慈濟傳播人文志業基金會
慈善志業 五十年の歩みを見据える 
山深い僻地救済という小さな奉仕活動の報告に始まった「慈済月刊」。今では海外の災害支援も報道し、白黒からカラーへと装いを変え、内容も豊富になった。延べ五万六千頁に及ぶ記事は、慈善志業の歩みを克明に記してきた。
 
冷たい冬時雨に見舞われ、北風の吹きすさぶ十二月のある日、證厳法師は慈済委員ら約三十人を伴って一台のバスに乗り込み、花蓮から南に向かった。二日間で六十数軒の家庭を訪問するためだった。一九七〇年、仏教克難慈済功徳会が設立して三回目の冬季配付の準備の一環である。
 
●1970年、冬季配布前の視察訪問に行く途中、バスが花蓮渓の川底のぬかるみにはまってしまったので、皆で力を合わせて押し上げている。今までの慈済の写真の中でも、初期の慈善事業を象徴する1枚である。
 
車内で法師は皆を励まし、観世音菩薩を拝して念仏を唱えながら、「苦しみの声をよく聞き、救済に努める心構えを忘れないように」と諭した。最初の目的地である玉里ではすべて順調だった。それから鳳林へ向かい、山奥に住む黄阿悪祖孫さんを訪問する時、花蓮渓を渡らなければならなかった。この川は乾期には橋を通れるが、雨期には両岸を結んだケーブルをつたいながら、カヌーに乗って渡らねばならない不便な場所だった。
 
今回はちょうど乾期にあたったのだが、台風で橋が流された後だったので、露わになった川底を歩いて渡るつもりだった。だが、雨も降り続いていたため、運転手は水の浅い場所ならバスで渡れると考え、そのまま走り続けた。
 
しかし、あろうことか川底に下りたとたん、タイヤが泥にはまって進まなくなってしまったのだった!
 
その時の写真がこれである。皆がバスから降りて、力を合わせてバスを押している場面だ。これは證厳法師が撮影したものだった。この一枚を見ても、当時辺境の貧困家庭を訪問することがどれほど困難だったかを推し量ることができる。この出来事は、一九七一年一月の「慈済月刊」にこう書かれている。〈思えば不思議なこともあったものです。どうしたらいいのか分からなくなったその時、運転手の友人が通りかかったので、助けを求めました。ブルドーザーの運転手だったその友人が駆けつけてくれた時は、すでに夕方六時を回っていました。私たち女性にとって、冬の雨の中で三時間も立ち往生したのは、さすがに長過ぎたという気がしました……〉
 
時は移るが、現在行っている南アフリカへの支援の様子を見てみよう。台湾出身の実業家、潘明水は、ズール族の女性を載せてアフリカ南部の五カ国を訪れ、道すがら慈済の理念を広める活動をしながら、貧困家庭のケアにあたっていた。このことは二〇一六年一月号に「ズール族ママたちの奮闘記」という特集記事として紹介されている。中表紙の写真に写っているのは、優しい手つきで年輩者の髪を洗っているズール族の女性である。黒く輝く肌をして体格のよい彼女達の姿に、台湾の老婦人の面影を重ねることは難しいが、人を助けたいという情熱は同じであることが見てとれる。潘明水は慈済が創立した頃の精神がここに表れていることを伝えたかったのである。
 
当初、布施者の信頼を得るために創刊したこの「慈済月刊」は、五十年間、美と善の事実を記録してきた。台湾の記事だけではなく、慈済の活動の国際化により、海外の記事も報道しているのだ。
 
法師の言われる「時間、空間そして世間」という座標軸は、現世に始まった救済が長期にわたって継続し、緊急時は海外にも広く赴くという、活動の根本的指針を表している。初心を忘れず、時代の証として歴史を書き残す歩みは止まることはない。
 

辺境の地から始まった善の活動

 
「慈済月刊」創刊号を開いてみよう。八十六歳の林曽さんが語った半生には胸が痛む。
 
林曽さんは中国福建省漳州から台湾にいる夫を尋ねて来てみたが、亡くなっていたことを知り、その後養子として育てた子供と孫も先立ったり、家を出たりし、自身も喘息を患ってしまった。その悲しみはいくばかりかと想像する。
 
