慈濟傳播人文志業基金會
生命の奇跡は起きないまま
●什邡鎣華2008•05•21
 
私はカメラを手にして、崩れた建物の瓦礫の山にしゃがんで、ハゲワシのように静かにして獲物をじっと待っていました。目の前には南京消防機構から派遣されてきた救助チームが散らばっている建物の前に立って、いろいろな方法を模索していました。彼らはあちこちの隙間を探して、中の様子を調べたかったのです。
 
私も彼らと同じように、匂いに引き寄せられてきました。魂が抜けた状態のまま、何日も空気に曝されて放出されたままの異臭が鼻につきました。台湾の中部大地震後の被災地、中寮(台湾の南投県)、イランのバム地震の被災地、インド洋津波の後のスリランカの海岸もそうでした。その匂いは一度嗅いだら一生忘れられません。消防士出身の救助チームは、当然そのような経験もあるはずですから、みんなに知らせなくても、その匂いに引き寄せられて被災現場に辿り着きます。
 
二○○八年五月二十一日、中国四川の汶川大地震から十日目、私は被害がひどかった地域の一つ、什邡鎣華地區を歩き回っていました。毎月二十五日、「慈済月刊」が刊行される前に、今回の地震を象徴する場面をカメラに収めたいと考えていました。この世紀の地震が話題になった時に人々が真っ先に思い出す場面のことです。
 
被災地に滞在して一週間が過ぎ、元々の予定なら台湾に戻るべきなのに、今回の震災報道や写真について何か物足りない気がして、帰国をもう三日間伸ばしました。雑誌を刊行するまでに「被災地の実情が伝わる」写真を撮りたかったからでした。
                   
目の前の救助チームが努力してくれること、それが私の最後の希望です。彼らが生命の兆候を探し出し、担架で倒壊した建物の隙間から生存者を運び出したところをレンズで捉えることができれば……。しかし、あの匂いはそれが希望にすぎないことをすでに私に教えていたのです。
 
時間が刻一刻と過ぎ、救助チームは瓦礫などの障害物を取り除く方法が見つからず、どうにもならないままでした。何人かが倒壊した建物を囲み、油圧ショベルで倒壊した建物の周囲の撤去作業をしたり、溶断機で鉄骨建築の鋼材を解体したりしていました。少しでも目の前の隙間を広げて、倒壊した建物の中の様子を見るためです。
 
 
私の期待は空の色と同じようにだんだん暗くなり、焦りへと変わっていきました。慈済ボランティア送迎車隊が近くにいて、四川の成都に戻る時間に遅れないようと私を待っていた運転手が横に来て、車に乗るよう促していたのです。
 
翌日、慈済ボランティア送迎車隊は四川の成都から一気に洛水に入って、被災地の住民に炊き出しや無料診療を提供していました。みんなそれぞれの仕事が始まった後、私は運転手に頼んで、もう一度鎣華の被災地に送ってもらいました。今回の自分の役割を遂行できるようにと祈りながら。
 
思いがけず被災地は前と全く変わってしまいました。昨日私がしゃがんだ所や救助チームが走り回った所は、倒壊した建物や瓦礫の山などが一晩で撤去され、その代わりに広い平地になり、ほこりが残ってはいましたが清掃されて、バスケットボールができるような状況でした。
救助チームはすでに去り、埋められた廃棄建物もなくなってしまいました。私はあきらめずにその近くで倒壊した建物の中と外を探し続け、最後の数時間で奇跡の命が発見できるようにと望んでいました。
 
二日後、二〇〇八年五月二十四日、私は台北で被災地を収めた四千枚近くの写真を整理していましたが、あの瓦礫の山に埋められてしまった奇跡と希望はやはり見つけることができませんでした。
NO.259