慈濟傳播人文志業基金會
寿量の宝蔵は無限にあり 今日のあることに感謝を
人生の年輪は宝であり、心を老化させぬこと
皆で五十年を「寿命の宝蔵」に貯金しよう
若返って改めて年を数えてみる
頭脳明晰、身体健康であるなら善用に努めよう
自ら進んでボランティアになって
社会に入り人々と付き合って善縁を結ぼう
これこそが慧命の成長になる
 
 
六月二十三日から台湾各地の慈済支部を回る行脚を始めました。どの支部へ行っても会場では皆が素晴らしい法の講座を設けて、一分一秒を着実に過ごしていました。その中では、私だけが説法をしていたのではなく、「如是聞法,如是身体力行」と言われているように、皆が着実に努め励み、話す言葉の一句一句がすべて法にかなっていました。
 
台北では四つのプランを一つにまとめた「世界幹部精進研修会」に参加しました。つぶさに海外慈済人の活動を聴き、世界で起きている無常の災難や長期にわたる貧窮困苦の様子をスクリーン越しに見ました。多くの人生の真実がありました。一言で言うなら、「苦」というたった一文字に尽きますが、幸いにもこの世に具現している菩薩が力を尽くして救済をしています。どの奉仕の過程でも非常な困難が見られましたが、最後にはみな円満に達成していました。彼らに「本当にご苦労でした」と労うと、一様に「私たちは幸せでした」と答えてくれたのでした。
 
苦労がなければ、苦難の人たちの笑顔がこれほど満ち足りたものにはならなかったでしょう。彼らの笑顔を見出した時が、心からの安らぎを覚える時です。
 
新店の静思堂へ来た時のことです。隣の新店病院に救急車がサイレンを鳴らしながら頻繫に出入りする音を聞く度に、患者に病院に入ったら病状が安定しますようにと祈らずにはおられません。慈済新店病院のスタッフ全員が人々の生命、健康を愛で以て護っていることは、感謝にたえません。また、ボランティアたちが私の病院建設計画に呼応して、レンガ、砂、セメントから募金に至るまで協力してくれたおかげで、今の貴い命を護る堅固なこの病院が成り立ち、日々人々の命を護っているのです。
 
 
台湾慈済人医会のスタッフもまた、苦難の淵にいる人が出て来られない時は、山を越え川を渡って巡回施療に行っています。各科の医師、看護師、スタッフが一つになって行動している様子は、まるで動く病院のようです。画面を見ながら報告を聞く度に感動でいっぱいになりました。皆涙ながらに報告しているのでした。病の苦と貧困の苦、医療と医薬品の欠乏による苦、それらが休む間もなく現地の人たちに降りかかっているのです。
 
奉仕している中で、仏教の経典にある「観身不浄」を実証することができます。人間には言い尽くせないほど多くの苦しみがありますが、感謝したいのは、無数のこの世の菩薩が苦難から救ってくれているということです。どの診察室へ行っても、よい医師だと言いますが、ボランティアはその前に水道管や電線を取りつけるだけでなく、患者が診察台に上がりやすいように手すりをつけたり、器材が買えない時は、万難を排して自分で作っています。その人たちはお金だけでなく、労力と時間を費やして奉仕をしているのです。
 
皆、ただ一様に「法師が言われたことを私たちはしているだけです」「法師に感謝しています」と話すだけです。私は長年に亘って真心から人々に尽くす弟子たちに心から感謝しています。世界各地に集う慈済人は、たとえ民族や言葉や肌の色が違っていても、心と力を一つにして愛を当地に根づかせ、人々の苦難を取り除いています。皆さんが私と同じ志をもって、相互の成就と、無限の力量を発揮しますよう願っています。
 

