慈濟傳播人文志業基金會
故郷を蘇らせよう  災害を乗り越え村にとどまる(上)
二年前台風十三号で発生した土石流が、
桃園市復興区合流集落を飲み込んだ。
被災後、四方へ避難していた村人は
今年の八月ようやく故郷に戻り安全な土地に堅固な家を築いた。
災害に遭っても「村を捨てない」精神は台湾で称賛されている。
 
 
休日の正午近くにもなれば、いつものように観光客の車両でラッシュになる桃園市復興区の角板山、小烏来、拉拉山などの観光スポットは、西北部の古い街の大渓や慈湖、石門ダムと連なり、国道七号線のハイウエーの上を湾曲して連なっている。面積は台北市よりも広く、人口はわずか数万人の先住民族自治区だが、北部の著名な景観として人々を魅了している。
 
しかし、にぎやかに往来する観光客も、合流集落に足を留める人は少ない。そこは大漢渓と霞雲渓の合流地点であるため「合流」の名がつけられている。かつては観光名所のひとつに数えられていたが、二○一五年の台風で村は瞬時に土石流に飲み込まれた。
 
それ以来、合流という二文字が書かれたバス停の標識だけが立っているが、崖下の集落に人影はなく、流れてきた土石や壊れた家屋と水害後に築かれた砂防ダムのそびえ立つ様が、土石流の恐ろしさを物語っている。
 
今年の夏、住民はやっと仮住まいから解放されて、故郷から一・七キロ離れた新天地で新たな生活を展開している。桃園市政府と慈済基金会の合作によって、一年目に行政手続きを終え、二年目には効率よく建設を進め、被災者に堅固で気持ちのよい家を提供することができた。
 
二○一七年八月十九日、市長や職員たちと慈済人が集まって入居祝いを行った。ボランティア達は「円満」という願いをこめたお団子と、「幸せが石油のように涌き上がる」ことを表したおこわを用意していた。集落の人口の大部分を占めているタイヤル族は、彼らの伝統的儀式に従い、持ち寄ったご馳走を皆で分け合って酒を酌み交わし、家内安全を祝った。 
 
「私たちは今、羅浮里という集落にいますが、タイヤル族には元々自分の集落を持ち、それぞれで暮らすという習慣があります。私たちは合流集落を構えていたのですから、ここに越してこられたことに感謝しなければなりません」と住民の洪輝金が言った。タイヤル族の伝統では、他人が勝手に自分の地に入ることは、たとえ親兄弟でも許されない。それが今ではこのように羅浮集落の祖先代々の地に新居を築くことになったので、互いに親密な関係を築いていかねばならない。
 
●合流集落の支援住宅が完成し、鄭文燦・桃園市長(前列右から3番目)、林日龍・原住民局局長(前列右から2番目)、林碧玉・慈済基金会副総執行長(前列左から3番目)、ボランティアはテープカットをして祝福した。
 

素早い避難で

家は流されても皆は無事

 
自分の地によそ者の侵入を容認しない伝統は、タイヤル族に強烈な防衛意識を植えつけていた。例えば一九○七年五月、日本政府が角板山の山林資源の開発のため強硬に集落へ侵入した時、タイヤル族の激しい抵抗にあった「枕頭山事件」がある。
 
勇敢なタイヤル族は、険しくとも故郷である山を死守するため、日本兵と警察に立ち向かって、百日以上の激戦を繰り広げ、日本軍は二百人以上の犠牲者を出した。しかしながら槍や刀だけでは近代的な武器に敵わず、ついに昔からの居住地を失ってしまった。生き残った人たちは村を追われ、あるものは大漢渓と霞雲渓の合流地点において、艱難辛苦の中で合流集落を築いた。ある者は他の集落の者と結婚しているが、血脈と文化は脈々と受け継がれている。
 
「私は宜蘭の南澳のタイヤル族で、ここへ嫁にきてから五十六年になります」と、洪金輝の母、洪彭鳳さんは語った。十七歳の年に父の言いつけで、山の反対側の当時の桃園県復興郷へ嫁にきた。それから半世紀以上が過ぎ、故郷を偲んで泣いていた娘は四男一女に恵まれ、今では幸せに孫に囲まれている。しかし静かな晩年を過ごすはずの彼女に、突然集落が一変するほどの災難に見舞われようなど、どうして想像できただろうか。
 
雑貨店とバイクを営む黄明忠の家は、七号線に面して商売するのには良い地点だったが、まっ先に土石流に襲われた。十四世帯が土石流災害に遭ったが、幸いにして被害者は一人も出なかった。桃園市政府が前日に土石流警戒区域の住民を避難させたからだった。
早めの避難により集落全員の命を守ったことは、政府当局と民衆に避難の重要性を認識させた。次には仮住まい生活と復興作業という重大な試練が待ち受けていた。
 
 
●災害から2年経ち土石流災害の痕跡は草木に埋もれているが、残っている柱や屋根は当時の凄まじさを残している。政府当局は安全のため、倒壊した家への立ち入りを禁止している。

家内安全が全住民の期待

 
洪金輝は「被災後、私たちは大渓へ避難しましたが、母はどうしても山に残ると言い張りました。私たち四人兄弟は妻と子を連れて、役所の指示通り羅浮小学校に避難しましたが、授業が始まると政府当局の家賃補助を受けながら各自借家を探しました」と説明した。
 
黄明忠は「私の家は水に流される運命にあるようです。石門ダム建設の時には家がダムの水底に沈められ、山の上に上がったら一九九六年の台風九号で家は倒れませんでしたが土石流で穴が開き、十四台の新品のバイクが流されました。バイク修理の仕事ができなくなって、それからは草刈りや果物売りなどやれる仕事を探さなくてはなりませんでした」と嘆いていた。
 
被災した当時、民間の人たちがすぐに支援に駆けつけ、牧師やシスター、慈済ボランティアは羅浮小学校の避難所を慰問し見舞金を贈った。学校が始業を迎えると、被災者は各自に復興区内や山の下の大渓、桃園で家を探し、仮住まいをしていたが、慈済ボランティアは被災者がちりぢりに分かれていても訪問ケアを続け、寄り添っていた。
 
すべてはゼロからの始まりであり、「全てを失った合流集落の人たちの大部分は、臨時雇いや道端で野菜や果物を売る細々とした生活を送っていました。五、六百万元(一元は約四円)の家を買う能力はありません」と桃園市原住民局長の林日龍が言った。
 
彼らが立ち直るには政府と民間による支援が必要だった。慈済基金会は桃園市政府の要請を受けて、家屋の建築という支援を引き受けた。そこで、桃園市政府の市長から復興区役所に到るまで一丸となって、土地変更などの行政作業の短縮に努力していた。
(慈済月刊六一一期より)
NO.261