證厳法師は慈済委員の陳貞如と一緒に市場に近い林曽さんの住まいを訪れた。日当りの悪い劣悪な環境の部屋に不自由な体を横たえた姿は見るに忍びなく、證厳法師は漂う汚臭をものともせずに寄り添い、言葉をかけた。そして、毎月三百元の生活費を支給し、生活と通院の世話をすることを決めた。
 
「慈済月刊」は「病を患う独居老夫人、林曽さんへ慈済の長期ケアが始まる」という見出しで、林曽さんのケースをトップ記事として報じた。そしてこのケアは林さんが亡くなるまで続けられた。
 
第七期には、「吉安郷在住の全盲の李さんに対する長期ケアを決定し住居を寄贈」という記事がある。石を積んだだけの炉しかないあばら家で、火をつけるのもままならない全盲の老人を訪れた證厳法師は、新しいケアを提案したのだ。「火を起こせたとしても、もし火花が飛び散って火事にでもなったらと思うといたたまれなかったのです。頼れるご近所もなく、助けが来るとは思えませんでした」
 
住居を寄贈するという願を立てると、共感した張栄華さんから寄付が寄せられ、一カ月あまりで完成に至った。同時に、記事を見た花蓮の人々からベッドや衣服、生活用品などが次々に届けられ、老人は喜んで新しい家に移り住んだのである。
 
●初期の慈善志業のケースにおいて、訪問にはほとんど證厳法師が自ら出向き、慈済委員たちはその横で様々なことを学んだ。訪問ケアのスキルだけでなく、そこでは慈悲というファインダーを通して人生観を磨くことができた。
 
老人、病人、障害者、社会的弱者、これらが当初援助の対象となっていたことは、貧困に喘ぐ当時の花蓮の実態を反映していたといえる。一九六六年という年は、まだ経済が立ち直っていない中、アメリカからの十五年にわたる台湾援助が打ち切られた年でもあった。台湾全土の人口千三百万人のうち一割に当たる人々は貧困に苦しんでいた。とくに辺鄙な東部では、貧しさの程度の違いはあっても、普通の暮らしさえ保障されていなかった。
 
そんな中でケアを受けた人々が、翌年から慈済委員となるケースが増え、「貧しくとも人を救うことはできる」という教えが広まっていったのである。少しの節約が救済につながることを師父達が説いて回ったのである。
 
委員第四号の呉玉鳳さんは、大豆製品を販売していて不自由はなかったが、善行のために慎み深い生活を心がけるようになったという。
彼女が担当していたケア対象家庭に、生活が改善されたので援助をやめることを話すと、猛烈な反撥を受けるケースがあった。その時、證厳法師は、「人々の中には、生活だけが苦しいのではなく、心が苦しく病んでいる場合があります。慈済委員として忍辱の心を教えていきましょう。物による救済で心を開くと、人の温かさが分かるようになるのです。貧しい中に喜びあり、という人生観を持たせてあげましょう」(慈済月刊第一五六期)と言われた。
 
そこで呉玉鳳さんは再度その家庭を訪れ、援助という善意の源を説明し、同じようにあなたも人を助けることができるのだと説明すると、その人はやっと理解し、解決に至った。
 
慈済委員第七号の陳阿玉さんがケアしていた人は、仕事中に突然倒れ、リハビリが必要となった上、妻と四人の子供の生活も行きづまってしまった。法師は直ちに補助手術の手配をしただけでなく、彼が退院するまでの生活補助費として五百元を支給し、それを元手に商売を始めるよう勧めた。商売が軌道にのったので、家族は商売で得た収入から五百元を慈済に寄付することにした。
 
このケースで感銘を受けたのは、證厳法師が人助けをする時は、いつもその人を自立に導くようお考えになっていることである。「いつまでも自分だけが苦労している」と思い込んでいる人には、もっと苦しい人がいることを話し、「足るを知る」よう諭すうちに、「喜んで奉仕する」ことができるようになるのだった。
 
●初期の慈善志業のケースにおいて、訪問にはほとんど證厳法師が自ら出向き、慈済委員たちはその横で様々なことを学んだ。訪問ケアのスキルだけでなく、そこでは慈悲というファインダーを通して人生観を磨くことができた。
 
初期の六年間は「人の世が私の研究室なのです」という證厳法師の言葉どおり、證厳法師は自らの足で実態を確かめ、何をするべきかを模索していた時期といえる。論理的に整然として一貫した援助を行うためである。
 

