慈濟傳播人文志業基金會
生命を善用して 慧命を成就させる
人生は一日過ぎれば一日短くなります。
身体機能は衰えても、良能を把握して
初心を守り、命の限り慧命を増長することができます。
 
一月、一年と過ぎ去り、旧暦の正月がすぐそこにやって来ています。子供たちは新年を迎えることを喜びますが、お年寄りは少し寂しくなります。なぜなら、日が過ぎると命はそれに従って少なくなり、少ない水の中の魚のように、何の楽しみもない、と感じるからです。
 
人生で生老病死を避けることはできません。「生」を祝い、「老いる」まで生きるのもよいことです。しかし、「病」を思うと恐ろしく、「死」に至ってはどう慰めればいいのでしょうか。
 
二〇一八年、世界の人口は七十四億に達しています。人口の増加と聞くと、この世は平穏だろうかと思わずにはいられません。もし、人口がますます増えて、ぼんやり過ごす人が増えれば、世の苦しみは筆舌に尽くし難いものになります。
 
毎年、年を越して新年に花火を打ち上げますが、どんなにお金がかかって、大気汚染を助長しても、人々はやはり、たまにしかない新年を迎えるのに必要だと思っています。寒い中で長時間待たされても、一刻の花火と煙を楽しむのです。
 
私たちはその日を得難いと思っていますが、世界にはその日を得難い平穏な日と感じる苦難に喘ぐ人がたくさんいます。寒さと飢餓の中で生活をしているのです。慈善団体が炊き出しをしているとはいえ、どれだけの人が援助を受けられているでしょうか。
 
最近、ニュースでよく大気汚染について報道していますが、空気中の汚染濃度はとても高いのです。「五濁悪世」とはその実、人の観念の偏りによるもので、大なり小なり作り出されたものは全て自然破壊をしないものはありません。日本人は感冒を「風邪」と言います。体がウィルスに感染すると、調和が取れなくなって病気になります。人心もまた注意すべきで、わずかな邪気や邪念によって欲の扉を開ければ、消費し続けて物をため込み、古い物を捨ててゴミを作り出します。それが埋められても、焼却されても、汚染に変わりはなく、空気や水源や土地に影響し、最終的には人体に回帰して種々の病気をもたらすのです。
 
 
天災は恐ろしいものですが、人災はもっと怖いのです。尽きない欲望は、一があっても九足りないと考え、百、千、万、億と追い求め続け、欲望が満たされないまま生涯を終えます。人と人の見解が異なって争いになると、社会や国家を混乱に陥れ、人々の生命を脅かします。
 
大地は繋がっており、空気も通じ合っています。天災や人災は、一国家や一地域だけの問題ではありません。自分自身を改善するだけでなく、世のために責任を負わなければなりません。
 
地球を修復する先導者になることを発心し、慎んで戒めて、己の内心を清め、人々に正しい道を歩むよう影響を与えなければなりません。消費を物を惜しむ考えに変え、物を大切に使うこと、また食に対する欲を慎み、あらゆる生き物を愛護すべきです。
 
人はお互いに尊重し合わなければなりません。もしも良し悪しを議論し、引き下がらずに悪意で以て対決すれば、ごたごたしている間に時間や人力、物を浪費して物事を複雑化し、世の中を不穏にさせます。
 
新年を迎える年末に際し、過去の煩悩無明をさっぱりとなくし、今この時から一秒をも惜しんで方向を見失うことなく、明るく清らかな心にすべく、毎日欠かすことなく自分の人生の歴史を自分で書いてゆきましょう。
 
 

常に真心で善意に思惟し、

着実に行動に移して

人生を美しいものにする

 
今年の元旦、大愛テレビ局が二十年目を迎えましたが、人生で言うと正に青春、活発でピュアな時期にあたります。開局当時は「大愛で世界を明るくする」使命を託しましたが、今では実体のある真、善、美を現すことができるようになりました。
 
