慈濟傳播人文志業基金會
メキシコ地震後 愛が根付く
「泣かないで、歌おう! 美しい空が私たちの心を暖めてくれる……」メキシコ地震後の実際的な援助は、民間版の国歌「美しい空」と同じように魂を励ます。
 
慈済ボランティアと現地ボランティアは協力して歴史の一ページを切り開き、十回の配付を無事に終えた。希望と愛の種を人々の心にもたらし、この高原の地に根付かせた。
 
●ソチミルコ市サン・グレゴリオ地区の街角の倒壊した自宅の前で、老婦人が震災後何より切実な助けとなる慈済の現物引き換えカードを胸に抱きしめていた。
 
度重なる震災は、この国の人々の警戒心が薄いからではなく、先天的な地質と後天的な気候不順のためである。
 
一九八五年九月十九日、メキシコ南西の外海でマグニチュード七・八の地震が発生、首都メキシコシティは大きな被害を受け、七千名の命が奪われた。それから三十二年後、二○一七年の同月同日、政府が全国に地震防災演習を発令した数時間後の午後一時十四分、中部プエブラ州でマグニチュード七・一の地震が発生。震源から百二十キロの距離にある首都でも激しい揺れに見舞われ、大きな被害が発生した。
 
なぜメキシコでは、これほど頻繁に地震が発生するのだろうか。
 
メキシコは北アメリカプレート、ココスプレート、太平洋プレートという三大地殻の交差する位置にあり、また首都が置かれたメキシコ盆地では、脆弱な地質による液状化現象が発生し、大きな被害を招きやすいのだ。
 

高原の国に、視察の足跡

 
周辺都市を含めたメキシコシティの総面積は二千十八平方キロメートル、人口は二千五百万人に達し、台湾の総人口を上回る。世界最大都市の一つで、慈済が今回救援活動を行ったソチミルコ市とトラウアク市も同様である。
 
そのうちソチミルコ市はメキシコ渓谷の中部に位置し、聳え立つ火山に囲まれている。海抜は二千二百五十メートル。メキシコシティ全体も高原地形であり、当初到着したばかりの慈済人は、道を歩くにも息が切れた。
 
慈済世界ボランティア総監督黄思賢率いるアメリカチーム一行六名が、地震から七日目の二〇一七年九月二十六日に被災地ソチミルコ市のサン・グレゴリオ地区を視察した。数えきれないほどの家屋が倒壊していたが、悲惨な状況の中でも、多くの人々が街角で水や物資を提供し、医療ステーションを設置するなど、自発的な救援活動に取り組んでいた。
 
●2017年9月19日の地震の被災地ホフトラ市。震災後3カ月が経っても瓦礫が残り、復興への歩みは遅い。
 
報道によると、ソチミルコ市では六名が死亡、七百棟以上の家屋が損壊し、二十八の道路が被害を受けた。慈済災害視察チームはサン・グレゴリオ地区で、災害救助を指揮するエネルギー建築省秘書のジュリア・ベネッティに会った。彼女はこの地区は人口三万人で、人々の平均月収は三百元(一元は約三・五円)に満たない貧困地区で、震災後大きな困難に直面していると語った。
 
災害視察チームは百七十年の歴史を持つ古い教会を通りかかった。教会は地震で天井の一部が崩れ、死傷者を出したが、幸い教会の主構造は無事だったため、人々はここで祈禱や礼拝を行っているという。
 
見知らぬ慈済人が来たのを見て、フランシスコ・カステラノス神父が真心を込めてこう言った。「私たちには同じ血が流れています!」。宗教は彼我を分かたず互いに助け合うべきだという意味の込められたこの言葉に、ボランティアたちは感動した。
 
