慈濟傳播人文志業基金會
心の方向を定め、 衆生を成就させる

仏法を日常生活の中に定着させ、真理を人、事、物と結合させることは

自分の人生の方向を肯定することであり、

人々を同じ方向に導くこともできる。

 
今年の五月九日、すなわち旧暦三月二十四日、慈済は五十二周年を迎え、五十三年目に向かって歩み出しました。五十二年前、静思精舎の裏にある普明寺の小さな本殿で、数人の人たちと「仏教克難慈済功徳会」を創設しました。竹筒歳月もその時に始まり、会員が毎月五元、十元、二十元などを寄付して貧困救済を行いました。
 
数人の専業主婦は自分を変えてから家族に感動を与え、そこから一家で慈善活動するようになりましたが、その風潮は徐々に社会に定着するようになりました。慈善、医療、教育、人文のどれを取っても、一個のレンガ、一袋のセメント、一本の鉄筋にいたるまで、四大志業のハードウェアが完成して、功能を発揮することができたのもすべて一分一秒、一滴一滴の蓄積であると同時に、善念の累積と愛の心が福をもたらした結果です。
 
広い心をもって力を集結させれば、愛のエネルギーを発揮することができます。台湾は善と愛を宝としており、この半世紀、慈済は台湾を起点に世界の百近い国と地域で慈善救済を行っており、五十七の国と地域で慈済志業を発展させながら愛の種を撒いてきました。一から無量が生まれるのです。人は皆、命の光を輝かせて人助けをすることができます。この世は輝く星でいっぱいなのです。
 
 
旧暦の三月に入ってから、各地の慈済人が五十二周年記念の参拝のために帰って来て、心霊の大道に向かって精進し、一歩一歩着実に邁進していました。毎日のように整然と威儀を正して参拝した行列が見受けられ、人々は、身心共に敬虔で法悦に満ちていました。
 
ボランティアたちは法の香りに浸った感想と生活の中に法を取り入れた時の感動を皆と共有していました。真理が人、事、物と融合し、聴いた法を心に留めて感じたことを話すことで自己の生命の方向を肯定すると共に、他人を同じ方向に導くこともできるのです。これが法を伝承するということです。
 
今年五月の第二日曜日、慈済は三節一体活動「母の日、お釈迦様の生誕、世界慈済デー」を祝いました。世界三十以上の国と地域で、五百回もの灌仏会が催され、数十万人が心を一つにして、敬虔に社会の平安を祈りました。
 
フィリピン・オーモックの慈済大愛村で参拝と灌仏会活動が行われましたが、ある村人は大きなバナナの房を持って三歩一拝礼の列に参加していました。彼は自分で植えたバナナを法師に献じたいと言いました。私は彼らと面識はありませんが、慈済がハイエン台風の支援をしてくれたことに感謝して、慈済への感謝と祝福の気持ちから花やおこわを持ってきました。
 
式典が行われるまで連日午後になると大雨が降り、灌仏会の会場がぬかるんでいたため、村の若者たちが地面を整え、ペットボトルの蓋を地面において隊列配置の目印にしていました。活動中、子供たちが摘んできた花を母親たちに捧げ、抱擁しているシーンを見て心が温まりました。
 
台湾の中正記念堂で行われる灌仏会は、毎年異なる模様を描き出すため、一人ひとりが協調しなければなりません。各自が心を一つにするだけでなく、「調和」で以て隣の人に、互いの存在があってこそ大きな事を成すことができるのだ、と感謝するのです。
 
百四十数名の長老と法師たちが灌仏会の式典に参加され、身を以て導かれた故に、会場の雰囲気が荘厳と和みに満ち、人々に仏法の真、善、美を見せることができたことに、心から感謝と讃美を表します。
 
各地で行われている灌仏会の式典では、信仰を問わず互いに尊重し合い、宗教間の和合を示すと共に、大衆に善行と孝行は「待てない」ことを呼びかけています。そして、灌仏会の日だけ真心を表すのではなく、日々孝行、善行、礼儀を着実に行わなければなりません。
 

