慈濟傳播人文志業基金會
善を施し 善を行い 善を教える
全身全霊を尽くして
人を助けましょう
良い言葉で人々を利し
信心が増すよう励ましましょう
互いに称賛して成就するよう
皆で善行しましょう。
 
 
南米のベネズエラは政治も経済も乱れ、治安は日増しに悪化しています。また、ひどいインフレのために、国民は長期的に民生品が欠乏して生活が苦しく、毎日のように人々は外国に逃れています。隣国のブラジルが、ベネズエラ難民に食事を提供するなどの人道援助を行っていますが、野宿しながら労働許可証の交付を待つ難民は、生活が続きません。難民の数は増える一方で、ブラジル政府はプレッシャーを感じています。
 
ある難民の夫婦は、妻が教師で夫はリハビリ療法士と、二人共専門職従事者ですが、二人の給料を合わせても一ダースの卵も買うことができず、とても生活ができません。結局、子供を連れてチリに逃れました。親しい友人に頼るつもりでしたが、友人も彼らを受け入れる余力がなく、家を借りることにしました。借りた家の中には家具は何もありません。この惨状を目にした家主が、彼らに代わって慈済のケアグループに連絡したのです。
 
訪問したボランティアは、中古の家具と衣類、マットレス、炊事用具、生活用品などを贈りました。面識もない慈済ボランティアに至れり尽くせり助けてもらって大変感謝している、と奥さんが言いました。
 
経済的な混乱のためにせよ、戦火のためにせよ、生まれ故郷を追われることはとても辛いことです。時には少数の人の心が偏っているために、尽きない貪欲と絶えない悪念が生じます。これが多くの人に悪影響を与え、社会や国家は不安定になってしまうのです。
 
社会が安定を保つことは容易なことではありません。苦を見て幸せを知り、安定した社会で私たちが安穏に生活できることを、常に感謝し、お互いに感謝し合うべきです。福を知って大切にし、それを維持し、人と互いに交流して愛を届け、共に幸せな社会を創らなければなりません。
 

心の持ち様を変えて、

生態を保護する

大地が健やかであれば、

人類は平和に暮らせる

 
社会が祥和息災であることを願うなら、一人ひとりが自分から始めるべきです。中国福建省福鼎管陽鎮の西昆村は孔子の末裔が住む村で、古の伝統文化が残っています。二〇一七年八月。慈済ボランティアは環境保全の理念をこの西昆村に広め、古い家を修繕して環境保全センターにし、村民に資源回収を呼びかけました。
 
環境保全について説明した時、住民は家にある様々な椅子を持ち出してきて、まるで一昔前に村人が映画でも見るような様子で、ボランティアの環境保全の理念に耳を傾けていました。
 
村の共産党書記を務める孔慶平さんはすぐに聞き入れ、正しいことなら実践すべきだと思いました。「正しいことは自分、我が家、我が村から始めよう」と村人に呼びかけました。村の四十世帯が呼応し、「源から清くしよう」という観念を広め、「ゴミが黄金に変わり、黄金が愛の心に変わる」ことを行動に移しました。
 
彼らは一軒一軒回って、「お宅に黄金(リサイクル用のゴミ)がありましたら出して下さい」とリサイクルを呼びかけました。孔さんは自費でリサイクル用のゴミ箱を購入して、一戸につき三個ずつ配付し、忍耐強く紙類とプラスチック、瓶や缶を分類するよう教えました。
 
初めのころ、村人たちは慈済ボランティアが「ゴミ拾い」に来たのだと思っていました。しかし、ボランティアが忍耐強く説明し続けた結果、村人は次第に資源回収で地球を浄化することができ、その収益で困っている人を助けることができると理解するようになりました。今では、回収車の音楽を聞くと、自発的に回収物を出すようになりました。
 
 
このように純朴な村の善良な村人には感動させられます。リサイクルするのは営利のためではなく、資源を大切にして省エネと二酸化炭素の排出を減らすためです。ゴミとして捨てられたものの中には、回収して再生できる物があるのです。そして、一歩進んで、源から汚染を避け、清潔に回収して細かく分類すれば、品質の良い再生品になります。
 
