慈濟傳播人文志業基金會
陳璽文氏のドリップコーヒー人生
若いときこそ価値がある
 
高収入なハイテク業界のキャリアをあっさりと捨て、
三十歳手前で辺鄙な地区のボランティアとしてやりがいを見出した彼に、
周りの友達は困惑するばかりであった。
人生をドリップコーヒーに例えるなら、年齢と心のありようで、
引き出された香りも味もそれぞれ異なる。
やりたいことを今すぐ行動に移さないで、
経済的、時間的に余裕が出る退職年齢まで待てば、
情熱や意欲などの諸々の条件が変質してしまうと、陳さんは考える。

 

 

 

 
大企業専属IT技術者の高待遇を捨て、カフェを経営。コーヒーの吟味方法やコーヒーの木の栽培方法などを教え、さらに時間の余裕があれば障害者支援施設や山間部の村まで出向き、人々と人生の智慧を分かち合う。陳璽文さんを知っている人は皆、ギャップの大きい人生転換に驚くものの、誰一人意外だとは思わなかった。
 

未成年者の更生支援のために創業

 
陳璽文さんは、二○一○年に国立交通大学電子工学研究科で修士を取得した。卒業後、代替役(徴兵に代わり、兵役に充当させるための制度)の研究開発者として、三年間の研究開発業務に従事した。陳さんは高校時代、国際物理オリンピック代表として選ばれた経験のほか、国立清華大学電気工学科を六番の成績で修了し、国立交通大学大学院生時に三件の国際的特許を取得した。これら輝かしい経歴により、すぐに新竹サイエンスパークでトップスリーのハイテク大手企業に注目され、白羽の矢が立った。
 
「面接では、私は必ず勤務時間を聞きました。急な仕事があれば残業は仕方ありませんが、もし毎日夜十一、十二時ごろまで勤務しなければならないのでしたら、どんなにお給料をいただいても絶対に入社しません」と陳さんは自身のポリシーを述べた。
 
不合理的な労働条件を拒絶し、決められた労働時間外の余暇を重視する意味では、陳璽文さんが求める入社条件は現代台湾の若者が労働者の権益を求める趨勢と呼応する。しかし、彼が決められた労働時間外の余暇を重要視したのは娯楽や休息のためではなく、少しでも多く、社会の役に立つ時間を作りたいからだ。
 
内政部で三年間にわたる代替役が終了し、正職員へ昇格する時、彼は高給の待遇を捨て、カフェ経営を選択し、地域で奉仕活動を行うことを決めた。
 
「最初、コーヒーは個人的な趣味だったのです。コーヒー業界に踏み入ったきっかけは、少年更生支援施設の子どもたちを助けるためなんです。彼らは出所後、何を職業として選べばよいのかわかりません。そこで、私のコーヒーに関する知識や技術などを子どもたちに教えてあげれば、将来飲食関係の仕事ができるようになるのではと思い、カフェを始めました」と陳さんはカフェ事業経営のきっかけを語った。
 

慈青社での貴重な経験

 
良質なコーヒー豆の購入、新しい種類のコーヒーの木の栽培方法、焙煎技術などについての知識を得るため、陳さんはまるで三蔵法師が経典を求めるように、自らアフリカ諸国と中南米諸国のコーヒー生産地まで足を運んだ。帰国後、彼は花蓮、屏東、南投などで農民たちにコーヒー豆の栽培方法や焙煎方法などを伝授するため、各県をめぐり、毎週台湾を一周するような生活を送った。
 
コーヒー豆を購入する際、環境保護を意識し、フェアトレードの基準を満たすものを優先する。ビジネスと同時に更生施設内の人たちの就労、環境保護、雇用人権擁護を全力で支援する陳さんの経営哲学は、まさしく「社会的企業家」といえる。しかし、かつての彼は今とはまったく違って、慈済ボランティアのある塾講師に出会うまで、名門校の学歴や高給な職を追い求めることに没頭していた。
 