発心立願すれば力が湧く

志あれば無数の人を助けられる

 
行脚で桃園に着いた時、ある実業家が「この二カ月の間に私は人が変わったようになりました」と言いました。以前は慈済に対して反感を持っておられたようですが、「静思生活精進会」に参加して見たことと聞いたことすべては、以前想像もしなかったことばかりであり、これほどまでに多くの人たちが何の見返りも求めずに奉仕しているのかと深く感銘を受け、会が終わるとすぐボランティアに登録されたのだそうです。積極的に善行に参加すると、人々の利益になることがこんなにも楽しいことであることを、体得することができましたと語ってくれました。
 
私は、なぜ反感をもっていたのですかと聞きました。彼は、金儲けはとても大変なことなのに、なぜ献金するのかという考えを抱いたまま、何年も過ごしていたそうです。それがついに慈済と出会う機会に恵まれ、真実の答えを得られたことに喜んでいると答えたのです。
 
慈済を深く理解していない人がいることを恐れてはおりません。ただ残念なことは、慈済が歩いてきた五十三年間に何をしていたかを理解してくれないことです。行脚で中部に着いた時、台湾中部大地震の直後に慈済が校舎の支援建設(希望工程)を行った時の校長と今の校長が一堂に集って、震災当時のことを思い出しながら語っていました。当時の校長は、「崩れた悲惨な姿の校舎を目の前にして茫然自失でした。その痛みは、慈済が校舎建設を行うまで続きました」と話し、今の校長は「これからは堅固な校舎で理想の教育を実現させることができます」と話してくれました。
 
台湾中部大地震が起きた後、慈済は台中、南投、台北・土城で五十一カ所の校舎支援建設を実施しました。未来を担う学生の教育は一時も猶予は許されないとの考えで、世界各国に呼びかけました。感謝すべきは十三の国々から続々と台湾へ寄付金が贈られてきたことでした。その一点一滴が集まって希望工程の支援建設が完成したのです。その時、どの学校の建設現場でも慈誠隊員、ボランティア、建設委員が全力投入し堅固で斬新な現在の校舎を完成させたのです。
 
 
大災難後、慈済はさらに危険家屋の再建工事に取りかかりました。この数年間に慈済は屏東、高雄、台東、花蓮と苗栗などに続々と「減災希望工程プロジェクト」を実施して、老朽化した危険家屋の補強工事をしました。近年来極端な気候変動、活発に起きる地震に対し、災難が発生する前に校舎を補強すれば、教師や生徒は安全で、保護者も安心できます。
 
二十年間にわたって、慈済は台湾の七十七カ所で永久に使用できる堅固な校舎を建築し、世界にいる慈済人に末代まで社会貢献のできる優秀な人材を育成しようと呼びかけていたのです。
 
たったの一元と軽く見ず、少額でも集まれば多くの善行ができます。発心すれば力が湧き、その気さえあれば無量無数の人を助けることができるのです。慈済が社会の資源を社会で活用している慈済志業は、五十七カ国に及んでいます。ボランティアは慈済の精神理念を受けて、当地で得た所得は当地に還元し、また、現地でも募金をして貧しい人や病気の人を助ける努力をしているのです。助けられた人からは、「台湾に感謝、慈済に感謝」という言葉をいただいています。
 
多くの人が私たちの助けを待っています。善行は容易なことではありませんが、そんな中でもやらなければならないことが多々あります。慈済は社会に一つの真実の道を開いて皆の理解を願い、奉仕する中で喜びを体得しています。
 

人は歳月の中で老いていく

鏡に写る自分を見て

「知識を智慧に」と励まそう

一分一秒もおろそかにせず

善縁が続くように

 
今回、行脚に出かける前は自分に自信がありませんでした。一歩一歩しっかり歩けるだろうか、皆さんに向かってお話ができるだろうかと思案していましたが、家を出ると、一つには自分にはまだ気力のあること、二つ目はこんなに多くの人たちが日々精進し、その愛のエネルギーが私を元気づけていることを発見し、感謝の念が溢れてきたのでした。
 
