慈濟傳播人文志業基金會
一つの灯が千年の暗闇を取り払う
小学校を卒業しただけの私は、根機(仏の教えを聞いて悟りを開く資質)に欠けているとずっと思っていました。大愛テレビで「静思晨語」を観ながら、書き留めようと思うのですが、いつも筆記が間に合わないのでした。二〇一三年から、台北市樹林区にある慈済俊英環境保全センターで早朝行われる「法の香りに浸る」朝会に参加するようになりました。行く前は、きっととても厳粛な道場なのだろうと思っていたのですが、行ってみると、花蓮の朝会でお話される證厳法師と各地の会場がインターネットで繋がっていて、まるで證厳法師のすぐお側にいるような気持ちになりました。心優しい證厳法師は、弟子がきちんと理解できるように、何度もお話を繰り返されるので、私も筆記に間に合うようになり、仏法が心の中にまで入ってきて、よく理解できるようになりました。
 
たくさんの仏教用語を学んで見聞を広めることができ、本当に役に立っています。仏教の教えである四諦、十二因縁、六度万行に自分の行いを照らして反省し、人としてなすべき本分を尽くすよう努めています。もしも心が無明に覆われていたなら、自分がどこから来たのか、どこへ行こうとしているのかも、そして自分の生きている価値さえも分からなかったと思います。「一つの灯が千年の暗闇を取り払い、一つの智慧が万年の愚を取り払う」というように、仏陀は智慧を用いて無知蒙昧な衆生を教え導き、人生をどのように送るべきかを示してくださいました。
 
 
仏教を学ぶのは自分と人を済度するためです。法身とは何でしょうか。もし私たちが時代に合わせて、仏陀の理念を応用して人々を教え導き、煩悩を菩提に転じ、誤った考えを正しい方向に導くことができるのなら、正法が常にこの世にあることでしょう。成仏する前に、人々とよい縁を結ばなければなりません。内に修め、外に行い、人々から信用され、喜ばれ、敬われるように努めなければなりません。さらに自分自身が努力を怠らず、自分の身も心も仏陀と同等のものになるよう努めることが、本当に仏教を学ぶということの意味です。
 
私は毎朝自転車を漕いで道場に行き、證厳法師がお話してくださる《法華経》のお説教を拝聴し、その後一旦家に帰ってから仕事へ出かけます。この毎朝の習慣を、私は運動と見なしています。時には七時前に出社しなければならないこともあります。そんな時は朝食の時間を削り、決して朝、法に浸る時間を犠牲にすることはありません。高齢の證厳法師が、せっかく弟子のために熱心に説教をしてくださっているのですから、そのお心遣いを無駄にすることはできません。
 
一昨年、私は自転車から落ちて転んでしまいましたが、幸い怪我のなかったことに感謝しました。また、職場で一緒に働いている外国人労働者との間に、言葉が通じないために、ちょっとした問題が起きました。心の中で無明が頭をもたげかけた時、まず心を落ち着けて考え方を変え、行き違いを解決しました。
 
人は誰しも百パーセント完璧ではありません。その人のよいところを見るようにして、お互い尊重し合うよう努めなければなりません。毎日必ず正法を学び、清らかな心で法の海を漂い、すべてをよい方向に考えなければなりません。生命の価値を活用すれば、毎日がもっと心軽やかで自在なものとなることができます。
(慈済月刊六〇八期より)
NO.256