●陳璽文さんはカフェの経営者だが、店でコーヒーを淹れる時間は少ない。彼は時間さえあれば辺鄙な地区に足を運び、その地域の再生や慈済のボランティアなど多種多様な活動に精を出している。
 
「先生は毎回授業で慈済の慈善活動について話されました。私たちが大学に入学した時、全員に『仏門大孝地蔵経』(證厳法師著)という本を送ってくださいました」と陳さんは過去を振り返った。彼は先生のアドバイスにより、清華大学電気工学科に入学した後、慈青社(慈済の大学サークル)に参加した。
 
「大学二年次には慈青社の精進長を担当し、大学三年次に慈青社の幹事長を、大学四年次に新竹総地区の慈青社副幹事長を務めた。大学院一年次に慈青社に加入し、大学院二年次にサークルのプロジェクトマネージャーを担当して……」と陳さんは慈済に参加するまでのいきさつを語った。大学の忙しい勉強に追われながらも、サークルの幹事長を務めた陳さんの大学生活は多事多端ではあったが、収穫もそれなりに多かった。
 
あるとき退役軍人の住宅を訪問した。片手片足に義足をはめた老人から六十年前の戦火からの逃避体験を聞き、ゆとり世代に生まれた彼は、改めて平和な時代に生まれたありがたさを切実に実感した。「退役軍人たちや上の世代の人たちの血と汗にじむ苦労と引き換えで今の台湾があるのだと実感しました」と陳さんは語った。
 

ワンライフ ワンカップ

 
陳さんは退役軍人の体験を聞いて、若者は愛国心を抱くべきであると自覚した。「ここは私たちのふるさとですから」と陳さんは熱く語る。加えて證厳法師の全世界の慈済ボランティアに対しての勧め、環境保全、CO2削減、菜食習慣を、陳さんと新竹地区の慈青社メンバーは実現させた。
 
「今日政府の規定では、コンビニにマイボトルを持参すると割引になりますが、私たちは十年前から新竹地区の商店やドリンクショップでこの運動を実行しました」と陳さんは誇らしげに語った。台湾の大学生はよくドリンクショップで飲み物を購入するが、使い捨てのドリンク容器が環境に深刻な負荷を与えている。陳さんはこのことに着目し、二○○八年に「ワンライフ、ワンカップ」運動を始めて、学生たちにマイボトルの持参を呼びかけた。
 
●陳さんは学生時代、勉強の合間を縫って、コーヒーに関する知識を育んできた。更生支援施設の子供たちのために、その知識を事業に活かす道を選んだ。その後も慈済社会教育の要請を受け、新竹静思堂でコーヒー人間文化クラスを開設した。
 
 
慈青社のメンバーは各ドリンクショップを訪れ、マイボトルを持参した学生に対する割引サービスなどの提供をお願いした。メンバーたちは大学生の注文するドリンクサイズに合わせて七百~八百ミリリットルの大容量のタンブラーをチャリティー販売し、千個を上回る売り上げを上げた。マイボトル運動の次に、陳さんは米アップル社の商品ブームに着目した。アップル社の商品名につく「i」にあやかり「i帕」(発音は「アイパ」。「帕(パ)」は中国語のハンカチの意味を持つ)運動を実施して、人々にマイハンカチの持参を呼びかけた。
 
また、慈青社のメンバーたちはより多くの人に菜食習慣を広めるため、市場で生命を尊ぶように呼びかけた。理解を示す人もいれば、見向きもしない人もいた。「人々に仏縁を結ぶお手伝いをしたと思えばいいんです。蒔いた種がいつ開花するかわかりませんが、種を蒔いたことは事実です」と陳さんは胸のうちを語った。
 
どんな困難に遭遇しても、自分が正しいと思うことをすれば努力は必ず報われると陳さんは考える。
 
「雲林と嘉義地区を担当する慈青社メンバーたちの話によれば、この運動を始めた当初、なんと市場の精肉店がこの運動に賛同を示したそうです。私も新竹の竹蓮市場で豚肉店がこの運動に賛同してくれました」と陳さんは驚きを露にした。食肉販売業者が菜食を呼びかける人たちを励ましていることは、一見相反する行為で不思議にみえるが、彼らは生活のために仕方なく食肉を販売しているだけで、人として慈悲の心は無くしてはいない。機会さえあれば、彼らは生き方を見直すかもしれないと陳さんは思う。
 