「寿量(天から授かった寿命)宝蔵」を唱えはじめ、私も三十歳の頃に戻ったつもりでいます。三十年前を思い出せば、それはちょうど仏教克難慈済功徳会の成立時期に当たります。貧困の中から少しずつ善の力を集めて教富済貧(富める者を教え貧を救う)を行っていた当時は、困難重々でした。その時は心筋梗塞の発作が起きて胸がしぼられるような痛みを覚え、ある時は夜も明けきらぬ間に気を失い、気がついた時に手足を伸ばして「まだ今日という日があるのだ」と安心し感謝していました。
 
五十年後の今日は、《法華経》の中で「白髪また顔に皺」と言われていますように、外形は自然の法則にそったものとなりましたし、身体機能もそうです。以前は話をすると胸がしぼられるような痛みでも、深く深呼吸をして胸を広げると自然に声が出ましたが、今はそうはいきません。気力を起こしてやっと話ができるのです。
 
身体状況は年齢の痕跡と言われますが、私は精神面では若い時のように恢復させて、必ず行脚には出かけるようにと決めています。しかし、弟子たちの慧命は成長しているでしょうか?と関心を寄せています。また、目指す方向と精神理念は確かなものでしょうか?と。静思法脈は途切れるわけにはいきません。私は仏法が永遠にこの世に伝わって、菩薩の道が平穏に広く敷かれることを願っております。
 
いつもボランティアが「最後に息を引き取る時までやり通します」と言う度に、私もそうであることを願っています。ですから、どんなに辛くても、人々が仏法の真髄を体得して、仏法の教育によって人々の中に入り奉仕することを願っています。皆さんが「仏法のため、衆生のため」に心力と時間を投入して、すでにある堅固な志業の基礎がより堅固になるうように望んでいます。もしも半ばにしてなくなれば、悲しいことです。
 
 
科学技術がどれほど発達しても、私たちに永遠の不老を与えてはくれません。ですが、永遠に消滅しない命は非常に価値があります。自分を顧みるだけでなく、家庭、子孫、または視野を広く天下に向け、世間の出来事に感心を持って、長老を敬い、若者をいたわって、この世に自分が生を受けている間に、人々を助けるよう努めなければなりません。
 
自分は年を取ったと思わず、老いても多くのことをして、ぼんやり過ごさないことです。人の中に入って喜んでボランティア活動をしていると、慧命は成長していきます。年を取ると、恐いのは退化ですが、進んで活動に参加して人と付き合い、日々人と縁を結んで累積し、軽安自在に最後の時を迎えましょう。
 
過ぎゆく歳月の中で、人は、一面の鏡に自分を映して見るように、「転識成智」見識を智慧に転じて、煩悩をなくし、智慧をつけるようにと促しています。無駄に時を過ごさず、休みなく縁を結んで、良い心を護り来世まで業を引きずらないようにするには、自分に智慧の力のあることです。智慧の力があると、どの方向に向かうか明らかに分かりますから。
 
時は私たちのために一分一秒も止まってくれません。しかしながら、自分の慧命が成長して、菩提のよい因縁が生々世々にわたって続いてゆくことを、私たちは知ることができます。
      
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慈済の大家庭に入った人々は、「皆有情人(人みな思いやり有り)」であることを悟るのです。法の仲間は互いに寄り添い、悟りを目指して励む修行者で、また菩薩の伴侶でもあります。この真情は実に得難いものです。
 
やっと開かれた菩薩道の方向を進む時、道はさらに平坦でなくてはならず、でこぼこのまま放っておいてはなりません。以前どれだけのことをしたかと、少しのことに捉われていることは偏見です。もしも凡夫の心をもって人の話を聴くと、聴いた面白くないことに激動し、恨みの心が起きます。過去を放下し、悪いことは気にせず、良いことは心に止めると、やっている中で福があり喜びが得られ、炯眼を持ち善解することによって自在を得ることができます。
 
自主的に人に関心を持とうとする人がいます。しかし、一人では天下人に感心を寄せることはできません。皆で心を一つに手を取り合い、和してお互いの持てる力を発揮すれば、衆生の平安を護ることができます。
(慈済月刊六二一期より)
NO.261