救難援助の基本が確立

 
一九六九年の中秋節の頃、強い台風が来襲し、四百万人もの人々が被害に遭い、三万戸あまりの家屋が損傷を受けたことがある。とくに東部の台東県卑南郷、ルカイ族の集落である大南村は最も悲惨で、深夜に発生した火事が村中に広がり、七百人以上が家を焼失してしまった。その時豊原にいた法師はすぐに委員を伴って駆けつけた。廃墟と化した村に置かれた棺を目にされ、そのお心はいかばかりだったであろうか。
 
支援の準備がすぐに始められた。見舞金、毛布、ふとんや防寒着が大南村や花蓮県秀林郷祟徳村などの被災地に届けられた。慈済功徳会創立以来最大規模の援助となり、「慈済月刊」でも二月続けて報道された。その時に報道された被災者の言葉である。〈これらは私たちが最も必要としていた物ばかりでした。慈済功徳会の皆さんが寄せてくれた温かい気持ちは永遠に忘れることはありません〉
 
それから二十年以上経った一九九四年。慈済ボランティアが再びこの地を訪れた時、多くの住民がその支給された毛布を大事に持っていることが分かった。右下に功徳会という名前が刺繍されている。その中の一人、沈為信さんは台風と火災ですべてを失い、避難所の床の上で眠らなければならなかった時、この毛布があったから家族で暖をとることができたのだと語ってくれたという。沈さん夫妻が一九九五年に二十六年間大切にしていた毛布を慈済に返した時のことが、「慈済月刊」三二九期に掲載されている。〈慌てて外へ飛び出したので着の身着のままでした。まるで犬のように眠るしかなかった妻と幼い子を見ると、自分はどうなってもいいから何とかしたいと思いました。この毛布はその時一番必要な物でしたから、今まで大切にしていたのです〉。すでに薄くなった毛布だが、慈済慈善事業の温もりが残っていた。
 
●1969年、台風の後で火災に見舞われた東部大南村。慈済は寝具や見舞金など緊急配付を行うことを決めた。20年以上を経て、その時の毛布を返しにきた夫婦。当時を思い出す貴重な資料である。
 
一九七三年十月九日、またも台風が三日三晩吹き荒れた。玉里から南の大武にかけてはとくにひどく、湖が崩壊し、大量の土砂が流れて死者二十人を出し、合計六千人以上が被害を受けた。折り悪く国慶節の前日で、メデイアは東部の被災地に見向きもしなかった。
 
橋が流され、道路も鉄道も寸断されたので、すぐに被災地に駆けつけることは困難だったが、十日後に準備が整い、救済に向かった。證厳法師は手書きでチラシを作り、台湾全土の会員四千人以上に募金を呼びかけた。半月後、国道が開通すると自ら視察に赴き、六十万元分の援助物資を調達することを決めた。この金額に慈済委員は耳を疑ったが、證厳法師の意志は固かった。「ここへ入るには足りており、ここを出るには富裕ではいけません。仏陀も言われたとおり、人々の善の心を信じていればすべてうまくいくのです」と語った。
 
直後に雑誌「菩提樹」の発行者である朱斐氏、アメリカ在住の沈家禎氏夫人など、「慈済月刊」を見て被災地の様子を知った人々から、合わせて五千ドル、台湾元にして約二十万元が寄せられ、慈済の支援活動を支えてくれたのだった。
 
慈済委員が最初に調査した時の援助対象者は二百世帯だったが、證厳法師が対象の基準を緩めるように言ったので、六百七十世帯に拡大された。また、当時配付活動は介寿堂で行っていたが、受け取りに来られない人のためにと、金崙と太麻里まで車を出して出迎えに行くこと、関山と月眉及び鹿野の住民には交通費を支給することを證厳法師は決めた。どこまでも被災者を第一に考えておられ、慈悲に境なく、すべてを救うことを実践しておられるのだった。
 
この救済経験をもとに、「被災地の実態を把握、募金、名簿作り、配付」という基本姿勢と「最も必要な人に、直接、尊厳を以て届ける」という災害支援の原則が確立したといえる。それは海外の場合でも変わることはない。
 

生活を見守る地域ボランティア

 
台湾最大の被害を出した一九九九年の台湾中部大地震を始め、強い台風に襲われた各地の援助に赴くたびに、慈済には新しい考え方が育っていった。近くの人々で助け合うという「地域ボランティア」体制を整えることである。
 
