慈濟傳播人文志業基金會
恐るべき震災
地震に慣れているはずの花蓮人も、「今度の揺れは本当に恐ろしかった」と驚愕させた大地震だった。
 
二月六日午後十一時五十分、人々が静かな眠りにつこうとしていたそのとき、八十六秒にもおよぶ上下左右の激しい揺れが襲った。室内の物が落ちて床を埋め尽くし、泣き叫ぶ声があちらこちらで響き渡った。市街地に位置する中央路の消防隊員がすぐさま出動し、警察官の警笛が絶えず鳴り響いた。花蓮慈済病院へと急ぐ救急車が一台また一台とけたたましい音を立てながら通り過ぎて行く……。
 
●国盛六街に立つ2棟のビル「白金双星」とその斜め向かいの「吾居吾宿」が地震で倒壊。潰れた車の上に飛び降り、大急ぎで逃げ出す住民の姿もあった。
 
市街地でのビルの倒壊を受けて、各病院で災害時医療救護体制が発動され、医療スタッフたちが次々と救急治療室へ駆けつけた。花蓮慈済病院の医師は、救急車で運び込まれた患者が危篤状態であるのを見ると、すかさず動いているベッドに飛び乗りCPRを施した。「OHCA」(Out of hospital cardiac arrest、院外心停止)を叫ぶ声に緊張感が走る。わずか二時間のうちに百人以上の人々が救急治療室に押し寄せ、医療スタッフらは傷の消毒や薬の塗布、包帯巻きや縫合などの治療に追われた。
 
人々は二月四日の夜九時過ぎに起きたマグニチュード六・一の地震を本震であると思い込んでいた。しかしその二日後に、さらに大きなマグニチュード六・二六強の地震が起こり、花蓮市街地では震度七の非常に強い揺れを観測した。人々の記憶の中には、当時の天地がひっくり返ったかのような情景と、泣き叫びながら逃げまどう人々の様子が今も鮮明に焼きついている……。
 
花蓮市街地では強震により四棟のビルが倒壊したが、中でも被害が大きかったのは雲門翠堤ビル、国盛六街のマンション白金双星と吾居吾宿、そして一階部分が地下に埋まってしまった四十一年の歴史を持つ老舗ホテル統帥飯店だった。
 
●統帥飯店の正面と後方で、地元花蓮や各地から駆けつけた救助隊が丹念に生存者の捜索を行う。

安息の夜を襲った強震

 
「揺れていたあの一分間は、まるで宇宙の浮遊物のように、あらゆる電気製品までが揺れによって飛び上がりました。暗闇の中で、私の頭にテレビがぶつかり、頭を手で触ってみるとしっとりと濡れていました。血が出ていたのです」。こう語るのは、商校街の雲門翠堤ビルに住んでいた陳建香さんだ。彼は初め、ビルが倒れたことに気づかなかったという。真っ暗な中を、唯一光を発する携帯電話を握りしめ、裏手のベランダへと移動して脱出した。ドアは大きな家具でふさがれており、どこからそんな力が湧いて出たのか分からないが、とにかく力を振りしぼって隙間を作り、潜り抜けることに成功したのだ。
 
●捜索活動は時間との戦い。軍隊は疲労困憊しながらも救助に取り組み、家族らは救急車の横で吉報を期待しながら、今か今かと待ち続ける。
 
彼は六階に住んでいたが、ドアを開けると地面が間近に迫っており、一階ほどの高さしかなかった。そこへ四人の救助隊がはしごを持ってきて、彼が下に下りてこられるようにした。両足が地に着いたとたん、一気に力が抜けて動けなくなった。「大げさでもなんでもなく、私はまるで死んだ豚のようになり、四人に担がれて現場を離れたのです」
 
六十六歳の陳建香さんは苦境を脱した後、まるで木で作った鶏のようにぼうっとしながら道を歩いていた。雨が降り始め、いっそう冷え込んできたが、気にも留めずにただひたすら朝まで歩き続けた。早朝の六時過ぎに、体を震わせている陳さんに気づいた一人の男性が毛布をかけてくれた。警察官もやってきて、被災者だと確認し、中華小学校に一時避難することになった。彼は見舞いに来る友人たちに慰めの声をかけられるたびに、「私は閻魔大王と戦った。そして勝ったんだ!」と答えるという。そうすることによって自分を励まし、心を慰めているのかもしれない。
 

