慈濟傳播人文志業基金會
貧と病
太平洋とカリブ海の間に浮かぶホンジュラスは       
中南米の最貧国と言われている 
病院では薬品と設備が欠乏し      
国民は貧と病の二重苦に苦しむ    
人々は医療救助に一縷の望みを抱いている 
 
ホンジュラスの首都テグシガルパ郊外にあるスヤパー職業学校は、週末になると夜も明けきらぬうちから多くの人でにぎやかになる。ホンジュラスの主食であるカスティリャ・デ・ピラ(小麦粉を薄く焼いたもの)の屋台や、呼び売りが出る。慈済の施療の開始を待つ患者たちは、照りつける太陽や、街角から漂ってくる香りにも我慢していた。ここは紛れもない貧困国家である。
 
六十九名の医師とボランティアによる施療活動の会場では、診察を待つ列が坂の上まで続いていた。粗末な服を着た人たちは、ハンカチや団扇で太陽を遮り、一歩一歩半開きの門へ向かって移動している。ボランティアが名簿を手に患者を確認しているその両側には、銃を持ったいかめしい兵士が立っている。この光景から、住民がどれほど診察を待ち望んでいるか想像できる。
 
慈済はスヤパー職業学校で施療活動を実施した。現地ボランティアが患者の手を引いて診察室へ案内する。(攝影‧葛濟捨)
 

天災と人禍 水も薬品も欠乏

 
ホンジュラスは貿易赤字と外国債券などの問題を抱え、重債務貧困国に認定されている。政府は一連の経済成長措置を取っているが、未だに貧困から抜け出すことができない。
 
ホンジュラスの復興を阻害しているもう一つの原因は、天災と人禍による災難が絶えないことにある。一九九八年にハリケーンミッチによって重大な被害を被った後、風災、水災が代わる代わるホンジュラスを襲い、その大地は傷を癒す暇もなかった。
 
ホンジュラスは一八二一年にスペインから独立して以来現在に至るまで、幾多の政変を経てきた。財政困難の国庫の大部分が軍事面に費やされ、民生建設を顧みてこなかった。二十一世紀を迎えた今日に至っても、多くの町や村には水道水がなく、人々は容器で水を買っている。衛生環境はさらにひどく、デング熱など、蚊などの虫が媒介する伝染病が毎年発生している。二○一六年にはジカウィルスが蔓延した。
 
国の医療保険制度があるにはあるが、多くの国民は保険費が払えない。政府は給料の中から自動的に差し引いているが、職についていない者には差し引く所がない。
 
●ホンジュラスでは病気イコール悪夢である。国民は医者に診てもらっても薬は得られない。医療インフラが欠乏しているため、6000人以上いる医師が就業することは難しい。並んで慈済の施療を待つ人々の顔は憂いを帯びている。
 
一般的に大都市に住んでいる者は公立病院で診察を受けられ、保険のある者または職のない者は払う必要がなく、保険のない者は三十五ドルの診察費を収めなければならない。しかしホンジュラスは薬品が欠乏しているため、病人は薬をもらえず、診察を受けても病を治すことができない。
 
田舎に住んでいる人たちは保健所で診察を受けられるが、同じく薬をもらえず、処方箋を薬局に出して買う。高価な薬を買えない人たちは、白内障をほったらかして失明したり、癌患者は家で死神を待つばかりだ。
 
こうした状況において、ホンジュラスの社会保険庁が百億ドルもの薬品汚職事件に手を染めていたことが発覚し、世界を震撼させた。
 

医療サービスと愛の寄り添い

 
一九九八年、ハリケーンミッチが去った後、慈済はホンジュラスを国際援助活動の対象とした。今年の五月、ホンジュラス慈済連絡所責任者の張鴻才さんは、米国慈済医療基金会の葛済捨執行長と張秉東医師と共に、医療援助の方法を検討した。
 
十年以上の医師資格を持つ葛済捨医師は数度にわたってボランティアとホンジュラスへ行き、大愛支援家屋の建設や施療、物資の配付などを行っていた。貧困と病に苦しむホンジュラスの問題に詳しく、今回現地ボランティアと合同で活動を行った後、活動についての評価を行った。
 
五月二十八日の施療では、現地ボランティアのアイデアで、診察時間を待つ間、蚊や虫が媒介する伝染病の防ぎ方について説明した。医学部の学生ボランティアがポスターを掲げて、あちこちを回って衛生教育を宣伝していた。また、栄養学が専門の学生たちは、健康的な食事のとり方について説明し、糖尿病や過敏症の患者には部屋に入ってもらって指導していた。
 