台風の被災地では停電や断水が半月も続くが、そこへゴムボートで温かい食事を運び続けるのは地域ボランティアである。また、南投県仁愛郷信義郷には地震で山の形が崩れ、地面が大きく傾いたり陥没している場所がある。〈危険な場所からは離れるよう呼びかけましょう。また植林をして山をもとに戻しましょう〉という法師の考えが「慈済月刊」に掲載されると、地域ボランティアと南投県政府の協議の末に、仁愛郷の一角を提供し、慈済の援助によってタイヤル族三十五世帯が移り住むことを認めたのだった。この地域ではその二年後にも台風の大きな被害を受けたが、すでに移住していたために、山間部での被害が広がらなかった。その後の台風被害において、各地の地域ボランティアは連絡を取り合い、救助を始めるのに十分も経たないで集合することができるようになった。
 
「以前は人脈によって援助体制ができていたが、これからは同じ地域に住むボランティアで協力し合う必要がある」。法師はそうお考えになり、ボランティアの所属を居住地ごとに再編成することを決めた。「地域でのつながりを強化することで助け合う気持ちが生まれ、それぞれ自分を生かすことができるようになるのです」と言われ、これを実行した。
 

台湾中部大地震から

どのように復興したか

 
台湾中部大地震直後の様子は「慈済月刊」にも記載されている。〈とにかく明かりを探しました。ロウソクと懐中電灯を点けると家を丸ごとひっくり返したかのような状況が見えました。タンスも神棚も倒れて玄関を塞いでいて、やっとの思いで外に出ると、外壁も看板も電信柱もすべてが崩れ、ここ東勢で一番高い十四階建てのマンションが横倒しになっていました。そこには百世帯以上が入居していたのです。私の親戚や友人も……〉。三九四期の表紙には白黒写真が掲載され、傍らの「沈痛哀悼、誠心祈福」の八文字が被害の甚大さを伝えた。その中で迅速に炊き出しを行い、病院での助念に協力する青と白の制服姿があった。「慈済月刊」の記者達も全員で取材にあたり、「悲しみを癒す温かい救助の姿」や「無常の天災にも絶えない人間愛」を探して報道を続けた。
 
〈今一番重要なことは身の安全と心の安らぎを取り戻すことです。心の安らぎは辛抱強く被災者に寄り添うこと。身の安全は出来るだけ早く住居を建設すること。これにかかっています〉。これはこの年の十月号に掲載された開示である。
 
各地の政府と協議を行い、土地を契約し、一戸につき十二坪三部屋とキッチン、シャワーのある簡易住宅がわずか三カ月で完成した。動員したボランティアは延べ五万人。台中市・県、南投県、雲林県にも及ぶ千七百世帯の「大愛村」の誕生だった。
 
●台湾中部大地震の経験から、慈済ボランティアが安全に奉仕できる方法を考え始めた。テントを組み立てた時、被災者の呆然とした表情を見て、その後、大愛住宅と希望工程に着手することとなった。
 
同時に證厳法師は被災者の今後の生活を考え、中長期ケアの準備を始めた。「世紀末に倒壊した学校を新世紀には立て直したい」との思いで学校再建プロジェクト、「希望工程」計画を打ち出したのである。「慈済月刊」の記者は各地の大愛村を取材してボランティアの活躍を記録した。「整地に一日がかり」「狭くても愛に満ちた住宅」、「希望のある学園都市を」「愛を柱に希望を壁に」「手を取り合って進む」「寄り添って痛みを分かち合う」……など、被災地支援の報道は続いた。
 
そして「慈済月刊」を読んだ海外の人達からも支援が届くようになった。「台湾へ愛を送ろう」「心の交流の道」などのかけ声で、アメリカを始め南アフリカやコロンビアなど、かつて慈済が支援した国から届いた励ましのメール。また、それに答える被災者や希望工程参加者の声。「慈済月刊」はいつのまにかお互いを支え合う大切な交流の場となったのである。その中から南投の大愛村に移り住んだバマン・ナルウェイさんの言葉を紹介しよう。〈この場を借りて慈済に感謝したい。環境の整った衛生的な場所に同じ仲間達と一緒に住むことができて、何よりの温かさを感じています〉竹山小学校の教師だった梁明さんの言葉–〈突然学校が倒壊し、見る影もない姿に成ったときは驚愕しました。不安と焦りが収まらない時に、慈済が待ちわびた天の恵みのように現れたのです〉。
 