過ぎた日々を思い返すと、感じるところが多々あり、大変な道程でした。大愛テレビ設立当初、皆が責任が重過ぎると私のことを心配し、困難な志業に賛同しない人がたくさんいました。しかし、「正しいことはやればいいのだ」と考え、普遍的に人心の浄化と衆生の済度を願ったのです。
 
今は情報の発達に伴い、逆に多くの人がメディアの報道を信じなくなっています。私は慈済のメディアが正しい情報を発信し、世の中の出来事を人々に知ってもらえるよう願っています。なぜこれほど気候が極端に変化し、こんなに災害が頻発しているのかを理解するとともに、正しく生態全体を認識することで、源から改善すべく行動に移してこそ、気候の不調を緩和することができるのです。
 
人々が心と行為を調整して、天地を護り、地球の生態秩序が乱れないようにすること。すなわち心根を守れば、この世に人災は起きません。共知、共識、共行があってこそ力を集結させることができるのです。
 
テレビでたった一秒間放映するだけでも多額のお金がかかるとよく聞きます。ですから一分一秒を大切にして、「正しい報道」をすべきです。大愛テレビのすべての番組、ニュース報道によって「耳から心に通じ、目から鱗が落ちる」ようになることを願っています。人々に透徹した内容を見てもらい、聴き入れる耳を持たせ、心に達するようにするのです。毎日喜んで大愛テレビをつけ、世界が輝くようにするのです。
 
メディアの科学技術によって、人心に清い泉が湧き出るように、絶えず仏法の清流を各家庭に流せるようになりました。法が心に入れば、心の迷いが解かれ、正しい思惟に導かれ、煩悩が消えるだけでなく、人生を転じて社会にとって有益な人材になることができるのです。
 
大愛テレビ局のスタッフが人文の慧命を守っていることに感謝しています。修行者が「人類のために歴史を書き、時代を見証する」と誓願するように、この世の大蔵経や人間菩薩の活動を後世に残し、現代の模範を未来に伝承するのです。
 
リサイクルボランティアに感謝します。彼らは日夜休むことなく、少しずつ大地を護って大愛に変えています。回収資源は清流となって世界を巡って人心を浄化し、大愛テレビ局を支えてきました。
 
人文真善美(筆耕)ボランティアにも感謝します。彼らは各地域の至る所に分布していて、生きた報道や世の中の見証を行って、ニュースや番組を提供しており、大愛テレビ局の膨大な数の記者グループであるといえ、名実共に「慈済大愛人員」なのです。
 
悔いなく人文志業を愛護している慈済人たちにも感謝しています。彼らの愛護がなければ、今日の大愛テレビ局はなかったでしょう。
 
大愛テレビ局の真善美は設立当初からの方向であり、過去、現在、そしてこれからも、永遠に逸れることはありません。人文の功能と良能は人心の浄化であり、メディアや文字、声音、行動の中に表れています。あらゆる思いが誠実で全ての思惟に善が宿り、心を一つに共に歩むのです。善なる考え方をすることを立願し、自分の思惟を守って真と善があれば、人生を美しいものにすることができます。
 

心の起伏は避けられないが

些細なことで畏縮せず

団結と協力でさらに愛を広げる

 
五十数年前、私が印順導師の下に帰依した時、「仏教のため、衆生のため」という教えを守ることを人生の目的としました。以来、私の念はそれ以上でもそれ以下でもなく、逸れることなく歩んでまいりました。
 
日々感謝と忍びない気持ちでいっぱいです。弟子たちの誠意をもった精進や世のための奉仕を見ると、感謝には無数の愛のエネルギーがあるからこそ、今日の慈済の成就があることが分かります。多くの人が勇敢に発心しても、一旦問題に直面した時、心のわだかまりを解くことができず、心に傷を負ってしまうのです。そういう状態で慧命は続けられるでしょうか? 私はそれが忍びないのです。
 
世の中の苦難に喘ぐ衆生を憂慮する時、弟子たちの定まらない慧命を心配し、その重い責任に誰が真に協力してくれるでしょうか? 世の中のことを思うと疲労と孤独を感じます。
 
