慈濟傳播人文志業基金會
生まれ変わるミャンマー

サイクロンから十年

二○○八年、
ミャンマーを襲ったサイクロン・ナルギスは十三万人もの犠牲者を出し、世界を震撼させました。
それからまもなく、半世紀にもわたって閉ざされていた国は
次第に開放され、現在では東南アジアの新興マーケットとなっています。
 
サイクロンから十年、
慈済ボランティアが被災地の貧困地区を再訪すると、
うれしいことに、善意の力が住民の中から湧き起こっていました。
 
●仏塔スレー・パゴダを中心に広がるミャンマー第一の都市ヤンゴン。外資の流入により次第に発展が加速しています。

 

●ミャンマーのヤンゴン市中心部。街角で托鉢する沙弥尼(出家した少女)。主に上座部仏教が信仰されているミャンマーでは、出家修行は称賛され、家運を高め功徳を積むことになるとして、貧富にかかわらず喜捨をする習慣がある。
 
●ヤンゴン環状線は市内と郊外を結ぶ重要な線で、速度は遅いものの住民の重要な足となっている。大きな青果市場を通るので、列車内は買い物帰りの客であふれかえっている。農村からやってきた豊かな農産物は、こうして四方八方へと運ばれていく。
●ヤンゴンタンリン郡区タナピン村のテイン・タンさん(U Thein Tun)は貧しい農民。耕作する時は畑に話しかけ、常に人助けをしている。毎日ひとつかみの米を蓄えて寄付する「米貯金」は、彼を通じて瞬く間に農民たちの間に広まった。
むせ返るような暑さの五月。バゴー地方アラニ村にあるAung Theikti寺院学校(Aung Theikti Monestry)の木陰で、二十三歳の若い教師ナイン・ウィンさんはベンチに腰かけ、これまでの出来事を詳しく話してくれました。十年前の災害は、彼の心に深く長い傷跡を残しました。
 
彼の故郷は、ミャンマー最大の米どころであるイラワジデルタで、二○○八年に強烈なサイクロン・ナルギスの直撃を受け、十三万人もが犠牲となるなど最も深刻な被害を受けた地域です。十年後の今でも村の産業の立て直しはままならず、農村からは絶えず外へ人が流出しています。多くの子どもが親を失くしたり、経済的に困難であるため、学校を辞めていきます。
 
イラワジデルタにあるMaw Kyunの小さな村で生まれたナイン・ウィンさんは、中学卒業にあたる八年生まで学校で学びましたが、両親には彼を高校まで行かせる経済的余裕はありませんでした。その後、幸運にも一人の僧侶に出会い、バゴー山脈にあるこの寺院学校で十年生まで学んだ後、西ヤンゴン大学経済学科に合格し、アルバイトで生活費と学費を工面しながら学んでいます。今年大学三年生になった彼は、学業の合間に塾講師のアルバイトも始めました。
 
Aung Theikti寺院学校にはナイン・ウィンさんのようにイラワジデルタからやってきた生徒が二十人以上いますが、経済的な理由で中退してしまう学生もいます。寺院の住職、アガダマ法師はやるせない気持ちでいっぱいです。「去年、四点足らずに大学に不合格だった生徒がいました。私たちはあと一年勉強させて再度入試を受けさせようと思ったのですが、彼の両親はすぐに働いてほしかったのです」
 
ナイン・ウィンさんもこのような状況は理解できると言います。サイクロンによる水害で、イラワジデルタの農業や水産業は大打撃を受けました。土壌の塩化により作物が育たず、収穫は半分にまで落ち込みました。漁船が壊れ、漁ができなくなった漁民は、仕事を求めて故郷を離れて行きました。
 
大災害の後、多くの子供が親を失い、学業の道を断たれました。ナイン・ウィンさんは両親とも無事で、農地も耕作してくれる人がいるので、遠くに進学できたのです。
 
●2008年、サイクロン・ナルギスがイラワジデルタを襲い、数多くの死傷者を出した。災害で収穫の失われた農地の上に牛の死骸が横たわる。
 

サイクロン・ナルギス 

恐ろしい一夜

 
サイクロンが襲った二○○八年、ナイン・ウィンさんはまだ十三歳でした。その夜、強い雨と風が村を襲った恐ろしさは、並大抵のものではありませんでした。
 
「水がどんどん入ってきて、多くの人は逃げる間もなく水に飲み込まれてしまったのです」とナイン・ウィンさんは言います。また、村の男性の中には、妻と子を船や浮かんでいる板きれなどに上らせ逃がしたものの、自分は激しい水の勢いに流されてしまった人が何人もいたそうです。村には多くの未亡人が大勢の子どもたちを抱え、困窮した日々を過ごしています。
 
ナイン・ウィンさんの家は比較的高いところにあったため難を逃れましたが、家財は一つ残らず流されてしまいました。恐ろしい一夜が明け、風雨が収まるのを見計らって、父親は家族全員を小船に乗せて、一旦村から避難することにしました。水面の至る所に死体が横たわっていました。慎重に死体をよけながら、櫂をこいで進まねばなりませんでした。
 
「本当に辛かった」。彼の目に、こらえきれず涙があふれました。彼はため息をついて、話を続けました。「もともと貧しい村でした。サイクロンが来る前に政府は警報を出していましたが、テレビどころかラジオを持っている家でさえ、十世帯に一世帯もありませんでしたから」。そのような村ですから、誰かが情報を聞いたとしても、風雨がこれほどすさまじく、恐ろしいものだとは、ましてや簡素な家が洪水に耐えられず、命さえ奪われるとは、想像できなかったに違いありません。
 