時間は情け容赦なく過ぎる。

人間菩薩は愛を携えて

一念を永遠に保ち続け、

無数の人が苦しみから逃れ、

安楽になる手助けをする。

 
十三年前の五月第二日曜日に台北慈済病院が開業し、海外からの慈済人は三節句活動に参加しただけでなく、その機会に医療志業の発展を目の当たりにしました。その日は喜びに溢れていました。
 
台北慈済病院建設の過程で、多くの慈誠隊員が作業員として工事の仕事を担い、地下の基礎作りから一階ずつ最上階に至るまで手伝いました。工事現場は重労働の上、風雨に晒された時は持ち場を忠実に守っていました。
 
建物が完成すると、ボランティアたちは太陽の照りつける屋外も厭わず、病院の内外を隅々まで清掃しました。そして続けて、病院内の配置に精を出し、無から有が生じたのは全て愛に満ちていたからです。
 
先日、北区の慈誠隊大隊長の黎逢時が、慈誠隊員を連れて精舎に帰った時、人や車の安全を確保するため、台北慈済病院の敷地で新たに連結ブロックを敷き直していました。そして、すでに準備はできており、診察にくる民衆の出入りや交通には影響しませんと報告しました。
 
四月中旬から工事は段階的に進められました。四月二十八日には八十人以上の病院スタッフと家族が参加して敷き直すために用いる古いブロックの洗浄を行いました。趙有誠院長は、参加することで大変さを知り、互いに感謝し合えるのだと言いました。
 
十年前に、地面を掘って一個一個ブロックを敷いたのは大変な苦労だったと思います。その時のボランティアたちは中年か壮年でしたが、時間、体力や財力を奉仕して、ただ志業の成就、人命救助、生命の守護の為に人生を奉仕していました。
 
今、彼らは白髪頭になっていますが、歴史の証人なのです。菩薩道を歩み、不動の一念を守って無数の人を苦から逃れさせ、楽にしてあげました。年を取っても、人生の大半を終えた後でも、まだ時間と体力を充分に利用できるのは、若者たちに負けていない証拠です。
 
 
このボランティアたちが日々良能を発揮して、生命の価値を停滞させることなく慧命を成長させていることに感謝しています。有限な人生で時は情け容赦なく過ぎて行きますが、誰もが愛を携えて迷いから目覚めれば、人々に利するためにこの世に来たことと、一刻を争って志業と道業を成就させなければならないことを認識するでしょう。
 

志があれば難しいことはなく、

着実に菩薩道を切り開く。

愛の奉仕で、

自らの生命を豊かにする

 
アフリカのスワジランド(今年から国名が「スワティニ王国」となった)の十六歳の男の子シピンレイは先天的な奇形児で、腹這いで地面を移動するしかありません。祖母と二人暮らしでしたが、祖母は年を取り、生活を維持していくのが難しい状態でした。それはとても気の毒な人生ですが、慈済ボランティアが長期間、関心をもって世話していることに感謝します。先日訪問したボランティアは、彼が長い間、体を洗っていないことに気づきました。体を洗ってから清潔な服を着せられた彼は、笑顔で感謝を表しました。
 
慈済志業がアフリカ南部で始まったのは、南アフリカの台湾人ビジネスマンたちが「現地で得た物は、現地に還元する」理念に基づいて、慈善に投入したからです。彼らは民族間の対立や社会動乱が起きた時も勇敢に奉仕しました。二十年あまりの間に現地ボランティアを養成しました。愛の種子は大きく実り、今では国境を越えて仏法を広めています。スワジランドのボランティアは正に彼らの指導の下に現地で志業を担っています。
 
スワジランドの慈済事務所は六年前に開設されましたが、慈済地域センターへ通じる道はぬかるんで歩行が困難でした。一年前、現地のマレーシア実業家粛清順居士は現地ボランティアの苦労を見かねて道路を平坦な石の道に作り替えたため、「スワジランド菩薩道」とボランティアたちは呼びました。
 