その後、第二弾のチームがここを基地とし、政府と民間から提供された被災者リストを元に一軒一軒訪問して、最も助けを必要とする家庭を確認した。さらに現地ボランティアの通訳で被災者とコミュニケーションを図った。アメリカから駆けつけたメキシコ系女性のリリアン・アグイラルは、慈済人と住民との距離を縮める通訳を務めるため、災害視察チームとともに引き続き現地に残ることになった。
 
以降、アルゼンチン、エクアドル、台湾からのスペイン語ができるボランティアが加わり、二カ月以上にわたって頻繁に家庭訪問と再調査を行う中で、慈済は現地の住民との友好を深めた。三分の二以上の住宅が政府により違法建築と指定されているため、公的支援が受けられない「チナンパ(浮き畑)地区」でのサポートも行った。
 
●メキシコの暮らしには今と昔が共存している。街角ではグアダルーペの聖母像に先住民インディオの軽食屋、服飾品を売る店を目にすることができる。スペイン植民地時代のバロック建築が残された首都の市街地では、伝統音楽を演奏するマリアッチや、靴磨きの職人もいる。一方、その他の都市では今でも馬を交通手段とする人々もいる。
 
湖床に土を埋めて陸を作る長方形の耕種方法は、古代アステカ時代の方法を踏襲したものである。かつての帝国はスペインに滅ぼされたが、古い運河とチナンパは残り、ユネスコの無形文化遺産に登録されている。
 
チナンパ地区で、自宅が倒壊して落ち込んでいた農民のジャイメ・ペレスは、ボランティアたちの励ましを受けて元気を取り戻し、毎日自転車で被災者リストの再調査に参加し、協力している。「ここではみんながボランティアだよ。心の底から自分たちの地域のために働きたいと思っているんだ」と彼は話す。
 
●チナンパ(浮き畑)では農民たちが野菜を栽培している。ここはユネスコにより無形文化遺産に登録されており、メキシコ古代文明の証でもある。アステカ帝国時代に始まった湖上での優れたチナンパ農法は、何世紀にも渡って人々に食物を提供してきた。
 
悲しみを力に変えた被災者は少なくない。乳母車を押して家庭訪問をしているブレンダ・ナルシソや震災後うつ病を患ったフローラ・ガルシアもそうした被災者の一人で、彼らは続々と新しい働き手となった。配付を行う前から、慈済はソチミルコ市ですでに確固とした信頼関係を築いていたのだ。
 
モレロス州は災害視察チームの最初の基地であった。二〇一七年九月二十四日にメキシコに到着した黄思賢は、モレロス州ホフトラ市では建物の多くが倒壊して平地となり、数十の街の住宅と商店に甚大な被害が出たとの報道を目にした。現地は治安が悪く、マフィアが強い勢力を持っていると多くの人が警告したが、それでも彼は毅然として次の日にはチームとともに出発することを決めた。
 
その時の災害視察では、至る所に地震の傷跡が見受けられた。ホフトラ市の街道ではあちこちに倒壊した家屋とテントがあり、被災者は屋外で夜を明かすことを余儀なくされていた。大勢のチームがやって来ても、安全や交通の問題を解決できるという見通しをつけ、黄思賢はこの重大な被災地を配付対象に組み込むことを決めた。
 
●サトウキビの重要な産地サカテペク市では、市政府が配付場所として25000人を収容できる国家サッカースタジアムを提供してくれた。サトウキビの葉を焼く煙が空に舞い上がる中、1500世帯以上の市民がやって来た。
 

静かな生活が、地震で一変

 
二○一七年十二月七日、十三の国や地域からの慈済ボランティアで組織された百人以上のチームが、トラウアック市で初の配付活動を行った。慈済人が最後に災害視察に来た都市であったにもかかわらず、同市が最初の配付の拠点となったのは、隣接するソチミルコ市の職員ジュリアの引き合わせがあったためだ。
 
十二月四日、台湾チームがメキシコに到着すると、アルゼンチンのボランティア洪良岱と王姵文、さらに市役所チームの付き添いのもとトラウアック被災地を訪問し、「配付通知書」を被災者に届けた。
 