幸い命が助かっても、すぐに残酷な生活問題に直面することになりました。サイクロンで作物が全部だめになった農民は、借金して日々を過ごすしかなく、翌年また種をまくにしても、借金して種籾を購入しなければならなかったのです。四月に陸稲を収穫した後も、収入の大部分は借金返済に消え、足りなければまた政府や民間組織に借金しなければなりませんでした。土地を持っている自作農でさえ貧困から抜け出すことは困難でした。まして土地を借りて耕作する小作農は言うまでもありません。この悪循環から抜け出すのは困難でした。
 
そのため、彼の故郷では大部分の子どもは長くても八年生までしか学ぶことができず、中学卒業後は農村で働き手となるか、そうでなければ故郷を離れて大都市に働きに行くしかなかったのです。できる仕事と言えば、工場作業員やレストランのウェイター以外にはありません。
 
 

新たな土地に根を張って 

 
二○一○年から軍事政権による改革開放が始まり、半世紀にわたり閉ざされてきたミャンマーは、今では各国が注目する新興市場となっています。ヤンゴン市の西にあるラインタヤ工業団地には中国や台湾、香港の商人が投資する多くの工場が集中しています。工場の向かいや周囲は違法建築が軒を連ねています。住人の多くはイラワジ地方から移り住んできた人たちで、巨大な集落を形成しています。
 
慈済ボランティアの蔡重吉、郭敏姿夫妻は、二○一五年に上海から顧客とともにミャンマーに移り、汚水処理工程を手がけています。主な顧客企業があるこの地区を頻繁に訪れるうち、地区の様子が分かってきました。
 
郭敏姿さんは言います。「ここでは家の前にちょっと何か並べれば、すぐ飲み物や軽食、デザート、麺などを売る屋台になります。バイクタクシーを運転する人もいます。工場で働くよりいい稼ぎになるのです」
 
彼女が三年前会社をミャンマーに移転した時、違法建築は何軒かぽつんぽつんと建っているだけだったそうです。しかし、工場が増えるにつれ、向かいのあばら屋もどんどん増え、次第にこんな景色ができていったと言います。
 
通りを歩いてみると、大工場の車両が絶えず出入りする一方、道路の向こう側では、子供たちが走り回り、男性が井戸を掘っています。しばらく歩くと、二人の男性がバイクタクシーを雑貨店の前に止めて休んでいました。郭敏姿さんと運転手のリン・タンさんに連れられ、彼らに話を聞きました。二人の男性はまさにデルタの同じ村から引っ越してきたそうです。
 
二十五歳のタン・ニンさんは、八年生で学校を辞め、一度は農業をしましたが、収穫が上がらず、五年前に都会に出て働くことにしたと言います。三十一歳のヤン・ナイン・シュエさんも、「故郷では食べて行けませんでした。村人のほとんどが出て行きました」と語ります。
今のところ二人はここに定住するつもりです。バイクタクシーの月の収入は三十万チャット(一チャットは約〇・〇七三円)になります。工場勤務の月給が残業代込みで多くても二十数万チャットなのに比べると、はるかにいい収入です。
 
●ヤンゴン市西のラインタヤ工業団地には違法建築の家が集まる(上図)。バイクタクシーで生活する青年タン・ニンさん(左図右)とヤン・ナイン・シュエさん(左図左)。エーヤワディー地方からやってきた彼らは、大都市で生活の糧を得、ここに定住することに決めた。
 
何百メートルにもわたり延々と続く大小の違法建築の中には、ロビーや裏庭のあるものまであります。屋根にずらりと太陽光パネルを設置して発電し、家賃を払う必要もなく、生活も便利です。しかし、違法建築が増えると、どうしても環境が乱れ、排水も悪くなって蚊や虫の発生を招きます。道が狭くなって、車両の出入りもしにくくなりました。
 
郭敏姿さんによると、付近の企業はみな抗議し、ミャンマー政府も土地を用意して引っ越しを呼びかけていますが、遠すぎて引っ越したがる住民はほとんどいません。 
 

農村の今と昔

 
ミャンマーの産業はここ数年で農業主体から商工業へ移行してきました。慈済が援助したいくつかの田舎の農村も次世代の子どもたちが都市に進学や就職するようになっており、経済状況も次第に改善してきています。
 
被災した農村は次第に生まれ変わりつつありました。スマートフォンは今や贅沢品ではなく、農民は一人一台持っています。泥だらけのあぜ道は、政府の補助や村民がお金を出し合ってコンクリートの道にしました。十年の間に農村の子供の教育水準は向上し、農業は唯一の選択肢ではなくなりました。一部の青年は工場で働くようになりました。家から通勤する場合もあれば、都市に住む場合もあります。最近、政府は基本月給を十五万チャット(新台湾ドル約三千三百元、日本円約一万二千円)に引き上げました。収入は農業を営む父母世代に比べて安定し、経済状況が改善した家もあります。
 
●災害から10年後、慈済人がクンジャンゴンを訪れると、当時支援した農家の生活は改善し、村の道路もきれいに舗装されていた。4月の陸稲の収穫後には二毛作も期待できる。
 
農業から商工業への進歩は、社会発展の必然ですが、農業人口に影響を与えないでしょうか。数十年の間、人手による伝統的な農業を続けてきたミャンマー農業は、この五年で、耕耘、種まきから収穫、乾燥、精米まで、機械化が急速に進みました。
 
変化には時間や資金が必要です。ミャンマー新政府が誕生してたった二年余りですが、各方面から期待を集めています。農民に、以前より生活がよくなったかと尋ねてみると、ほとんどの人が「よくなった」と答えました。サイクロン・ナルギスから十年。農民たちが次第に災害の影を脱し、豊かな実りを得て、「世界の米倉」としての地位を取り戻せることを期待しています。
(慈済月刊六二〇期より)
NO.261