慈濟傳播人文志業基金會
懐かしい竹工芸を永遠に  技術を独り占めせずに伝える
蓙、編み笠、籠、鶏籠などは昔、一般的な竹編み農具であった。工芸師は先人の工芸技術と器用な編み方を学び、精緻な工芸品に仕上げた。
  「双銭花籠」と題した作品で台湾工芸コンクールの新人賞を獲得した邱錦緞は竹編みの世界に入って二十五年になる。人間国宝の黄塗山氏から技巧を引き継ぎ、より多くの若者に竹編み文化を伝えていくという伝承の志を立てた。
 
●双銭花籠(2003年)
●6角花柄編ハンドバッグ(2011年)
 
食卓に肉がなくてもいいが、住まいに竹はなくてはならない。
肉を食べなければ人は痩せるが、竹がなければ人の品位は落ちる。
             蘇東坡(中国北宋の詩人・政治家)
 
台北現代工芸設計館に来ると、竹編み工芸師の邱錦緞が丸い菓子盆の底の部分を編む学生の手伝いをしていた。竹を薄く削ったものを縦横に交錯させ、一つごとに上と下に差し入れては引っぱり出し、やがて精密な四角形の図案が織り出された。高く伸びた青竹を何度も加工して薄く平べったくなった竹ヒゴが、工芸師の手によって編み上げられる。竹の命と品格が一つひとつの精緻な工芸品に受け継がれて行く。
 
●邱錦緞は竹竿の山に埋もれて、注意深く材料を選んでいた。竹の表面の質と色は作品の出来具合と密接な関係がある。邱錦緞が一番よく選ぶ竹は弾力性がある桂竹である。
 

庶民の思い出を引き継ぐ

 
竹は高温多湿の気候に適し、台湾の山林面積の十パーセントに生息している。成長が速く、三、四年で伐採でき、環境保護の観点からも家具や建材、農業用に使われている。簡単に手に入るため、昔から農家では竹製の農業機具や魚用の籠、笊、野菜籠、編み笠など粗く編んだ農具を手作りしていた。家庭で自家用に使う以外、一九七四年、竹が豊富な南投県竹山に加工工場ができたことで、大量に竹製品が加工されて輸出されるようになった。最盛期は一九七〇年代から八〇年代にかけての頃で、竹山は台湾最大の竹製品の生産地であった。
 
しかし、プラスチック製品が出回るようになってからは、竹で編んだ用具はあまり見かけなくなった。南投県竹山鎮の数多くの有志は、貴重な竹編み庶民文化を残すために、新しい概念の下に、竹を多方面に利用することを提案した。例えば、古くなった台西バスの待合室にある「竹青庭人文スペース」を刷新することであった(写真は本文の最後に)。不規則に見えても、実は精密な編み方でできている五千五百枚の竹に包まれた天井と梁や柱の部屋に一歩入ると、竹に包まれた温かみが感じられる。「竹生活文化協会」は中高年の人や失業者を指導して、竹編みによるアイデア文化製品を作っている。花籠やコースター、ピクニックバスケットなどがあるが、面白いのは、協会のフェースブックを見てもらうために、竹で編んだQRコードを提供していることだ。
 
そして、同じように竹編み文化を存続させようとしている有志たちとは、精密な工芸品を作る竹編み工芸師たちのことである。彼らは煩雑で多様な編み織り技法を用いて、きめ細かくて丈夫な実用性と芸術的価値を兼ね備えた竹編み工芸品を作っている。台湾の中堅世代の竹編み工芸家は多く、それぞれ特色を持っている。国家工芸賞を獲得した葉寶蓮はその代表的存在である。そのほか二十年以上の経歴を持つ陳高明と蘇素任は「竹籟文創テーマパーク」 (Bamboo-Lai Culture & Creative)を創設し、三十年以上に渡って竹山の竹工芸文化を牽引して来た頼進益などがいる。
 