慈済ボランティアは共通の認識と行動で、環境保全の理念を宣伝しています。現在、環境保全の問題は国際社会で重視されていますが、ゴミも大気汚染も、全ては人類が作り出しているのです。現代社会では、セールスの概念が横行し、消費を奨励しています。一時の快感や欲望のために消費しては物を捨てる悪循環が続き、膨大な量のゴミが生まれています。
 
四大元素の極端なアンバランスは、人類の行為に行きつきます。心から行動へと少しずつ蓄積して、長期的に衆生が共に責任を負わなければならない業になるのです。問題を改善したいなら、自分から始めなければならず、智慧のある行動で、人々の見解の違いを克服し、真心から天地を愛護することです。天地が健やかになれば、人類は平和に暮らせるのです。
 

精進して法悦を得、

見返りを求めず感謝する

 
フィリピンのケソン市の違法建築が密集した貧民地区で、二月二十八日早朝大火事が発生し、三百世帯の人が家を失いました。慈済ボランティアはただちに見舞いに駆けつけ、救助に当たる消防隊員と被災者のために炊き出しを行いました。
 
被災地は静思堂から車で五分の所にあり、住民と慈済人は長年交流があります。彼らは慈済精神に賛同し、多くの人が慈済会員や環境保全ボランティアになっています。被災者のヨーリッタは家が全焼し、何も持ち出せませんでしたが、六人の孫が全員無事だったことに感謝していました。彼女は長年にわたり毎週水曜日、静思堂に参拝していました。火災直後、ちょうど精進の日でした。ヨーリッタは、ボランティアからグレーの制服を借りて、静思堂に参拝した後、環境保全センターで朝食の準備を手伝いました。
 
彼女の心は平静で、火事は彼女の精進に影響しませんでした。彼女は被災者から一転して、ボランティアと共に苦しんでいる隣人をケアする英雄に早変わりしました。
 
火災は無情ですが、温かい人情味に溢れていました。この世に苦難は多いものです。ですが、愛さえあれば心の傷を癒すことができ、心を広く持てば悩みは消えます。
 
 
アフリカのモザンビークで二月半ばに突然ゴミの山が崩壊し、家屋が押しつぶされ、十七人が死亡しました。慈済ボランティアはすぐさま出動しましたが、豪雨で道路は冠水し、古い車はエンストしてしまいました。車を降りて皆で押しましたが、動きません。心に焦りを感じながら徒歩で被災地まで行きました。
 
彼女たちはきちんとした身なりで、被災者に対して善意と尊重の態度で接し、被災者のニーズを聞き取っていたため、役人も感動し、安心して慈済に配付と炊き出しを任せました。暑い気候の中、避難所で衛生問題が持ち上がり、ボランティアが支援の内容を相談した結果、バケツと石鹸、歯ブラシ、歯磨きなどを配付することにしました。被災者は整然と並んで受け取っていました。
 
遥か遠方にいる弟子たちの生活は豊かではありませんが、心は豊かで、自分よりももっと貧しい人たちを支援しています。尊重と愛を奉仕する輝かしい人性の現れです。愛こそがこの世の希望であり、愛のある良能だけが輝くのです。
 
誰であっても、その人の困難はその人の人生において、避けて通れない災難なのです。縁と必要性があれば、慈済ボランティアは精一杯支援しています。どんなにこの世で頑張っていても、困難は避けては通れないものですが、その境地に左右されないことです。奉仕に見返りを求めず、相手が身心共に安らかになり、喜んでくれた時、自分も法悦が得られるのです。
 
菩薩行を修めるには、感謝の心が必要です。大勢の衆生がいなければ、菩薩の道を歩くことはできません。しかし、その道に留まっていてはいけません。歩いてきた道に執着せず、精進に励めば、喜びが得られます。妨げになるものは何一つなく、一段また一段と心の境地を高めることができます。
 

六度万行の最たるものは布施

誰もがいつでも始められる

 
三月中旬、アメリカのボランティア陳思晟が花蓮に帰ってきた時、ハイチでの活動を報告しました。彼は一袋の硬貨を携えていましたが、それはハイチの現地ボランティアが、二月六日に発生した花蓮地震を知って、何度も台湾を祝福する場を設け、そこで集めた義援金でした。
 
その袋の中は大部分が十セントや五ドルなど小額のものでした。五ドルは即ち二元(一元は約三・五円)です。数えると数百元になり、貧しい彼らにとって容易な額ではありません。その心にとても感動しました。
 