雨降りすさぶ中

 
雲門翠堤ビルの正面に立つと、その四十五度に傾いた建物の姿から地震の猛威が伝わってくる。数本の太く頑丈な鉄骨でビルを一時的に支え、さらなる倒壊を防ぎながら、救助隊が低層階の住民とビル表側二階部分の漂亮生活旅店の宿泊客の救出を試みる。
 
台湾各地から駆けつけたレスキュー隊たちが危険を冒して救助活動を行い、時間と戦い続けた。震災の翌朝まで生存者が救出されていたが、午後になると悲しい知らせが相次いで飛び込んできた。遺体が搬出されるごとに雨の勢いも増し、慈済ボランティアの読経の声も相まって、物寂しく悲しい雰囲気が辺りを包み込んでいった。
 
●台湾各地から駆けつけた救助隊が救助犬や重機を駆使して生存者の捜索を続けた。
 
建物の中からたびたび起こる焦げ臭いにおいに、度重なる余震。消防車から長いサイレンが鳴り響き、「屋内にいるスタッフは全員ただちに避難してください!」という大音量のアナウンスが流れると、現場の人々は思わず息を呑み、二次災害発生への恐怖に怯えた。
 
美崙渓のすぐそばの土手の上は、温度が低く凍えるように寒い。それに加えて激しい大雨にも見舞われ、救助隊も軍隊も警察も、記者も各慈善団体のボランティアたちも皆全身ずぶ濡れになり、頭のてっぺんから足のつま先まで冷え切って、寒さに打ち震えていた。
 
そんな時とても嬉しかったのは、慈善団体によって提供された生姜汁だ。飲むと一気に体が温まった。慈済ボランティアはあまり遠くない所に救助隊が一息つくための天恵堂休憩所を設置し、彼らに温まってもらおうと大急ぎでエコ毛布を用意した。そして皆に毛布を一枚ずつ渡し、温かい生姜汁をお椀一杯ずつ飲んでもらい、力を蓄えてもらった。夕方近くになると、ボランティアたちはさらにシングルバーナーを持ってきて、暖を取り、何とか寒さをしのいだ。
 
●避難所となった花蓮県立体育館では、各慈善団体によって食糧や物資が提供された。しかし、何の仕切りもないためプライバシーは確保されず、落ち着いて眠ることは難しかった。
 

一分一秒が辛い

 
老舗ホテル統帥飯店の倒壊現場では、旅行客らは無事に救出されたが、二人の従業員が建物の下に閉じ込められたままになっていた。捜索中、レスキュー隊が壁を叩くと、彼らも壁を叩き返してきたので、居場所を把握することができ、人々は心躍らせていた。しかし、午後二時四十六分、先に救出された従業員、周志軒さんの体には白い布がかぶされていた。現場で十四時間待ち続けた周志軒さんの母親の洪冬春さんは冷たくなった息子に駆け寄り、胸が張り裂けるような苦しみに襲われた。
 
地震発生後、洪冬春さんは車を飛ばして統帥飯店へと向かい、夜中の十二時半から翌日午後まで待ち続けた。降り続く雨とともに気温が次第に下がり、周志軒さんが救急車で運ばれた後は大雨になった。まるで神様がここで起きている一部始終を見ていて、涙を流しているかのようだった。
 
周志軒さんが発見されてから間もなく、もう一人の従業員、二十六歳の梁書瑋さんがレスキュー隊によって救出された。彼は幸運にも無事で、自分で歩いて出てきたのだが、検査のため花蓮慈済病院に搬送された。
 
地震発生時、四本の柱が一気に崩れ、ガラスのドアは砕け散り、天井が落ちてきて、梁書瑋さんは柱の横に倒れた。閉じ込められていた十五時間の間、彼は体で瓦礫を支えながら周りの様子を探った。大の字になって寝るだけの空間しかないが、左右に少し移動することができる。真っ暗な中で、彼は試しに呼んでみた。「周志軒さん!」。すると、弱々しい返事と何かを叩く音がかすかに聞こえた。しかし幾度かの余震の後、相手の返事も音も一切聞こえなくなった。
 
車の音や呼びかける声が聞こえてきて、彼は声のする方向へと這って行った。また、レスキュー隊に正確な位置を知らせるため、しきりに天井を叩き、返事をしながら進んで行った。そして人の声がだんだんはっきりしてきて、「しっかり!」という声が聞こえたとき、彼は自分がもうすぐ助かるのだと確信した。引っ張り出されたその瞬間に思ったことは、「生きているって素晴らしい! これからは家族にも恋人にももっと優しくしよう」ということだった。父親も彼を励まして言った。「天がお前を生き延びさせたからには、きっとなすべき任務があるのだ。これからはもっと福田を耕しながら生きていくんだぞ」
 