同様に国宝級の竹編み大師、黄塗山の弟子である五十五歳の邱錦緞は、自分の創作以外に、工芸技術を伝える重要な任務を担い、自分の知っている竹編み技法の知識をすべて教えている。「工芸は伝承されるべきもので、独り占めするのはとても惜しいことです。私は竹編みが大好きなので、もっと多くの人に好きになってもらいたいのです」。二十年近くクラスで教えてきたが、実践することで貴重な竹編み文化を永続させたいと思っている。
 
●邱錦緞は竹竿の山に埋もれて、注意深く材料を選んでいた。竹の表面の質と色は作品の出来具合と密接な関係がある。邱錦緞が一番よく選ぶ竹は弾力性がある桂竹である。
 
 
「以前、二百以上の竹製品加工工場がありましたが、今では二十数軒を残すのみです。竹の楊枝や箸は全部竹山で生産されていました」と邱錦緞は竹山の最盛期を回顧する。
 
一九九〇年代、中国や東南アジアの製造市場が出現して競争が激しくなるにつれ、竹山の竹製品工業は衰え始めた。不景気の影響で、家庭で竹製品を作る時に使う機械類の製造工場は仕事が減り、三十一歳の邱錦緞は余暇を使って、農委員が竹山高校で開設していた竹編み教室を受講することにした。竹編み製品の美しさが彼女を虜にし、その世界にのめり込んで行った。昼間は小学校で講師をし、夜、子供が寝た後に竹編みの練習をした。

 

技法を学んだ八年間

 
竹編み教室に通っていた五年間、教師が何人も入れ変わった。その度に新しい教師は基本に戻って教えるため、邱錦緞の竹編み技術はあまり進歩しなかった。しかし、全課程を終えた後、三年間、国宝級の竹編みの名人である黄塗山の助手を務めたおかげで、竹編みの技術が大幅に向上した。一九三六年、日本人が竹山に「竹材工芸伝習所」を開設した。黄塗山は基礎から編み方と精緻な工芸技術を日本人から学び取り、後の台湾の精緻竹編み工芸のスタイルを築き上げた。
 
「一歩ずつ進み、奥義まで学びました」。黄塗山の竹ヒゴや藤皮の角は全て丸くし、人を傷つけやすい鋭利な縁を取り除きながら、竹ヒゴを同じ厚さに仕上げてある、と邱錦緞が詳しく説明した。「教師によっては、竹ヒゴにした後、厚さに関係なく編み始めるよう教えていました」。黄塗山のきめ細かい工法は邱錦緞に受け継がれ、彼女に精緻な作品を作る重要なポイントを教えた。
 
二〇〇五年に作った「連菱」という作品は、一ミリ幅の細くて薄い竹ヒゴを七種類の技法を用いて編み上げたものである。編んだ隙間がほとんど見えないほど精緻なできで、途中で切れた場合は初めからやり直した。もっと特別なのは、表面の菱形模様の光沢と色合いはゆっくり研磨して出したものである。その作品を作るだけで彼女は四カ月近い時間を費やした。一つの完成した竹編み工芸作品は、その美しい造形はもちろんのこと、深い編み織りの技術が精緻な作品を完成させる鍵となる。
 
しかし、邱錦緞が竹編みを学んだ過程の全てが順調だったわけではない。「先生の助手をしていた時、挫折感を味わいました。というのは、先生のようにあらゆることに精通していたわけではなく、学生の手伝いをして壊してしまったことがありました。『あっ、助手の先生が僕の作品を壊しちゃった!』と学生に言われました」。自分の技術の未熟さのために、学生に恨まれたのが悲しかった。その後、彼女は真剣に竹編み技術を修得しようと思い、夜中の二時、三時まで練習した。
 
