慈濟傳播人文志業基金會
撮影ノート ひとつかみの米
私は『慈済』月刊スタッフとして、二○○八年のサイクロン以来、十年で五度ミャンマーを訪れています。ですから、ひとつかみの米の話については聞いていましたが、今年四月に五度目のミャンマー出張の時、「ひとつかみの米」の仕事をする地元の慈済ボランティアに同行したことで、はじめてその意義と重要性を理解したのです。
 

簡単で大きな喜び

 
五月の午前、気温は摂氏四十度近くにのぼりました。ヤンゴン市内から三時間あまりの百世帯ほどの小さなシュエ・ナ・グウィン村は人であふれかえっていました。村の両端を結ぶ土の小道は人と乗り物でごった返していました。近隣の村々から連れ立って次々とやってきます。徒歩で、あるいは借りてきた農業用運搬車に乗り合って、米をつめたプラスチックの筒を抱え、まるでお祭りのようににぎやかです。静かな村がにわかに熱気に包まれました。
 
 
もちろんお祭りではありません。慈済が呼びかけた潅仏会にやって来たのです。現地の慈済人はこの日を「米貯金箱の帰省」という愛称で呼んでいます。人々は筒の米を嬉しそうに米袋に入れ、それから恭しく潅仏しました。潅仏を終えると、空いた筒を持ってめいめい木陰に集まり、立ったり座ったりして楽しくおしゃべりをして、やってきた運搬車に乗り合わせて昼食に帰って行きました。催しは単純で気取らないものでした。
 
 
「米貯金箱の帰省」は、ミャンマーで流行っている喜捨の方法です。喜捨はミャンマー人の生活に溶け込んでおり、わざとらしさもなく、全てが自然に行われています。運搬車は、楽しげな村人たちを載せて、土埃を巻き上げながらゆっくりと原野に消えていきました。砂埃が収まっても、笑い声は強い日差しの中にずっと漂っていました。愛の心がつまった米は、これから一体どこへ行くのでしょうか。私は聞きました。
 

しっかり支え合って

 
別の日差しの強い日、地元の師兄、師姐に連れられ、ヤンゴン市中心から車に三時間あまり揺られて、バゴー地方の山間部にあるアラニ村へやってきました。車は土の道の行き止まりで停車しました。私たちが車を降りると、地元の若くて力持ちのボランティアが二人、車の上の二袋の米を担ぎ上げました。みんなの後をついて行き止まりの横の歩く人の足で踏み固められた道を下ると、一軒の家にたどり着きました。家の主人は早くから門前で待っていて、温かく出迎えてくれました。私たちは中であれこれと世間話をしました。
 
主人は五十二歳で貧しい生活を送っていました。大酒を飲み、健康状態が悪くなったため、妻は耐えきれなくなり、子供五人のうち二人を連れて出て行き、再婚しました。男性は自分の子のほかに、亡くなった妹夫婦の四人の子の世話をしなければなりません。今は人の水牛の世話をして稼ぐ一日三千チャット(一チャットは〇・〇七四円)で一家八人の生計を立てています。
 
 
世間話の後、あの二袋の「ひとつかみの米」を置いて、私たちはそこを離れました。子供たちは名残惜しげに師兄、師姐をぎゅっと抱きしめ、車の所まで私たちを見送り、車が走り出すまでずっと見ていました。
 
車はもと来たでこぼこ道をガタゴト走って行きました。二袋九十キロの米を下ろした車の走りはずいぶんと軽やかに感じられました。あるいは私の心が軽くなったせいでしょうか。   
(慈済月刊六二〇期より)
NO.261