慈濟傳播人文志業基金會
ゴムの木の元に積もる 大きな願い
暗闇の中、ゴムの木から滴る樹液、ラテックスに、
山村に生活している住民の生計がかかっている。
このゴム農園で働くある夫妻が「米を寄付して人助けをしよう」と
村人に米貯金を呼びかけた。
「私たちがこのくらいの恩返しをするのは当たり前のことです」と夫妻は話す。
 
ミャンマーのバゴー省アライニ村は、標高二千メートルの山腹の草原に位置している。経営者がそれぞれ違うゴム農園に囲まれており、それは住民にとっての収入源である。毎朝二時、三時になれば、村人たちはヘッドライトを頭につけて家を出る。わずかな照明の中、ナイフでゴムの木に傷をつけ、滴る樹液をバケツに集める。
 
木一本分のラテックスを収集する賃金は九チャット。大人一人の日当は三千チャット(約二二〇円)で、収集に時間のかかる子供は千五百チャット。早朝から一家総動員で汗まみれになって働くのは、米を買うためである。なのに、なぜ多くの村人が買ってきた米を寄付してまで米貯金のメンバーになろうとするのか?
 
●次女が診察を受けていた時に慈済と出会ったアン・ミョウ・キャウさん一家は、ゴム農園の住民たちと毎日一握りの米を貯金する活動を始めた。

森の難点を克服し、教育を興す

 
心に善のある人たちは十二年前からバゴーにあるアンテイクティ寺の僧侶であるウアガダマ師のことをよく知っている。山の麓に住む帰依者たちは師のことを「バゴー森の灯火」と褒め讃えている。皆、師が山奥に教育を興し、閉鎖された世界にいる子供のために、外への道を切り拓いていることに敬意を表している。
 
ウアガダマ師が寺の学校を受け継いだ時、全校生は最高学年の四年生を筆頭にわずか五十八名だった。生徒たちの親は全員がゴム農園で働いている。
 
 「以前、学校の運営を維持するにはさまざまな困難を克服しなければなりませんでした。僧二名が一年生から四年生までの授業を受け持っていました」。当時は茅でできた一軒屋を教室として使い、いくつかのクラスに分けて授業をしていたと師は言った。教科書を買う資金を捻出するために、子供達は週二日薪や筍を拾い、それらを売っていた。後になって、善意のある人が教科書の購入を引き受けてくれたので、やっとこの悩みから逃れることができた。
 
山村の家庭はもともと裕福ではない。その上、寺にはイラワジ省の風災被災者の子供を十五名収容しており、宿泊や食事の費用は全てが寺の負担になるので大変なものだった。
 

●アンテイクティ寺の学校の教室は粗末で使い物にならなかったので、マレーシアとミャンマーのボランティアは生徒たちが安心して勉強できるように力を合わせて簡易教室と宿舎をそれぞれ四室建てた。(撮影・黄露発)

教室建設と無料診療 

山の中のゴム農園と良縁を結ぶ

 
アンテイクティ寺が膨大な量の米を必要としているのを見て、慈済のボランティアは二〇一六年に台湾の行政院農業委員会に対して米の対外援助を申請し、二百袋(一袋五十キロ)の米が寺の学校に届けられた。その後、慈済工科大学の先生と生徒たちが現地を訪れて、子供たちに勉強に励むことができるようにと文房具を配付した。
 
長く付き合っているうちに、ボランティアはこの学校には粗末な教室が七室しかなく、スペースが全く足りないことに気づいた。二〇一七年五月、経験豊かなボランティア十三名がマレーシアからやってきた。そしてミャンマーの男性ボランティアと力を合わせて、四日間という短い期間で簡易教室を四室建てた。その後まもなく、十年生が大学受験の補習授業を受けるために泊まる宿舎が必要になったので、マレーシアとミャンマーの男性ボランティアが再度力を出し合い、宿舎を四軒建てた。
 
引き続いて、ミャンマーの慈済人医会(慈済の医療ボランティアチーム)が十一月に村で無料診療を行った。その際、ゴム農園で働いているアン・ミョウ・キャウ夫妻の五歳になる娘が先天性の心臓病を患っていることが分かった。医師は夫妻にすぐヤンゴン大学病院で精密検査を受けるように勧めた。
 