「私は慈青社に参加できて本当によかったと思います。サークルではほぼ毎月、キャンプや読書会など非常に多くのイベントがあるため、プレッシャーが大きいのですが、このおかげで自身が成長し、社会に出て自ら社会貢献に向けて行動できるようになりました」と陳さんは慈青社の良さを語った。
 
 
 
●グアテマラのコーヒー農園で豆の香りを嗅ぐ陳璽文さん。コーヒー豆の品質を重視するほか、栽培または製造過程が環境保全の基準に適し、フェアトレードの基準を満たす製品を優先的に購入した。(写真提供者・陳璽文)

人助けは

「ギブ(与える)」だけではない

 
けれども年齢が増すにつれ、思索に深みが出ると、人助けは「ギブ(与える)」だけではならないと悟った。
 
「私はいつまで、そしてどこまで子どもたちを支援することができるのだろう。もしこれらの支援活動がなくなり、子どもたちは相変わらず辺鄙な地域に戻っていくのであれば、これらの支援は子どもたちにどんな結果をもたらすというのだろうと思ったのです」と陳さんは語った。
 
陳さんは、大学進学のために故郷の高雄から新竹へ北上して以来、新竹地区の慈青社メンバー、地域ボランティアのメンバーと連携し、竹東町にあるカトリック世光障害者支援施設を定期的に訪問して、リハビリ支援やリクリエーションなどの活動を行ってきた。
 
「私と友人は八年前に、カトリック世光障害者支援施設の自給自足プロジェクト―『手心翻転』プロジェクトを企画しました。竹東町に有機野菜農場を造り、障害者に栽培方法を教え、外部依存型の生活スタイルから自給自足型の生活スタイルへと、経済的自立を促しました」と陳さんはプロジェクトの経緯を明らかにした。
 
陳さんが観察したところ、施設で過ごす軽度の知的障害者は知的には不十分ではあるが、五体満足である。脳性麻痺患者でもある程度体を動かすこともできる。しっかりと指導さえすれば軽作業ができ、それで稼ぎも得られ、援助に頼る必要もなくなる。
 
「彼らに農作業を教えるにはまず時間が必要です。家族の理解も必要です」と陳さんは慎重な態度である。彼らが安心して人生を送れる場所をつくるため、陳さんと熱心な友人たち一同はカトリック世光障害者支援施設と緊密に協力し合い、公文書の作成、会議の招集、敷地調査、工事などを行った。二○一○年四月、「拙茁家園」共同生活農場が成立し、栽培指導計画を開始した。
 
軽度の知的障害を持つ「大人の子ども」は、施設の先生方と家族に見守られながら農作業をスタートすると、情緒も安定するようになっただけでなく、収穫物で自給自足の生活が実現し、その上これまでお世話になった社会に恩返しができるようになった。
 
「二○一六年、彼らは新竹の警察署と警官に収穫した野菜を寄贈し、縁を結びました。また、創世基金会で高齢者の介護をしました。以前は介護される立場でしたが、今ではする立場になりました」と陳さんは成果を披露した。
 
陳さんはもし自分が人生の早い時期でこのような決断をしていなければ、二十年、三十年と時が過ぎ、子どもたちの成長を見ることができずに人生の幕を下ろしていただろうと話す。「私がいなくなった後、どうすれば子どもたちが生きていけるだろう。この問題を根本的に解決さえできれば、子どもたちの人生に希望が現れるのです」と陳さんは胸のうちを表わした。
 
「拙茁家園」を設立した後、陳さんはさらにもう一つ壮大なプロジェクトに乗り出した。クリスマスの後、旧暦のお正月まで一週間の日曜日に、メンバーを率いて七十~八十キロの山道を走り、車で半日かかって新竹県尖石郷の鎮西堡集落へ到着した。
 
