慈濟傳播人文志業基金會
両親の老後 子供の課題
母は病気のために働くのをあきらめなかった。
生きることに前向きで、
死ぬのを待っているのではない。
私達も母が毎日楽しく過ごせるよう
介護する方法を模索している。
 
母はとても生命力が旺盛な人で今年九十一歳になる。杖をつきながらも、片手に鍬を持って野菜畑を耕している。
 
●賴怡伶の母は91歳。毎日畑仕事をして、変わらず豊かな老後を送っている。
 
母は人生で大きな病気を三回経験した。六十四歳で脳卒中、六十九歳で重い腹膜炎、七十六歳で癌に罹った。今は片目が失明し、難聴を患い、右半身に障害を持っている。それでも母はくじけず、退院して一週間も立たないうちに、腰かけと鍬を持って畑へ草取りに行く。
 
母はその人生で、「病は大事ではなく、機能、心構えこそ大事」を立証している。病気だからとじっとしているのではなく、同じように畑仕事をし、日光浴をしたり、しゃがんだり立ったりして、体の機能を維持し、常に生きることに前向きで、死ぬのをただ待っているのではない。
 
二〇一五年、私達は早めに家の中をバリアフリーに改築し、畑も同じようにした。以前、実家のトイレは昔ながらのしゃがむタイプだったので、下の兄が壁に手すりを取りつけ、父と母が転ばないようにした。夜はポータブルトイレを使ってもらい、浴室にも手すりを取りつけ、浴槽を取り払ってシャワーに変えた。
 
私達は父と母それぞれ異なる健康状態に合わせて、居住環境と、介護の方法を調整した。日本教育を受けた父は、起床してからは絶対にパジャマやトレーニングパンツ姿で人に会わない。そこで、長い間探して、やっとマジックテープ付き外出用長ズボンを見つけ、自分で着替えができるようにした。少なくとも半年から一年間そうやって生活していた。
 
私はプロの医療従事者だが、古風な台湾の家庭の中で、年長者の世話が必要になった時、心の葛藤から逃れることはとても難しいことをよく承知している。
 
私は花蓮から嘉義大林に転勤した後、さらに故郷の台中に転勤した。実家に帰ったわけは、毎回仕事に帰る私を見送る母の寂しそうな目を見て、とても心が痛んだからである。
 
兄達に実家に戻る考えを話すと、「まだ時間はある。本当に世話が必要になった時、皆帰ってきて世話をしよう」と言った。
 
父は封建的な考えを持っていて、長兄は幼い時から厳しくしつけられた。私と下の兄は一番可愛がられ、兄弟間でも両親に対する感情が異なる。「世話の必要性」について、兄弟の間で共通認識を得ることは難しかった。
 
世話の定義が同じ土俵に存在しない時、意見は一致しなくなる。家族間で長い間話し合ったが、結局、私は考え方を変え、両親の世話をしたい、家に帰りたいと自分が思うならならそうしよう、と思うようになった。
 
故郷に戻っても、仕事は同じように忙しかったが、毎週少なくとも二日家に帰った。早く出かけて家に寄り、それから仕事に行くようにした。多くのことは、考え方や行動次第で、やりたいと思えば自ずと方法を考えて、成し遂げることができるのである。
 
人は誰も残された命の時間が少なくなるにつれて、人の世話に依存せざるを得なくなる。世話する方は疲れ果て、ますます負担が重くなる。心の中をのぞけば、それが生命の必然性だと分かり、比較的受け入れることができる。
 
親の世話をする時、親孝行に対する責任感と、体への負担のプレッシャーで息ができなくなり、表に現れる世話の重圧と自分の中にある家族に対する価値観に矛盾が生じるようになる。たとえば、年長者を家に迎え入れるか、あるいは専門施設に世話を頼むか、である。兄や姉達は施設に入れるのは残酷ではないかと心配する。しかし、それならば自分たちで世話ができるのか? もし自分たちで世話している時に何かあったらどうするのか?
 
私は父と母が往生したとしても、それは人生を円満に終えたということだと兄弟に言った。施設に入れても、自分たちで面倒を見ても、ヘルパーを雇っても、どのような選択であれ、精一杯尽くせばいいのではないだろうか?
 
自分が卑屈になったり、人のせいにしたりしてはいけない。これは世話する過程で誰もが抱える課題なのだ。
 
現在、昼間は外国人ヘルパーが両親に付き添い、兄弟も順番に家に帰って世話することで、二十四時間誰かがいるようにしている。私にとっては、両親の世話は責任ではなく、親子間の情である。両親は私をとても可愛がってくれたから、私は自分が喜びに満ちて悔いのないようにする方法を知っている。何回もの家族会議でお互いが近づき、家族も世話と死という課題に向き合うことができるようになった。
NO.251