済台中支部を紹介した。

「必要ありません、彼らの助けは受け入れられません」。周玉茹の脳裏には十数年前に清水の媽祖廟前での苦しい記憶が浮かんだ。

「周さん、私たちは慈済の訪問ボランティアです。傷口はまだ痛みますか?」彼女が退院するや否や、青いシャツと白いズホンに身を包んだ慈済のボランティアが訪れた。ボランティアたちは、周玉茹の体がまだ痛むためエアーマットレスが必要なことを知ると、すぐにリサイクルの医療器材の中からちょうどよいマットレスを見つけ出し、家に運び入れた。

何度かやり取りを重ねるうち、周玉茹も次第に慈済の人たちに心を許していった。彼女が最も感動したのは、「慈済の人々は私を助けてくれますが、改宗を強要しない」ことだった。

教会の兄弟姉妹や慈済ボランティアの温かなサポートのもと、彼女は執着心を手放し、無私の愛の灯台が自分の心に建っているのを感じた。大海原の船がそれに導かれるように、周玉茹も生きることへの希望と感謝の気持ちを持ち始めた。

「どんな試練に直面しようとも、多くの人から愛を与えられているから、私は持ちこたえなければなりません。私も頑張ってこの愛を伝えて、健康を大切にするよう、多くの人を励ましたいのです」

教会と脊髄損傷協会が周玉茹を講師に、学校や機関で生命の教育講座を企画し開催した。周玉茹が講座で話した人生経験は、学生や脊髄損傷患者の大きな励みとなった。

 

心の美しさ

 

命は学びの旅である。人生という名の台本において役柄ごとに異なる風采を体験することになる。周玉茹は決して順調ではない年月を経験したが、感謝の心で神様が与えてくれた自分の役柄を受け入れた。

二〇一四年、台湾夜合花姉妹創業就業協会が第一回脊髄損傷者「心愛美人」というミスコンテストを主催した。この活動は同じ脊髄損傷者を励ますこと、またこの活動を通じて企業に障がい者たちの努力を見てもらい、就業の機会とリソースを提供することを目的としていた。周玉茹は協会と教会仲間の応援と推薦を受け、この活動に申し込んだ。

「参加したくありませんでした。ただ静かな日々を送りたかったので」。彼女は唇を尖らせ、当時の複雑な心境を振り返ったが、やはり感謝の気持ちに溢れていた。

コンテストの活動期間、周玉茹は四十二名の障がい者たちと、専門の講師による作法と化粧の講座を受け、車椅子に座っている時の頭のてっべんから爪先までの姿勢や手足の置き方、表情に至るまで指導を受けた。

「一番難しかったのは化粧です。眉毛を描き、アイシャドウを塗るのことに、とてつもない時間と体力を使わなければなりません。前回は化粧に一時間もかかったので、活動に参加する日はいつも早起きしています」

皆の目に映る気品のある美しさは、周玉茹がその委縮した両手で時間をかけ描き出したものだった。美しい顔立ちと輝く眼差し、彼女の全身から放たれる自信で、第一回「心愛美人」コンテストの第三位を獲得した。

コンテストの訓練後、周玉茹はどんな場面でも、まるで蛹から孵った蝶のような気品のある美しい姿を皆に印象づける。

「怪我をしてから絵を学びたいと思いましたが、家族には身体障がい者が良い作品を描けるものかと決めつけられました。まして絵を描いてどうやって生きていくのかと」。ずっと可愛がってくれた父親でさえ反対した。

「手で描き始めた時は、タッチを描き出せなかったので、口で筆を噛んで描くことを試みましたが、頸椎に負担がかかり、少し苦労しました」。彼女の頸椎は損傷したので、ふつうの画架は彼女に適さない。多機能画架は機能的ではあったが、値段が高すぎた。慈済ボランティアの楊密は家計の苦しい周玉茹が画材を欲しがっていることを知ると、こう励ました。「絵を学びたいのなら、全力で取り組むべきです。私が一緒に店に行きますから、必要な道具を全て揃えましょう」

道具や顔料の提供だけでなく、楊密は周玉茹の父親と連絡を取り、娘の夢を応援するよう訴えた。

二〇一四年、油絵仲間の紹介で、周玉茹は台中脊髄損傷協会油絵教室に申し込んだ。指導講師であった阮麗英は道具の活用方法から、顔料の基本概念まで指導し、彼女に油絵を教えた。加えて油絵仲間の経験を聞いたり、作品の模写から始め、徐々に思い描く風景を描きだし、周玉茹は一筆ずつ自分自身の作品を作り上げていった。

「先月、第一回脊髄損傷協会ミスコンテストの謝恩会に参加して、『感謝の道』という絵を描き、コンテストへ協賛してくださった方たちへ感謝の意を表しました」

「あの絵の色使いは赤と黒の対比だけなんですけどね」。周玉茹は子供のように笑ってこう言った。「あの絵を描いていた時、ちょうど台風が来ていたんです。それにたまたま看護師長が部屋の前を通りかかって、部屋に入ってきて絵を見て驚いて聞いてきたんです。『玉茹、台風を描いているの? どうして黒と赤だけなの?』って」

「台風の中、絵を描いていた時、生きていると様々な雨風に遭遇するんだなと感じました。それに嵐が来る前には、空に真っ赤な雲が現れるんです。絵の中に描かれた道は、皆さんの愛があったからこそ、私は道を切り開くことができ、あの嵐のような日々をのり越えられたことを表現しています」

(慈済月刊六〇一期より)

 

 
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