 
●代替役の役務期間中、聨華電子で研究開発業務に携わっていた間、陳さんは会社の文化教育基金会に加入した。同僚、ボランティアとともに子ども劇団を結成し、辺鄙な地区で公演を行った。また、子どもたちの生活教育の一環として彼らを新竹に招き、レクリエーションや、キャンパス見学などに参加させた。(写真提供者・陳璽文)
 

原点から台湾を守る

 
集落の情景、産業、生活スタイルは日本植民地経験および現代の経済文明のインパクトを受け、かつての伝統的なスタイルから変わってしまった。鎮西堡の民宿や情景、街路が、山の麓のそれとさほど変わりがないが、集落農民は野菜買取業者の需要に応え、農薬や化学肥料を投入し、キャベツの大量栽培をするようになったのである。生産が過剰に陥ると、キャベツ一個の価格はジュース一缶にも及ばなくなる。
 
陳さんが話を聞きに行ったある農家によると、年収約二十四万台湾元(約八十八万八千円)で、月収に換算すれば二万台湾元(約七万四千円)しかなく、「二十二K」(二万二千台湾元。約八万千四百円。)といわれる大学卒業生の初任給よりも少ないとのこと。そのほか、尖石地区の大量生産型農業には一つの大きな問題が生じている。尖石山地区は大漢川の水源地に位置しているため、大量の農薬や化学肥料が河川に混入すれば、新竹以北および宜蘭地区の飲用水を汚染することになる。
 
「集落の農民に農業を禁止することはできませんが、少なくとも農薬と化学肥料を使用しないでほしいのです。ですから鎮西堡のプロジェクトはまず土地の改良から始めるべきです」と陳さんはプロジェクトのいきさつを語った。彼は山々のありとあらゆるところに茂る竹がこの土地の最大の資源であると考えた。数も多く成長も早いので、うまく利用すれば枯渇する心配のない資源になる。
 
一年以上の老いた竹を伐採し、有機肥料として土地改良に利用すれば、これまで土地に蓄積された化学肥料による汚染を改善できる。一年未満の若い竹は燃やして竹炭を作り、マスクや靴下などの繊維に練り込むと、有害物質やにおいの吸着除去機能を発揮する。竹炭製造過程で蒸留した竹酢液は天然のクリーナー、もしくは消毒液となる。
 
「商品の販売は山間部のみでなく、市街地にまで販売していかなくてはならないので、販売ルートを開拓する必要があります。販売量は多くなくてもいいのですが、生活を維持していく程度は必要です」と陳さんは商品の展望を語る。集落農民の生存と地域との共存を目指し、竹製品の販売、農業スタイルの改良を実現しただけでなく、台湾の人々に先住民族の先人の智慧を伝えるため、力を注いでいる。
 
「集落の伝統的なスタイルである竹造りの建物で民宿を創業し、多角化する観光市場と結びつけます。観光に訪れた人たちにはプラスチック製品など人工素材のものは一切提供せず、必要な品物は全てこの尖石山地区でまかなう自然的な生活体験をしてもらいます」と陳さんは語った。伝統的な生活を送るといっても、水道、電気、インターネットのない生活をするわけではない。陳さんのプロジェクトチームは今後、竹炭を製造する過程で発生した熱エネルギーを回収し、お湯や電気を作る熱エネルギー循環システムの導入を予定している。
 
「いつの日か若者たちが故郷に帰ってくることを願っています。このプロジェクトをとおして、集落の若者たちがふるさとに戻り、事業経営を引き継いで文化を存続させる役割を担って欲しいのです」。陳さんは幕を切った鎮西堡プロジェクトの目指すところを話してくれた。
 
●鎮西堡集落(新竹県尖石郷)を訪れた陳璽文さん(左)と先住民族の農民が有機野菜栽培に使用する土地の調査をする様子。陳さんは新竹の自然と共生する有機野菜栽培の模範農園を設立したいと切実に願う。
 