昨年十一月の歳末祝福会の時、疲れた心を引きずって行脚に出かけました。台北と台中で海外ボランティアに慈済委員の認証を授けた後、南下して彰化の歳末祝福会に臨み、舞台の上で十人くらいの「記憶保養クラス」のお年寄りたちの劇を見ました。彼らは認知症のため、自分の状況がはっきりしないようでした。その中には私よりも若い人も何人かいました。以前、私は自分が年取ったとは思っていませんでしたが、その日、自分も年寄りなのだと驚きました。
 
 
次に行った雲林では、九十歳、八十歳、七十歳のお年寄りたちが皆、リサイクルボランティアをやっているのを見ました。お年寄りは新年や節句を大切にします。例えば旧暦の正月一日に仕事をしてはいけない、さもないとその年は一年中仕事に追われると言われています。しかし、彼らは三百六十五日休まずリサイクル活動をしています。人生ではリサイクル活動と大愛は単純であると同時に、容易なことではないのです。
 
彼らは説法はできませんが、法を実践し、それも誠実に実践しているのです。法が心に入り、煩悩がなくなって初めてあのように美しく、心境が自由闊達になれるのです。彼らは病で死ぬより環境保全を最後の一息までやりたいと発願しました。私は彼らが生命の良能をとても重視していることに心を打たれ、感謝と感動でいっぱいになり、清々しい気持ちになりました。
 
この菩薩たちの出現が私を奮い立たせてくれました。その日から、立っている時や座っている時は常に背筋を伸ばし、まだ老いてはいけないのだと自分に言い聞かせています。南部を回って花蓮に着くまでの一カ月間、疲れたと思いますか? 確かに疲れるものです。しかし、私は疲れてはいけない、生命の河の終点に近づきつつあり、一日過ぎれば一日短くなるのだから、命のかぎり時と争って慧命を増さなければ、と常に自分に言い聞かせています。
 
老いに衰えはつきものです。だんだん体の衰えと機能の衰えを感じます。人の機能は例外なく衰えますが、それでも生命の良能を発揮する機会を逃してはいけません。
 
仏陀は八十歳の時に入滅されました。《法華経 如来寿量品》に「仏寿無量」とあります。人は皆もとより仏心が備わっています。ただ仏の説かれた法を学んで生活の中に定着させさえすれば、すなわち仏の精神は至る所に存在し、寿命を永らえることができるのです。
 
寿命には数も限りもあります。老いたと思わなければ、まだ無量の志業を行うことができます。人生の前半の五十年を「寿量銀行」に預ければ、八十歳、九十歳のお年寄りボランティアも三十歳、四十歳の壮年期でしかないのです。中年のこの段階に、豊富な社会や家庭経験、仁愛、義理、礼節など、成熟した智慧と充実した精力でもって再出発するのです。
 
「寿量銀行」はいつも開いていて、皆さんの預金をお待ちしています。何歳になっても引き続き精進し、残りの歳月を惜しんで人々のために尽くしましょう。無駄に一日過ごせば、生命は一日少なくなり、慧命もそれに伴って停滞します。もし、毎日、六度万行(布施、持戒、忍辱、精進、禅定 、般若という菩薩行)を少しでも実行していれば慧命は増します。
 
多くの人たちが慈済に加入したばかりの頃は、黒髪でしたが、いつの間にか白髪頭になっています。生活がどんなに変わろうとも「初心」は絶対に変えてはいけません。選択した道が正しければ、起点から目標まで堅持するのが智慧なのです。人生には自然の法則があるため、一層時間を有効に使い、慧命を永続させなければなりません。
 
自分の信念を尊重して、初心を守り通すことです。心に起きる起伏は避けられなくても、ちょっとしたことで畏縮してはなりません。一人の人間が両手をひろげても何人抱擁できるでしょうか。もし、人々が手を繋げば、この愛は計り知れないほど大きな愛になります。皆さんの精進を願っています。
(慈済月刊六一五期より)
NO.255