 
今年の三月中旬、第五回スワジランド現地人幹部研修会が行われました。一時間目の「慈済行儀作法」では、現地ボランティアの本戒師兄が崇高な牧師の身分でありながら、喜んで正否両面の教材で模範を示していました。彼は心して威儀を学び、規律正しく心して人に教えることを学んでいました。
 
ボランティアたちは各自鍋や食材を持参して、活動に参加した団員に食事を提供しました。前日の大雨で薪が湿っていたため、家族に調理用の乾いた薪を持ってくるよう頼んでいました。コミュニティーセンターの水源は雨水を貯めたもので、ボランティアたちは何度も水を汲んできて、野外厨房で料理しました。彼らは自力更生で困難を抱えながらも、やる気さえあれば困難なことはなく、喜びに満ちて活動を終えた後、満足感を味わいました。
 
現地ボランティアは心の声を歌にしました。「法師は私たちを導いて至る所で大愛を広め、私たちは台湾へ行って法師に追随しよう」。彼らは慈済精神と愛のエネルギーを伝承して、スワジランドで着実に道を切り開いたのです。彼らが心して信じて着実に奉仕し、師の志を受け継いで法髄を伝承し、福田を耕して貧困から抜け出すことで心が豊かになり、自らの生命を豊かにしていることに感謝しています。
 

聴くだけでは

仏道から遠ざかってしまう 

法を聞いたら体で実践し、

一切の妙理を理解すれば

仏道に近づく

 
人は日頃から知識があって初めて生活ができ、さらに智慧を高めることによって道理を理解するようになります。道理が分かれば、清らかな心に回帰することができます。そして、清らかな心が増えた分だけ力が増し、煩悩や無明を取り除くことができるのです。
 
智とは「分別智」、慧とは「平等慧」のことです。周りが暗闇であれば、状況が分かりません。しかし、たった一つでも明かりがあれば、自然に情景を見極めることができ、平地なのか、溝があるのか、ぬかるみなのか、乾いているのか、はっきりと見えて進む道が分るのです。
 
たとえ弱い灯りであっても、おぼろげに方向を見い出すことができます。もし、明かりがさらに強く、至る所を照らすことができれば、もっとはっきりと見え、高低や遠近が一目瞭然となり、その境地にもっと深く入り込めば、より細かく感受することができるのです。
 
「照見名智,解了称慧」とは、内心が智慧の光に満ちていれば、一切の妙理が解るということです。もし、ただ聴くだけなら道理から遠くかけ離れたままです。身を以て実践して初めて、道理に接近することができ、道とは通って初めて通じるものです。ですから法は聞いてから日常生活の中で活用する必要があるのです。
 
凡夫の煩悩無明は消すよりも増えることの方が多く、たとえ法を聞いても疑問をもってしまいます。「なぜ道理が理解できないのでしょうか」。それは過去に積み重ねてきた習気が障害になっているからです。凡夫は自分に好意的な人とそうでない人がいるのを感じ取ります。もし、いつも好意的であった人が一度でもあなたの心情を害した時、過去の恩や徳は消えてなくなり、目の前の怨念だけが心に残るのです。
 
煩悩に汚染されたら、速やかに法を用いれば、法は水のように穢れを洗い流してくれます。人の性が平等だと分かれば、互いに尊重し合い、「この人は今日どうしてこうなのか?」というような細かいことを気にせず、「以前は良い点が多かった」と善に解釈し、「過ぎたことを放下」すれば恨みや嫌なことはなくなります。
 
「本性は元々清らかなものでも、諸々の垢に染められた時は、法の智慧を以て、洗い流す、これを静思惟という」とあるように、常に思惟に法があれば、心が乱れることはなく、逆境にあった時に応用することができるのです。よく言われるように、修行とは、習気を改めることであり、「習」とはすなわち、智慧の法水を用いて過去の習気を洗い流し、「法を日常生活に取り入れ、人や物事に対して理に適った対処をする」習慣を身につけることなのです。「学」と「覚」の二文字は似通っていますが、真面目に学習すれば悟りを開く機会が訪れます。皆さん、心して学びましょう。         
(慈済月刊六一九期より)
NO.259