地震後二カ月半を経ても、地震の傷跡は至る所に見られた。多くの家屋が倒壊を防ぐため、鉄や木の棒で家を固定していた。ある地区では通りのほとんど全ての家屋に、「要取り壊し」を示す通知書が貼られていたが、それでも住民はそこを離れず、苦労して建てた家を守り続けていた。また、路面の陥没も激しく、落差が数メートルに達するところもあった。
 
黄色の家に住む五十二歳の女性は、地震で家が倒壊して、家族は離れ離れとなり、自分は病気の八十歳の老母を連れて妹のもとに身を寄せ、息子や娘は親戚の家に身を寄せている、と泣きながら訴えた。木の棒で支えをした家屋を見つめながら、彼女は家族が一緒に暮らしていた過去に戻りたいと語った。
 
彼女によると、市政府は一度は住民が自宅を再建するための建材を補助すると約束したが、連邦政府はこの地区を断層帯と判定し、住民の転出を望んでいるという。ある弁護士の助けで建築の専門家による評価を行うことになり、大学もより詳細な調査を行う地質チームを派遣したが、結果が出るのは八カ月後とのことだった。
 
帰途、地震後水と食料の供給を続けている移動食糧車を目にした。クスロヘミ・イザベルという女性が英語で話しかけてきた。彼女は、自分と別の地区に住む姉が配付通知書を受け取ったと言い、一袋のみかんを皆に分けてくれた。
 
同行していた大愛テレビチーフディレクターの葉樹姍が、みかんは華人にとって縁起のいい食べ物であると説明し、イザベルの幸運を祈ると、嬉しそうに笑った。
 
●トラキルテナンゴ市での配付ではフォークダンスが披露された。ダンサーはインディオのトーテムとスペインの闘牛士をデザインした衣装に身を包んだ。
 
トラウアック市での配付当日、イザベルは姉と一緒にやって来た。現物引き換えカードとエコ毛布を受け取った姉妹はうれし涙を流し、「ずっと待っていたの。皆さんの慈悲と大愛を私たちは永遠に忘れません」と話した。災害視察で撮影したビデオを放映したり、慈済人の声かけにより、お年寄りは泣き、そして笑った。
 

涙を拭い、自分と人を救う

 
その後の二日間にわたるソチミルコ市での配付では、舞台の上と下で和気あいあいとした交流が生まれた。そのにぎやかな光景を目にしたアベリーノ・ランゲル市長は思わず涙をこぼした。地震発生直後、市は災害救助の不備を指摘され、市長が被災地を視察した際には市民の暴行を受けたのだ。その日の盛況を目の当たりにした市長は、「ソチミルコ市はきっと蘇ります。慈済のサポートにより苦難を脱し、人々が団結し、困難をともに乗り越えるでしょう!」と語った。
 
現地ボランティアのタニ・フォンセラーダが、證厳法師の被災者への慰問の手紙を読み上げると、多くの人々が感動して涙を流し、マリー・アンジェリカが進み出て自分が育てたバラの花束を慈済人に手渡した。サン・グレゴリオ地区で小児科診療所を開業する彼女は、地震により住宅と診療所が全壊した。「でも私はあきらめません。再建することを発願します」
 
現在六十二歳のマリーは医者となって四十年、多くの人々と触れ合ってきた。地震後物資や食べ物を人々に提供し続けた彼女は、慈済人が被災地を走り回り、人々を慰めるのを見て、慈済人は人々に希望と温もりを与えるバラの香りのようだと感じたという。
 
●ホフトラ市の配付地点はテントの張り巡らされたリトルヒーローサッカー場だった。この老夫婦は仕事がなく、妻には持病もあった。2人は慈済の配付した現物引き換えカードと毛布を受け取って、心が暖かくなったと話した。
 