バゴーのボランティアがこのケースを引継いで、彼らが診察を受けるためにヤンゴンに行く時は付き添いをした。医療費や交通費は全部慈済が支払い、ボランティアは細心の注意を払って少女の面倒を見たのである。その真心が夫妻を感動させた。
 
慈済の呼びかけで、アンテイクティ寺の僧侶たちが生徒たちに米貯金を呼びかけて人助けをしていることを知り、アン・ミョウ・キャウ夫妻も参加することに決めた。そして同じゴム農園で働いている人たちにも勧めた。このように、一世帯から十世帯、そして二十、三十世帯へと増え続け、今では四十世帯が米貯金に参加している。米を生産していないゴム農家が、毎日米貯金をするのは容易なことではない。慈済ボランティアは彼らの真心を倍に大切にしている。
 
●バゴー省アライニ村には配電施設がないので、ゴム工場は自家発電に頼っている。職人たちは作業場の蒸し暑さに耐えながら作業をしている。
 

 一握りの米貯金を続けることは

簡単ではない

 
この山奥のゴム農園で働いている人々は、アンさん夫妻のように共働きをしている世帯が多い。収入は多くないので、経営者は仕入れた米を時価よりもずっと安い値段で従業員たちに提供している。ヤンゴンからやってきたボランティア、陳秀宝によれば、山奥は交通の便が良くないので物価は市内よりも高くなっているそうだ。例えば、タマゴ一個の値段は、市内では百チャットなのに対して、ここでは二百チャットで売られている。塩の値段も倍になっているという。もし村人がオートバイで市内へ買い出しに行く場合、ガソリン代だけで六千チャットかかる。一日の稼ぎでは往復のガソリン代を賄いきれないので、村人は市内に買物に行くことすら考えていない。
 
陳さんによると、何年か前に台湾花蓮の慈済本部に戻って上人に現地報告した時、世間知らずだった彼女は、自分は農民たちの米貯金について、とくに感動しないと言ってしまった。その場で上人から「あなたはヤンゴンで同じことができますか」と聞き返された時、彼女は返す言葉が見つからなかった。
 
その後、彼女はダイツー町ルイナグン村の農民と付き合うようになったり、アライニ村のゴム農園の住民の面倒を見るようになったりして初めて、米貯金を続けるのはどれだけの決心と堅い意志が必要かを体得した。
 
ルイナグン村へ行く一本道は、雨季になると太っている彼女の身にこたえる。履いている雨靴が泥にはまり込むと、人の手を借りなくては抜け出せない。ここのゴム農園で働く村人は、早起きしてラテックスを集め、三時になると男性たちはゴム工場でゴム・シートを作っている。扇風機がないので、彼らは機械の騒音だけではなく、作業場の蒸し暑さにも耐えないといけない。それにもかかわらず毎日一握りの米を貯金しようとしているのである。「それを見るだけで、私は大いに懺悔しないといけません」と彼女は言った。
 

難行だが実行する 

それが村の人々の願い

 
現在三十五歳のアンさんによると、彼は当時ゴム農園にお金儲けの機会があると思って、中部の町からこの山奥にやってきた。今は結婚して子供もできた上に、仕事場では班長になったが、三人の娘をこの山奥に閉じ込めておきたくないという。
 
「こんな苦しい生活を送るのは私たちの代だけでいい。私は次の世代にはもっと出世してほしいと思っています」とアンさんが言った。彼は子供にできる限りたくさん勉強させ、知識を積んでここから出て、勇気を持って夢と理想を追い、それぞれの世界を切り開いてほしいと思っている。
 
山奥の苦しい生活を経験した故に、人の苦しみがよく分かるのだという。子供たちが手にしている米貯金箱は村人の言う小さな行いだが、難しくても実行しようと思えばできることを善なる行いで証明したといえる。法師がこの山に学校をつくりたいと固持なさったおかげで村人と良縁を結ぶこともできた。若い世代は懸命に勉強しているのだから、たとえこの森の中から出て行っても互いに支え合うことだろう。この人助けの力がさらに多くの若い人生を変えていくことを心から期待してやまない。
NO.261