●Yiiブランドの作品「花景」は邱錦緞と新鋭設計士が共同で設計し、作成した花瓶である。
 
三十七歳になった邱錦緞は竹山町役場の要請で、竹編教室を受け持つと同時に黄塗山の助手も続けた。「初めて教壇に立った時、自分一人なのだということに気づきました。先生の助手をしていた時は、先生に訊くこともできましたが、一人では分からなくても訊けないので、もっと努力するしかありませんでした」と初めてのクラスのことを回顧した。不屈の学習精神によって、邱錦緞は後の奥深い技巧を身につけたのである。
 
竹ヒゴで編んだ二つの中国結びが瓶の側面に飾りとしてつけられている。松葉編みで全体を形作り、きめ細かい藤飾りでアクセントを出している。瓶の口は波打った蓮の葉で縁取られている。そのアイデアと精細な技巧によって、人々から竹工芸の奥深さに対する賞賛と評価を得ている。この台湾の桂竹を使って編み出された精緻な傑作、「双銭花籠」は、二〇〇三年、工芸コンクールで新人賞を獲得した。それだけは非売品として竹山の「邱錦緞竹編工房」のガラスケースの中に飾られている。「他の入賞作品は全部、売ってしまいました。これだけは息子が売らせてくれません。違う意義があるのです」と邱錦緞は笑って言った。
 

精緻な「芸術」をさらに深める

 
竹編みの世界に入って十年目の時、新人賞を受賞して認められた邱錦緞は、最初の五年間に大いに達成感を感じた作品を出してみると、そこには見るに耐えないような作品が目の前にあった。彼女はそれらを山積みにして全部、燃やしてしまった。
 
「全く人に合わせる顔がありません。習い始めた頃は作品ができればよかったのですが、やがて自分で考え、違ったものを作るようになってから、精緻さを求めるようになりました」。作品に対する要求が高い邱錦緞はその時、もう学生に文句を言われた新米の助手ではなかった。
 
二〇〇二年、四十歳になった邱錦緞は工房を開いた。一心に竹編み工芸に専念する一方、工芸技術のさらなる精進のために、工芸所の漆器クラスで学んだ。天然の漆にはフェノールが含まれていて、皮膚がフェノール成分を含んだ空気に触れるとアレルギー反応が出る人もいる。彼女もひどいアレルギー反応を起こした。全身がかゆくなり、掻いた跡が赤く腫れて傷跡を残した。冬でも我慢して冷たい氷枕でかゆみを抑えたりした。
 
「初めは我慢できなくて、注射してもらったり薬を飲んだりしました。しかし、薬の効果がなくなると、すぐにまたかゆくなるのです。また、そうやってかゆみを抑えていると、逆に治るまでの時間が長くなってしまうのです」。毒で毒を制したアレルギー体質の彼女は、今では天然漆と共存できるまでになった両手を差し出して見せてくれた。当時の引っ搔き傷の跡はほとんどなく、わずかに左手に小さな浅黒い跡が見られた。彼女は何事もなかったかように以前の辛い出来事を話してくれた。
 
 
竹を割って竹ヒゴを作る
●「青削り」という工程(上)。湾曲した刃物を上下に動かして削って、表面の青い部分を取り除く。
●十字鉈という工具を使って竹を割る。「縦割り」(右上)という竹割り。
●「幅に合わせて割る」(中)。薪割り鉈の柄で叩き、繊維をほぐす。
●「厚みの調整」(右下)。剃刀で竹の内部を徐々に削ぎ取り、外側だけを残す。
●最後の細部動作である「幅の調整」と「厚みの調整」、「滑らかにする動作」(下)。鋭利な刃物で何度も削って微調整し、竹ヒゴを一定の厚みと幅、滑らかさにする。
 
注意して彼女の掌と指先を観察すると、練習の時にいつも怪我して絆創膏を貼っていたという跡は見当たらなかったが、わずかに淡く白い絹糸のような跡が見られた。それは長年、竹を削ったりする時に擦れてできた跡かもしれない。
 