三十二年前の大地震も経験した彼女は、今回の震災は神から与えられた試練だと直感したという。「神は人々が互いに助け合い、愛し合えるかどうか、試しておられるのです」。敬虔なカトリック信者の彼女は震災をこんな風に解釈している。また彼女は、もともと「身体の病気」を治してきた自分の役割をも昇華させ、地震後には、「心の病」も癒すようになった。
 
地震で負傷し、苦しみと悲しみを抱えた病人は少なくない。無料診療エリアでは毎日様々な場面が繰り広げられる。病人一人に多くの人がついて世話をし、中国語、英語、スペイン語が飛び交う。ある日、葉添浩医師が血糖値の上がった女性の診療をしている時、現地ボランティアのロドリゴ・ロザダが英語とスペイン語の通訳を担当した。葉添浩が慣れない英語につまった時には、双方のスムーズなコミュニケーションのため、台湾ボランティアの蕭芳芬がすぐにサポートした。
 
高原の気候は、日夜の気温差が二十度以上にも達する。ソチミルコ市での二回目の配付は、摂氏二度の気温の中行われ、数名の台湾と中国の企業家も家族を連れて手伝いに来た。メキシコ駐在台北経済文化弁事処の廖世傑代表も夫人とともに参加した。異国で多くの華人が集まり、異なる民族の人々のために協力する様は、まさに「天下一家人」の観があった。
 
●ホフトラ市での配付中、現場の秩序維持と安全確保に当たっていた婦人警官。最後には配付活動の列に加わり、人々を抱きしめ、自ら手渡すという暖かいコミュニケーションを体験した。

震災の傷を、愛で癒す

 
モレロス州での配付は計四回、トラキルテナンゴ市とサカテペク市で一回ずつ、ホフトラ市で二回行った。六千世帯近い人々に対応するため、メキシコシティの多くのボランティアが南下して支援した。中でもソチミルコ市のトリニダード・ジャルディネスは最大規模の十数人を引き連れてやって来た。
 
配付実施の前夜、災害救助診療ボランティアチームは事前にホフトラ市の被害状況を見て回った。地震後すぐに救援に加わったデービッド・グティエレスが詳しい被害状況を説明した。道沿いには多くの倒壊した家屋がそのまま残されており、テントが至る所に張られ、多くの商店が廃墟となっていたが、治安の悪さは少しも感じなかった。かえって耳にするのは、市民の情熱的な歓声であった。
 
配付が始まった後、審査エリアで慈済の理念や現物引き換えカードの使い方を説明している時や心理面でのケアサポートを行っている時、言葉が通じなくても、被災者たちは自分からボランティアと握手したり、ボランティアを抱きしめたりした。ボランティアから深い愛を感じ取った被災者に対しては、笑顔さえあれば、言葉は必要なかった。
 
●家族の人数に応じて受け取る現物引き換えカード。およそ現地の2カ月から6カ月の基本給に相当し、契約商店、スーパーマーケットで日用品、医療用品、再建のための建材を購入できる。使用範囲は広いが、アルコール商品は購入できない。
 
配付中には無料診療も拡大して実施した。台湾チームは台中慈済病院の簡守信院長と台北慈済病院の趙有誠院長がチームを率いた。アメリカチーム二十余名はアメリカ医療基金会の葛済捨執行長が率い、このほかにもアルゼンチンなどから医師十名、東洋医、歯科医四名、脊椎科、理学療法士、看護師などからなる大規模な医療チームを結成し、体育館や草地に張ったテントで、熱心に医療サービスを提供した。
 
毎朝早く、診療が開始する前から、多くの人々が列をなして待っていた。ホフトラ市での診療中、大林慈済病院救急医療部の李宜恭主任は、突発的な胸の痛みを訴えた男性を、急性心筋梗塞と診断、ただちに現地ボランティアに救急車を呼ぶよう指示し、病院へ搬送してもらった。これにより男性は一命を取り留めた。
 