●中華小学校の避難者は、そのほとんどが家があっても帰れない人や帰る家を失った人たちだった。慈済は避難者たちがゆっくりと休むことができるよう、大急ぎで福慧ベッドと布団を運び込み、提供した。
 

被害に驚く

 
夜が更けるにつれ、被災者のために県が用意した避難所である中華小学校と県立体育館も次第に人が増えてきた。
 
この二つの避難所は、いずれも二、三百人の避難者を収容することができる。慈済は彼らがゆっくりと休むことができるよう、福慧ベッドを家族ごとに配り、ほかにも多くの心優しい人々が服や布団や日用品などを提供した。また、三度の食事は慈済や一貫道とその他の団体が提供した。
 
住む場所や食べるものには困らなかったが、衝撃を受けた心はなかなか安まるものではない。二歳半の女の子を抱いた杜さんという女性は、国民八街に住んでいた。地震が起きると手近なものをさっといくつか持ち出し、夜通し逃げ回ってようやく避難所に入ったが、ショックを受けた娘さんはなかなか寝つけず、ずっと「ママ、逃げよう、逃げよう!」と叫び続けていたという。
 
夜中から明け方にかけて、たびたび震度四~五の余震があり、そのたびにあちらこちらの携帯電話から警報が鳴り響いた。そのためさらに緊張感が高まり、母も娘も落ち着いて眠ることができず、眠ったり目を覚ましたりの繰り返しだった。
 
国民八街は封鎖され、昼間一時的に開放されたときだけ住民は物を取りに家に帰ることができた。杜さんは三階にある自宅に戻ると、床のタイルが破損し、タンスも家具も倒れてめちゃくちゃになっているのを目の当たりにした。そして震災の夜、倒れた物を懸命に起こしながらやっとのことで通る道を確保し、娘と二人で逃げ出したことを思い出したという。ここまで話すと彼女は、涙をこらえきれなくなって泣き始めた。
 
杜さんはシングルマザーで、娘さんは早産だったため発達障害があり、今でも療育を受けている。彼女は涙を拭くと覚悟したようにこう語った。「私も娘も無事だったのだから、これ以上の幸せはありません」。彼女は台北に住むお姉さんの家へ行って一緒に旧正月を過ごし、その後帰ってきて家を整理する予定だという。
 
●200人を超す被災者が花蓮県立体育館で一週間避難していた。その間に、慈済ボランティアは毎日食事とおやつ、飲み物などを用意し、体育館に届けた。

地震のことを

語るだけでも恐ろしい

 
花蓮はフィリピン海プレートとユーラシアプレートの交わる位置にあり、たびたび地震が発生する。そのため花蓮の人々は皆地震に慣れっこになっており、地震の時は逃げる必要などないと自慢げに語る人もいたが、今回ばかりは違っていた。ほぼすべての人が恐怖に怯えた表情を浮かべ、心底からショックを受けていたのだ。
 
代々花蓮南部の玉里鎮に暮らす女性、伝さんは、故郷と親元を離れて花蓮の市街地に移り住み、部屋を借りて一人暮らしをしていた。住んでいた部屋は国盛五街の雲門翠堤ビルと倒壊した二棟のビル吾居吾宿と白金双星からわずか一本の裏通りを隔てた距離にある。あの晩、彼女も恐ろしい揺れを体験した。
 
「激しい揺れの後、棚が倒れて、玄関のドアも変形し、右手と膝を怪我しました」。伝さんは四階のバストイレつきの部屋に住んでおり、何かあった時も近くに頼れる人はおらず、思い起こすだけでも恐ろしくなるという。現在パソコンの職業訓練校に通っている彼女は、「今回は本当に強いショックを受けました。花蓮に十数年も住んでいた私たちのプログラミングの先生でさえ、怖くなって台北へ引っ越したくらいです」と語る。
 
彼女は、隣の建物が今にも倒れそうになっており、その二階から飛び降りて逃げる人や、ビルの前にある壊れた自動車の上に飛び降りてから急いで滑り降りる人たちを目の当たりにした。そして雨除けのある場所に大勢で集まって、一睡もせずに一晩中皆で議論を交わし合った。幸いなことに住民は皆すばやく避難し、死傷者は一人も出なかったという。
 