竹編みには主に二つの過程がある。竹割りと編みであり、ほとんどの学生は最も困難な竹割りの段階で先に進めなくなってしまう。また、最も怪我しやすいのもこの段階である。
 
「怪我しなければ、進歩しない」と邱錦緞が授業の時に学生に言ったことを、竹編み初歩クラスの班長だった劉素琴が話してくれた。丸い竹からヒゴになるまで、全て鋭利な刃物で少しずつ削り、竹ヒゴが均等な幅と厚みを持ち、滑らかになるようにするのである。その過程では絶えず、怪我する可能性があり、それは優秀な工芸技術を持った工芸師でさえも同じである。「不注意で怪我することもあれば、竹の棘に刺されることもあります」と邱錦緞が慣れてしまったとでも言うような調子で言った。細やかな気配りをする邱錦緞は学生たちのために、いつもハンドバッグにバンドエイドを入れていた。
 
彼女は特別に、私たちに竹割りをして見せてくれた。長さ五メートル、周囲七センチ、厚さ七ミリの大きな竹は、邱錦緞の手にかかると、一時間後には綿糸のような竹ヒゴになっていた。その厚みはわずか〇・六ミリ、幅〇・九ミリである。
 
「農委会主宰の竹編み教室は、初めは大勢来ていましたが、最後には七、八人しか残りませんでした」。竹割りの難しさについてゆけず、一人また一人と辞めていった。しかし、邱錦緞は頑に続けて今日に至っている。「今では竹割りの方が好きで、楽しいものです」。竹を割った時、「聞いてごらん!」と神経を集中させていた邱錦緞が突然、顔を上げて、子供のような笑顔で私に聞いた。「聞こえましたか?」と、ボーッとしていた私に注意して聞くよう促した。やっと割られた竹の繊維が発したわずかな炸裂音が聞こえた。
 
●精緻な芸術品を生活に取り入れる。邱錦緞は毎週、竹山から台北に来て竹編みを教えている。助手の謝玉環(右)は彼女に学んで4年以上になるが、故郷の桃園に戻って現地の竹編み工芸を盛んにしたいと思っている。
 
よく日本に行って竹工芸家たちと交流している邱錦緞は、日本と台湾の竹工芸の違いを話してくれた。彼女は、日本人は竹を植える段階から編む段階まで緻密で丁寧であることに感服した。「日本の竹は最初から大事に育てられます」。日本の竹林農業団体は密生した竹の一部を間引いて、互いにぶつかり合って成長を妨げることがないようにしている。定期的に土を搔きならし、雑草が生えるのを抑える。伐採した竹は布団や気泡の入った紙に包み、人手を使って運び出す。こうして、竹工芸家が買いつける時は、良好な竹が手に入る機会が大幅に増えるのである。
 
「台湾はそうではなく、伐採した後、山の麓まで落とすか引っぱってくるのです。その途中で竹はひどく衝撃を受けてしまいます」と邱錦緞が説明した。加工工場に着いた時は、傷がついていないものはほとんどない。それを割る時が大変で、傷ついた部分を取り除いたり、濃い色に染めたりするしかない。
 
インタビューの途中で、邱錦緞の主人の林基正が整えたばかりの竹の帯を彼女に見せに来た。二人は言葉を発することもなく、手にした竹の帯をじっと見つめていた。しばらくして邱錦緞がそれに線を描き、「ここはもうちょっと直した方がいいわね」と言った。夫婦は長年連れ添ってきたので、言葉を多く交わす必要はなく、身振りで理解し合えた。「今、工房の竹帯は全部、彼が整えているのです」と邱錦緞が恥ずかしそうに言った。
 
不景気で工場をたたんだ林基正は、今は邱錦緞の竹編み工芸の手伝いをしている。十数年前、邱錦緞のために竹ヒゴの厚みを一定にする手伝いをしようとしたが、いつも必ず、「どうしてこんなに難しいんだ?」と言って苦闘した。半年間考えた挙げ句、彼は幅と厚み、角を取る三つの工具を作った。今では多くの学生が皆それらを使うようになり、竹ヒゴの製作がスピードアップした。
 