高血圧、糖尿病、腎臓病が現地で最もよく見られる慢性疾患だった。また歯科医も多くの虫歯や歯痛を治療した。アメリカの歯科医、廖敬興が、これは現地の人が甘い物を好むことと関係があるかもしれないと言うと、彼のそばで学んでいた現地の医師アナ・マーティンもそれに同意した。
 
会場では、肩や腕の痛みを訴えて診療にやって来る人が少なくなかった。東洋医や理学療法士は休む暇もないほどであったが、皆充実感を覚えていた。
 
●東洋医の針灸治療は針を何本か刺すだけで痛みが取れると現地の人々に好評だった。肉体労働者にはとくに助けとなり、ひっきりなしに人々が診療に訪れた。
 
現地のカウンセラーであるエロイーザ・ヘルナンデスは、地震後多くの人が苦しみ続けていると話す。とくに家族を失った人は、彼女の前で泣きわめいたり、ヒステリックになったり、強い不安を訴えたり、精神的に不安定だと言う。大声で泣きわめいて悲しみを外に表すことは、心の中にため込むよりいいことだと、彼女は言い、彼らの悲しみを発散させるため、多くを語らず、じっと話に耳を傾ける。
 
病人が十分に泣いた後、彼女は慰めるとともに、なるべく薬物に頼らず、別の物事に彼らの注意を逸らす。無料診療の日、あるおばあさんが来て、地震の際、九歳の孫を守って、頭や肩に怪我をしたが、幸い重症ではなかったと語った。彼女がじっとおばあさんの話を聞くうちに、おばあさんは気分が晴れたようで、彼女がくれたミルクティーを嬉しそうに飲み、笑みを浮かべて帰って行った。
 
ホフトラ市の配付会場で、私は公立診療所家庭医療科医師のペドロのこんな話を耳にした。可愛がっていた姪が地震で亡くなった後、彼は同じくらいの年齢の子どもの患者を診るたび、まるで自分の心の傷を癒すかのように、優しい言葉をかけるのだという。
 
地震後すでに三カ月近くが経つが、被災地では大地震がまた発生するという噂が飛び交い、人々を不安にしていると彼は話す。噂を信じて屋内に入らず、寒空の下テントで暮らす人もいるという。
 
慈済ボランティアが被災地に入った当初、メキシコ人は彼らに対する警戒心や、外国の団体への不信感があったが、二カ月余りに及ぶ家庭訪問や交流を経て、十回の配付活動は無事に終了した。配付会場ではいつも、音楽に合わせてダンスする被災者たちの姿が見られた。
 
●無料診療エリアでは各国の医師がスペイン語に通じたボランティアを介して問診を行う。人々に思いのたけを述べてもらうことで地震後のストレスを和らげ、病とともに心も癒した。
 
「泣かないで、歌おう! 美しい空が私たちの心を暖めてくれる……」。皆と一緒に民間版の国歌「美しい空」を歌っていたサカテペク市長フランシスコ・サリナスは、曲が「愛と思いやり」に変わると、被災地視察の際の状況を思い出したのか、思わず涙をこぼした。人と人との間も、悲喜こもごもの中で睦まじく一体となったようだった。
 
メキシコ人は粘り強い。「蛇をくわえた鷲」の国章が、それを象徴している。
 
被災した人々が粘り強い心で、万難を克服し、祖先の精神を引き継ぎ、負けない心を持って勇敢に困難を乗り越え、真に「美しい空」を迎えられる日が来ることを心から祈っている。 
 
●ソチミルコ市での配付会場では、メキシコの人々が情熱的に感謝の気持ちを表した。マリーは式典が終わるのを待ちきれずに、舞台へ上がってバラの花を慈済人に渡した。慈済人がバラと同じように希望と温もりをもたらしてくれたことに感謝した。
 
(慈済月刊六一五期より)
NO.257