三十代の彼女は、一匹のマルチーズを連れて慈済静思堂の裏手にある世界慈済人寮に移った。ここは震災後、被災者たちの避難所として開放されていた。伝さんは慈済がペット連れでも受け入れてくれることや、一家族に一部屋ずつ割り当ててくれるので、お互いのプライベートも守られること、しかも食事が三食提供されるうえに慈済病院の精神医療科専門スタッフが常駐しており、心理カウンセリングも受けることができるなど、ケアが非常に行き届いていることにとても感謝している。
 

各界から駆けつけた救援隊

 
軍人の蔡哲文さんは災害時医療救護隊のライセンスを持っている。彼は地震後まず妻と三人の子供たちを県立体育館に避難させると、すぐに震災現場の雲門翠堤ビルへ向かい、負傷者を救急車で病院に運んで治療を受けさせたり、遺体を葬儀場に運んで安置したりする手伝いをした。
 
彼の妻は看護師で、夫の行動を支持しており、「彼は人を助けに行きましたので、私は家庭のために尽くします」と話す。吉安郷北昌村のマンションに住んでいたが、家中のあらゆるものが床に落ちて散乱し、水道管が破裂した。そのうえ、生後三か月になったばかりの娘を含む三人の子供を一人で世話しなければならなかったが、妻は全力で夫の熱意をサポートした。
 
花蓮には彼のような熱意ある人々が大勢おり、国盛六街の二棟のビルが倒壊した現場では、ボランティアの消防隊メンバーが軍や警察に協力して秩序を守っていた。リーダーの頼瑞均さんは以前、兵役の一環として消防の仕事に従事したことがあり、退役後にボランティア消防隊に入隊した。母親は息子が危険にさらされるのを心配し、あまり賛成できないでいるが、彼はこの有意義な任務にやりがいを感じている。
 
●旧正月前は気温が低い上にじめじめした雨の日が続き、救助隊員たちはいっそうの苦労を強いられた。慈済ボランティアは彼らにエコ毛布を送り温まってもらった。
 
彼と隊員たちは二棟合計百十五世帯の住民が全員避難したことを確認するまで決してあきらめず、前後五回にわたりビルの屋内に入って捜索を行った。大震災から二、三日が経過し、二百回以上におよぶ余震の後、ようやく大地が静まると、住民たちは一時帰宅許可が出れば物を取りに家に戻ることができるようになった。その時も隊員たちは住民に付き添って彼らの安全を守った。許可時間外に閉鎖区域に入ろうとする人がいれば、それを厳しく規制した。
 
政府と民間が密接に連携を取りながら全力で救助に当たったため、救援のスピードが増し、被害を最小限に抑えることができた。それぞれの事故現場に、地元花蓮の軍や警察、消防隊や救助隊のほか、国家レベルの中華捜索救難本部までが動員され、さらに台湾全土から数多くの志願救助隊や慈善団体、個人のボランティアが駆けつけた。何か少しでも役に立ちたいと願う彼らの強い思いは、花蓮と周辺地域を結ぶ蘇花公路が土砂崩れで一時通行止めになっても、くじかれることがなかった。
 
北部から雲門翠堤ビルにやって来た赤十字社のレスキュー隊は、震災発生後ただちに出動した。蘇澳まで来たところで道路の封鎖に遭遇した場合には、列車に乗り換えてでも花蓮に向かう計画を立てていた。また、嘉義レスキュー隊は台湾を半周して駆けつけるなど、助けたいと願う人々の熱い思いに、感動を禁じえない。
 
旧暦の大晦日、避難所が次々と閉鎖され、県政府は避難者たちを福康飯店に移した。統帥飯店の前には、解体される前に一目見ておこうと多くの人が集まり、かつてここで結婚式を挙げた人、宴会を開いた人、旅行に来て宿泊した人などが深く名残りを惜しんでいた。ホテルを定年退職した年配の元スタッフたちは、なおさら辛くやり切れないことだろう。
 
経営者はホテルの再建を考えているが、感情の面からいえば、やはり失ったものを取り戻すことはできない。数年後、人々はいったいどのようにこの地震を語るのだろうか? 私は、辛い記憶ばかりではなく、人と人との心温まる物語がたくさんあったということを、しっかりと心に留めておきたいと思う。
(慈済月刊六一六期より)
NO.256