また、安心して診察を受けられるように、ボランティアは道化師に扮して連れの子供たちを喜ばせた。絵を描かせたり、風船を吹いたり、ゲームをしたりして、子供たちを世話した。
 
平均して一人の患者につき二人のボランティアが世話をしていた。貧しい上にシャワーの水にも事欠き、異臭のする患者を、ボランティアは少しも気にせず、皆の顔は幸せそうだった。
 
学校の中のトイレには手を洗う水道がなく、服で手についた水を拭くのが習慣になっている。多くの地域では水がなく、皮膚病の患者が多い。あるお年寄りはひどい喘息で、二人の娘は皮膚病にかかっていた。葛済捨医師は、雨季が過ぎたら家の大掃除をして、埃を払って清潔にすること、陽が出ている時は布団を干して、冬に備えること、などと注意をしていた。
 
当日は百十一人のスタッフとボランティアが、延べ九百四十四人の患者の治療をサポートした。その中で、さらに治療を支援しなければならないケースが五人あった。その中の一人は十七歳の男子で、生まれた時から膝より下が不自由で、二年ごとに足の補助器具を取り換えなければならなかった。最近器具が合わなくなり、新しく換えるには四百ドルが必要だった。慈済は補助金を出して、支援することにした。
 
施療は午前八時に開始し午後三時に終わる予定だったが、患者があまりにも多く、夕方の六時半にやっと終了した。
 
●米国慈済人医会のメンバーで歯科医の陳侚満医師(右から2人目)とボランティアは、子供たちに衛生教育を行った。この日の患者は128人だった。
 
緊急医療をリタイアしたゴーレル医師は、今までに見聞きしたことをノートいっぱいに記録した。「今回の施療は組織力が最も高く効率的でした。どのボランティアも自分の任務をよく理解し、複雑な環境の中で、混乱が起きないよう患者を案内し、愛を以て患者に寄り添っていました。患者に医療サービスを提供しただけでなく、真心からの愛と関心をも提供していました」と言った。
 
 

台湾からやってきて

ホンジュラスを護っている張さん

 
慈済が二○一一年にホンジュラスでボランティア訓練を開始してからこれまでに、慈済委員の認証を受けた人は四人、現在委員の訓練を受けている人は四十五人、見習委員は四百十九人いて、ほとんどが現地の人である。
 
●ホンジュラスと米国の慈済ボランティアが手を携えてホンジュラスで活動してきた。2011年以来実施している7回目の施療を行った時の記念写真。
 
慈済連絡署責任者の張鴻才さんは台湾人で、一九八七年に台湾電力技術団の一員としてホンジュラスに派遣された。一九九七年に任務を終えて台湾へ帰って退職した後、すぐまたホンジュラスに戻り、一九九八年に台湾人がホンジュラス北部のフォルモサ工業区に建設する工場の準備に要請され従事するが、工場のオープン二日目、ハリケーンミッチに襲われた。道路は寸断され、多くの家が被害に遭い、彼自身も自宅へ避難していた。
 
張鴻才さんと親しい大使館の職員は、慈済が実地調査に来るためその案内を張鴻才さんに依頼し、また、税関への支援物資の受け取りに同行してほしいと頼んだ。その後、彼は事業に専念して成功し、第二代目の台湾企業家会の会長になった。その間も慈済との関係は続き、いつの間にかホンジュラスにおける慈済の活動すべてを受け持つようになった。
 
ホンジュラスは世界で最も犯罪の多い国である。「治安のとくに悪い地域の住民は、出かける時は生きて帰れるだろうかと覚悟をきめなくてはならないと言われています」。このことを張さんは非常に残念に思っていた。
 
文化も人種も違う国で、張さんはクーラーのない家に住み、故郷の野菜や果物を植えている。張鴻才さんは、クーラーや贅沢な食事が待つ華やかな世界に戻ろうと考えたことはない。ホンジュラスに対する使命だけがある。小柄な体で袖をまくり、ズボンの裾をたくしあげて畑を耕し暮らしている。その一方で、物資配付や大愛村の支援建設、そしてボランティアの訓練に至るまで、慈済の活動に全力を注いでいる。        
(慈済月刊六〇七期より)
NO.250