意識的に踏み出す

 
毎日多くのことをこなし、あちこち奔走する。時には以前就職した会社に呼び出されて、特許申請や技術分野の協力支援をする。陳さんは「私は病気をする余裕がないので、ここ数年病気をしたことがありません。毎日スケジュールがぎっしり詰まっています」と笑って言った。
 
新竹サイエンスパークでは転職や福祉活動を理由に高給や地位を投げ捨てる人も少なくないが、たいていは四十~五十歳代まで稼ぎ、充分な貯蓄を持った上で仕事を辞めるのが一般的だ。三十歳前に高収入を自ら投げ打ち、福祉活動に身を投じた陳さんの行為は、家族と友人たちには理解しがたいものであった。
 
やりたいことを今すぐ行動に移さず、経済的、時間的に余裕がある退職年齢まで待てば、情熱や意欲などの諸々の条件が変質してしまうと陳さんは考える。例えば、彼が教えるコーヒーセミナーに参加している五十~六十代の学生たちは、陳さんが遠隔地の小学校で行っているボランティア活動の話を聞いて、自分も退職して時間に余裕があるので活動に参加したいと意欲的だが、彼らの年齢を考慮すると体力的に無理なので、断るほかなかった。
 
●人々から見れば、陳さんはいわゆる「ハイテク貴族」、「人生の勝ち組」など優れた条件を持つが、地域への情熱、社会的弱者に対する思いやりを貫くため社会貢献の道を選び、汗と笑顔に満ちた人生を送っている。
 
陳さんは人の年齢、人生の段階における状況と因縁をコーヒーに喩えた。「コーヒーの淹れ方を学んでいない人が淹れたコーヒーには、それなりの心的年齢や心のありようが明らかに表れます。若い人が淹れたコーヒーは味が奔放で、とげがあり、酸味があります。まろやかな味ではありませんが、飲むとエネルギーに満ち、味に変化を感じられます」
 
「私と同じように年を取って、心も穏やかになったときに淹れたコーヒーの味は、若いときのそれとはまったく違うものになるでしょう。そのときが訪れば、若さの尊さを知ることでしょう」と陳さんは若い人々を諭す。
 
ここ数年の仕事や意気込みの変化も同様で、自己の考え方に大きな変化はみられないと思うが、おおかた因縁が変化したと陳さんは考える。
 
「多くのことは時間をかけ、タイミングをうまく捉えなければ成功できません。鎮西堡プロジェクトは十年前に実行したかったのですが、環境汚染が発覚した初期、人々の意識は不十分で、賛同する人が少なかったのです。そのため、当時はたとえ多額の寄付金を集められたとしても、プロジェクトは実行できません。しかしここ数年では、若者の環境保全に対する意識が明らかに上昇してきました」と陳さんは過去を振り返る。
 
プロジェクトを実行することは、弱者の寄付金への依存を絶ち、自立を助ける。そのために投じた金銭とエネルギーは企業の設立費用にも値するが、プロジェクト設立後の収益は遥かにそれを下回る。しかしそれでも彼はプロジェクトに力を注ぎ、同時に後任の育成にも怠りがない。まず小さなプロジェクトを若いメンバーに任せることから始まり、これを通じて三~五年後、彼らが立派な人材に成長することを期待している。
 
「能力があれば必要としている人にそれを提供することで、世界がより幸せになるのです。これこそ人の生きる意味なのです」と陳さんは目を輝かせながら言った。ビジネスで社会的弱者を経済的に自立させ、利他という夢を実践してきた。陳さんの「楽しく、忙しく」の哲学は、親世代のように、生活のために牛馬のごとく働くスタイルを拒否し、意義のあることに貢献したいと願う現代の台湾人青年層の姿を表わす。一見損をしているように感じられるが、実際、彼らの思考は奥深く、着実な生き方であることに気づく。
 
陳璽文さんも一秒を無駄にせず、何ごとも確実に行って生きている。彼の生命の物語は、證厳法師の青年に対する啓発と期待を実現した証しであり、それはすでに実を実らせ、すばらしい結果をもたらしている。
(慈済月刊六一九期より)
NO.260