梁明さんは慈済教聯会(慈済の教育従事者によるボランティアグループ)がその後も生徒達に多大な援助をしてくれたことに感謝し、妻と共に慈済委員となった。
 
南投小学校校長の蒋碧珠さんも慈済の活動に感銘を受けたという。テントで授業を受けている子供達を見て、證厳法師はいたたまれないという表情をされていたが、その三日後にボランティアが訪れ簡易教室を立て始めたのだった。なんと素晴らしい行動力だろうか! また、草屯の炎峰小学校校長の許昆龍さんも「慈済が来てくれると本当に安心できる」と話す。彼は退職後に慈済ボランティアとなった。東勢で被災した劉紀勝さんは、街をさまよい歩く中で慈済の炊き出しに出会った。その時に慈済ボランティアになって、客家語の通訳をしながら街の片隅までボランティア仲間と共にケアを続けようと決心したという。このような地震に関する報道は約三年続き、五十一校の学校を建て終わったころに一段落を迎えた。
 
●台湾中部大地震から2年後に完成した学校の第1回卒業生。校内では青春を謳歌できるようになった。
 
そして二〇〇一年九月号にて、「希望工程、撮影と記録」を企画した阮義忠は、「希望工程の第一期卒業生」という文章を発表し、長期にわたるその取材についてこう記している。〈取材中はとても充実していました。天真爛漫な子供達からは無邪気な生命力が伝わってくるし、校長先生をはじめ諸先生方の姿には教育に心血を注ぐ気持ちが現れ、慈済ボランティアの行動には仏陀の教えである慈悲喜捨の教えが感じられました。そのすべてに支えられて、私もこの土地に降りて来た失望を希望に変えたいと思うようになりました〉。彼とその妻は共に「慈済月刊」のボランティア記者で、この学校再建プロジェクトを取材し、法師の「世を驚愕させた災難に向き合うには、世を再生させる覚悟が必要です」という言葉に感銘を受け、学校関係者と共に貴重な記録を残してきたのだった。「最前線に立ち、最後に立ち去る」慈済ボランティアに寄り添い、記者達も同じく熱い思いを抱いて報道していた。
 

全世界が一つになり、善の効果が循環する

 
二十一世紀になり、世界中で自然災害が頻発し、慈済の活躍はその範囲を拡げている。二〇〇三年に起きたイランのバム地震、二〇〇四年のスマトラ島沖地震、二〇〇八年サイクロンナルギスのミヤンマー襲来と四川省汶川大地震、二〇〇九年台風八号台湾来襲、十六号フィリピン来襲、二〇一〇年ハイチ大地震、二〇一三年台風三十号フィリピン来襲、二〇一五年ネパール大地震……。その災害の一つ一つに慈済は向き合ってきた。
 
とくに二〇〇九年のフィリピン支援では、證厳法師の指示で「被災者雇用制度」を導入して、被災地市民に呼びかけ、共に清掃活動を行った。それは人々の心をつかんだだけでなく、迅速な復興に結びついた。同時に人々に飲酒喫煙や賭博という悪習慣を断ち切るよう教え導き、彼らが慈済ボランティアとなることでその教えを現地に行き渡らせるという理想に近づいた。
 
五一八期の「法師の足跡」欄には、その年に静思堂で行われた「九カ国役員連合会」で證厳法師がフィリピンのボランティアについて語った話がある。〈人々の声に耳を傾け、物を布施するだけでなくその心を救うよう考えることが、真に彼らを迷いから救い出し、正しい光明へと導くことなのです。苦しみを楽しみに変える。これがすなわち慈悲と智慧の相乗効果です〉
 
●2013年、フィリピン援助の際は、各国のボランティアが集結して「被災者雇用制度」による清掃に参加した。ひどい被災地も次第に元の姿を取り戻し、復興の兆しが見えて来た。このような善の団結に人々の愛の心を見てとれる。
 
同年台湾を台風が襲って百日後、高雄、屏東、台南の三地方で被災者のための住宅建設が行われた。高雄の杉林大愛園が起工した時、法師は「被災者雇用制度」を導入できないかと提案した。人々が自ら自分の家を建てれば、収入を得られるだけでなく、被災の悲しみから立ち直る気力が生まれるからだ。提案は直ちに歓迎された。
 