ハイチは一九九八年と二○○八年に甚大なハリケーン被害に遭い、二○一○年には大地震に見舞われました。慈済ボランティアは十年余りそこを離れていません。陳思晟はこの八年間に七十回以上も往復し、貧しい住民の生活状況をよく理解しています。昨年ドミニカの台湾人ビジネスマンが一万足の靴を贈りましたが、受け取った人々はもったいないと言って履きませんでした。この数年間、慈済は絶えず米の配付を行っており、おかずがなくても一膳の白いご飯が食べられることに、貧しい彼らはとても満足しています。
 
人々の苦境はこの世の地獄さながらですが、衆生を護る地蔵菩薩のような人たちもいるのです。フェニックスの如済神父は辛くて険しい環境に耐え、忍びない思いでそこに留まっています。彼は慈済が台湾からの愛の米を学校に配付してくれることに感謝しています。彼の学校は三食にこと欠く貧困家庭の生徒が多く、少なくとも月曜日から金曜日までは、学校でご飯を食べることができるのです。
 
 
昨年、如済神父は台湾に来て慈済を訪問し、感動と喜びに満たされてハイチに帰り、仏法を説いて、群衆の中でそれを実践しました。支援を受けた住民の中には、現地ボランティアになった人もいて、読書会に参加した時の身なりやマナーは整然としていました。活動の間も勝手に出たり入ったりせず、皆一緒にお手洗いに行き、整列して席に戻りました。彼らは慈済宗門に感謝し、静思法脈を尊重しています。
 
慈済の発祥地からハイチは非常に遠いのですが、徳と法の香りは何の障害もなく海を超えているのです。彼らは感謝の気持ちで恩返しをし、奉仕したいと望んでいます。「私は五ドル持っていて、一ドル寄付したいのです。四ドルのおつりをくれますか?」と彼らは言います。それはけちではなく、五ドルしかなくてもその五分の一を布施したのです。布施は金額の多寡ではなく、その真心が尊いのです。
 
この世で行う菩薩行の「六度万行」の六度は、最初が布施です。布施はお金と時間があるから行うのではありません。人々を利する話をし、人々を励まして信心を持たせ、身心を使って人の負担を軽減するのです。それらは全て布施であり、誰もがいつでもできるのです。
 
真実かつ柔和な言葉を使い、悪言を言わず、二枚舌も妄語も綺語も口にしてはいけません。また、互いに誉め称え、成就し合い、良いことは皆で行うのです。
 
自分自身が修行して群衆の中で実践するのが「妙徳」であり、自分の安楽を求めず、衆生を利するのです。布施、善行、善い教えは、あらゆる衆生に喜んで法を求める気持ちにさせます。もし救う側と救われる側の心が互いに通じ合えば、衆生が悟りを開くのは困難なことではありません。
 
                                  ●
 
凡夫は毎日忙しく、心の「浮き沈み」の中で、あることに専念したと思ったら、知らないうちにまた方向を変え、自分の見聞きした感覚に執着してしまいます。虚妄の念にとらわれ、見たものに執着するから多くの煩悩にとらわれ、また、警戒心がないため自然のままに人生はこの世で迷ってしまうのです。
 
幾重もの悪癖に縛られ、無明がますます厚く覆いかぶさり、心の光明を遮ってしまいます。長い間塵の中で迷えば、ぼんやりした霧の中で見る光景ははっきり見えるのでしょうか? 人それぞれ考えや見方が異なるものです。一人一人が「我」に執着し、道理も分からないでいるなら、この世は渾沌として乱れるばかりです。
 
人は皆、真如の本性を持っており、仏法の力を借りて無明を払いのけて、頑固な考え方を打ち破ることができるのです。仏の力を借りる場合でも、自分の力は必要です。時は素早く過ぎ去り、二度と戻りません。仮に善念が芽生えても、善悪が綱引きをしているような状態では、いつになったら善法をしっかりと心に留めることができるのでしょう。
 
法をただちに用い、慇懃に精進すべきです。怠けてはいけません。皆さんが心して善念を保ち、人を利すると同時に自分をも利し、心に慧光を輝かせ、妙法を透徹して「垢から離れて染まらず、清らかで明るく」あるよう願っています。
(慈済月刊六一七期より)
NO.257