●邱錦緞が設計した竹編み時計は実用性を兼ねているため、コレクターに好まれている。
 
それは夫としての愛情から作ってもらったものかもしれない。邱錦緞はその三つの工具を使って竹帯を整える時、水を得た魚のように動作がてきぱきしている。
 
邱錦緞竹編み上級クラスの学生である傅錦秀は、市民大学で三十年間さまざまなクラスを受講して学んだことがある。「講師たちの模範的な人柄と度量の大きさにとても感銘しました」と言った。多くの講師は学生が自分よりも腕が上がることを恐れ、学生同士の討論を禁じる人もいるが、邱錦緞は録音したり写真を撮ることを大いに歓迎した。「月謝を払っているのに、何も学べなかったとなったりしないか心配しました」と、傅錦秀は話すうちに感極まって目頭を赤くした。
 

竹編みの美を伝承する

 
「人間いつかはこの世を去ります。技術を独り占めしていても何にもなりません。それよりも後輩に残した方がいいと思います」。竹編み教室で教えることを楽しんでいる邱錦緞は、教える中で新しい作品を考えながら進歩し続け、学生により多くの技法を伝授しようとしている。
 
竹編みクラスの助手である謝玉環は桃園の客家人であるが、現地の二人の竹編みの先輩が共に年老いて教鞭を取ることができなくなったため、彼女はネットで竹編教室を探した。その縁が元で邱錦緞に学び、すでに四年以上になるが、同じ客家文化である竹編み工芸を桃園で伝承しようと心に決めた。二〇一二年、謝玉環は初級、中級の二つのクラスに同時に参加し、両方の作品を学んだ。邱錦緞は竹割りをまだ教えていなかったが、彼女は早く練習したくて我慢できず、講師に竹を送ってもらうよう頼んだ。
 
●イルミネーション飾り「鳥籠電灯」のアイデアは邱錦緞の幼い頃の記憶に残っている竹編みの蓋状の鶏籠から来たものである。
 
二〇〇七年、工芸研究所は「Yii」というブランドを作った。伝統的な工芸師と新鋭のデザイナーを協力させ、伝統技法を新しい概念に取り入れることで創作の火花を散らそうというアイデアである。
 
一年の準備段階という長い時間をかけて、デザイナーと頻繁に交流したが、Yiiに属する五人の工芸師の中でも、邱錦緞だけが五、六年間絶えず活動し、懸命に自分の持っていた技法を若い人に伝授しようとした。
 
邱錦緞は三十歳になるまでは一人の平凡な主婦だったが、思いもよらず、三十を過ぎて豊かになった人生を編み出したのは、彼女が幼い頃に住んでいた家を取り囲んでいた竹林であった。「私はいつも学生たちに真面目に学ぶよう言ってきました。私が教えたくても、学生はそれを受け取ろうとしないのはとても悲しいことです」。今、竹編み工芸師として、竹編み教室の講師となった邱錦緞は学生に対する期待を込めて、老婆心から忠告を繰り返している。
 
木工机の上に長さが区々な竹ヒゴと色々な工具が積み上げられた中、座ったり立ったりしている学生たちは真剣にオードブル皿を編んでいた。邱錦緞は順番に学生たちの品を手に持って、きめ細かく次の手順を指導した。
 
先人の苦労と智慧がつまった竹編みはかつて、どの家でも日常的に使っていた竹具だったが、時代の変化と共にあまり見かけなくなってしまった。今では竹編み工芸師が実用性と芸術性を結合させて、歴史のある文化を精緻な工芸品に編み上げ、さらに品格のある内容に仕上げている。貴重な竹編み文化を永続させるために、有志たちは教室を通して伝承し、多様な造形の竹編み用品で、生活を豊かにすることで、竹編みの美を永続させようとしている。
(経典雑誌二二七期より)
 
●南投竹山の旧台西バス発着場は今、竹青庭人文スペースになり、竹編みを取り入れた室内設計は現地の竹編文化の多様性を現している。
 
NO.254