●2009年、台風が台南南部を襲った時、食事の支度ができない人々のために、慈済ボランティアは軍の装甲車に同乗して、屏東林辺郷まで弁当を届けた。さながら水上マーケットのようである。
 
建設の第一日目、まとめ役であるダフ・ガラフィさんは気合いをこめて号令をかけた。「みんな、隊列を組んで始めよう!」。ダフさんは南沙魯村のブヌン族である。当初は山から離れたがらなかったが、道路は亀裂が多く、四輪駆動車でさえ走行は困難を極めたため、やっと納得したのだった。「故郷はもう住めなくなった」。彼は感慨深そうに目の前の道路を指して記者にこう語った。「十三年前も慈済はこの道路に竹材を渡して物資を運んでくれました」
 
桃源郷宝山村から来た陳則東さんはこう語った。「被災後最初に家に戻った時、半壊した我が家を前にどうすることもできませんでした。なぜこんな罰を受けなければならないのかと」。建設説明会に参加し、頑丈な家を建てる確かな計画だと聞いてからも信じ難く、「本当なのですか? 絶対やり遂げて下さいよ。こんな思いはもう二度としたくありませんから」と確かめたほどだった。
 
高雄杉林大愛園の工事は急ピッチで進められ、八十八日で第一期が完成し、七百五十二世帯が入居した。一年後に第二期が完成した時には、入居者は園全体で千四世帯となった。これらの建設費用は世界五十二カ国の慈済ボランティアから寄せられた募金でまかなわれた。それには同じく被災したハイチやアフリカ諸国からの募金も含まれている。台湾中部大地震の被災者が、この住宅建設と清掃活動に協力していることも同じである。善が循環するという効果をもたらしているのだった。
 
《無量義経》に「諸衆に真善という知識が得られると、大きな福田が生まれ、師匠に頼らずとも安らかに暮らし、その場所を救い守っていくようになる」とあるように、證厳法師は常日頃から慈済ボランティアに「不請之師(請われなくとも師となること)」を諭している。自ら人々の苦悩に耳を傾け、両手を差し伸べていたわらなくてはならないのだ。
 
慈善という理念は、太古の時代から現在に至るまで継続しているものだ。だから、ヨルダンやトルコ、スロバキアに逃れたシリア難民のために、現地の慈済ボランティアが大愛を発揮して救済に乗り出すのは当然のことなのである。
 
ヨルダンではボランティアの数は少ないが、二〇一二年に冬季配付を行ったり、国連の医療援助が打ち切られてからも医療活動を続け、多くの難民が健康を取り戻している。トルコには慈済ボランティアは三人しかいないが、シリア人のジュマ教授と共に学校を設立し、子供達に無料で教育を行ったり、家庭に生活補助を行って子供達が学習を続けられるようにしている。ヨーロッパにおける活動は、スロバキア周辺を中心に難民への冬季配付と温かい炊き出しを行っている。
 
●ヨルダンの現地ボランティアは少ない人数だが、シリア難民に心を寄せている。アザレータ地方の難民キャンプで子供の手術を行い、粉ミルクや扇風機など生活用品を贈った。戦火で経験した恨みも、慈済のもたらした希望と愛によって打ち解けていった。
 
一人の手が動く時、千人の手も動く。一人が見ている物は千人が見ている。「慈済月刊」は人々の目となり耳となって苦悩の声を集め、希望を読者に送り続けている。人々がもっと視野を拡大することで災難に関心を持ち、広く海外へ温かさを届けることを願っている。
 
「慈済月刊」のカメラマン、蕭耀華は、自身がこれまで国内外に取材に出かけて撮影した作品を集めて、『彼らの物語』という写真集を出版した。慈済台北病院でも展示会を行った時、彼はこのように語っている。「私はファインダーと文字を通してこの出会いと自分との交わりを結びつけてきました。できれば永遠に残したくもあり、何かの縁で見てくださった方が、これらの作品の背景にある誠の真実を感じとってくれたとしたら幸いです」
 
この言葉は、「慈済月刊」を支える編集仲間の心の声でもある。創刊五十年を迎え、「慈済月刊」はこれからも台湾と世界に溢れている美しい善の物語と登場人物に関心を寄せ、人々の心を善い方へ導き、さらに多くの「人間菩薩」を生み出し、共に善行に励むようにという思いのもとに続いていくことを願う。
NO.251