慈濟傳播人文志業基金會
パルへ スラウェシ島地震と津波被害支援
強い浅発地震と津波、液状化現象がスラウェシ島中部に大きな被害をもたらし、二千人以上が死亡、八万人以上が住処を失った。被災地パルでは陸路、空路が絶たれ、輸送と市民の避難は軍用機が行った。
インドネシア慈済ボランティアは様々なルートを当たって、物資と医薬品をパル市に届けた。被災者が受け取った食事や医薬品は、どれも無数の愛のリレーによって届けられたものである。
 
地震発生後、お父さんと逃げている時に、泥流のような津波に呑み込まれました。僕はお父さんの手をしっかり握り、もう片方の手で何かにつかまっていました。一回目の津波が引くと、またすぐに次の津波が来ました。無我夢中で逃げてようやく危機を脱しました……」
 
パル市(Palu)のウィラブアナ病院(RS Wirabuana)で、十二歳の少年ナビル(Mohammad Nabil Afrezy)が慈済ボランティアに生死から脱した過程を語った。彼と父親が避難所で医師の診療を受けた時、全身傷だらけで、入院二日後もまだ咳に泥が混じっていた。父親の怪我は深刻で、その後南部のマカッサル(Makassar)の病院へ移された。「家族がみんな無事でよかった!」ナビルはこう話す。
 
九月二十八日、スラウェシ島中部でモーメント・マグニチュード七・五の大地震が発生、地震から二週間が経ったパル市では、重機が廃墟や幹線道路の清掃を行い、街角では商売を再開する露天商も見受けられた。入り江に位置するパル市では津波が海浜地区を襲い、郊外のペトボ(Petobo)やバラロア(Balaroa)では地震により地下水が湧出し、液状化現象が発生、家屋や住民を呑み込んだが、泥の除去作業は困難で、数百名が行方不明になっている。
 

インドネシア・スラウェシ島地震

被害状況:

2018年9月28日午後6時2分、スラウェシ島でマグニチュード7・5の浅発地震が発生した。震源地は中部スラウェシ州パル市の北78キロ地点で、6メートルの津波がパル市とより震央に近いドンガラ県を襲い、2100人が死亡、1万人が負傷し、8万人以上が家を失い、68000棟の民家が損壊した。
 
慈済による支援の統計:
炊き出し:7970人分
施療:延べ1554人
物資の配付:5071個
祝福金:267人
募金活動:35の国と地域
(2018年10月18日現在)
 

マカッサル:

地震直後の支援

 
スラウェシ島はインドネシア東部に位置し、島南部の大都市マカッサルは、長い間、慈済ボランティアが慈善活動を続けている場所である。九月三十日、被災地パル市の負傷者の多くがマカッサルの病院に搬送されていることを知った八名の慈済ボランティアは直ちに支援を開始するとともに、到着したジャカルタ慈済人医会ボランティアを出迎え、愛民病院(RS Sayang Rakyat)、ワヒディン病院(RS Wahidin)で搬送された負傷者や家族の支援を行った。
 
「地震が起きた時、地面がひっくり返るように揺れました。私たちは命からがら安全な場所に避難したんです」。ワヒディン病院で、パルから来たシルバーナ(Silvana)がボランティアにこう話した。「逃げていると、側の道路のアスファルトが口を開け閉めするように割れたり閉じたりしているのが見えました。私を助ける時に夫は電柱の下敷きになり、頭を怪我しましたが、幸い電柱に電流は流れていませんでいた。それから私たちは走り続けました……」
 
シルバーナと夫は九月三十日に軍用機でマカッサルの病院にやって来て、重傷の夫はすぐに治療を受けることができた。「助けてくれたたくさんの人たちに感謝したいです。慈済ボランティアがここで支援してくださることをありがたく思います。この祝福金は本当に助かります」。
 
着の身着のまま逃げてきた被災者のため、慈済ボランティアは必要な食料、飲料水、清拭用品、衣料品や乳幼児のための粉ミルク、オムツなどの生活用品を購入し、配付した。また軽傷者には百万ルピア(約七千五百円)、重傷者には二百万ルピア(約一万五千円)の祝福金を渡した。
 

●地震後多くの地区で道路が寸断され、ボランティアは様々な方法でサロン、ミネラルウォーター、インスタントラーメン、清拭用品などの民生物資を輸送し、物資配付を行った。シギ県の被災した村人が待ちわびていた物資を受け取理、笑顔を見せた。

 

パル:

地震後初めての温かい食事

 
人口およそ三十万人のパル市では、地震直後、陸路と空路が絶たれ、輸送と市民の避難は軍用機に頼るしかなかった。ジャカルタ慈済ボランティアは緊急に生活物資と医薬品二百キログラムを用意し、様々なルートを試みてからパル市へ運んだ。十月二日から、インドネシアへエコ毛布と即席飯を届けるための「愛のリレー」が台湾で始まった。
 
花蓮では、静思精舍の尼僧たちが直ちに即席飯を箱詰めして北部に送り、台北の内湖、三重慈済園区では、多くの人々が毛布を箱詰めし、桃園空港の航空運輸倉庫で、ボランティアが物資をコンテナに積んだ。十月四日、チャイナエアラインの貨物機でエコ毛布一万枚と即席飯八・四トンがインドネシア・ジャカルタに輸送され、その後直ちにパル市に送られた。
 
パル市では物資が欠乏しており、三日間食べ物を口にしていないという人もいた。「こんな時に温かい食事を食べられるなんて、慈済の皆さんには本当に感謝しています」現地に住むアスマは、バラロア村の慈済食事配付所でこう語った。
 
地震後九日目、軍用機や運送トラック、ボランティアの持参などの方法で運ばれてきた即席飯が続々と到着した。慈済ボランティアがパルに集まり、仏堂で温かい食事の提供が開始された。付近の信者も続々参加し、二十人以上から成る調理チームが作られた。プロの料理人である饒金華師兄は、皆を指揮して即席飯と野菜のセットの海南ライスを弁当箱に詰め、昼食と夕食に毎日病院と避難所に千食以上の食事を届けた。
 
「白米を配付したのではガスや食用油、その他の食材が必要となります。だからこそ私たちは即席飯を調理し、被災者に届けているのです」と饒金華はこう話す。
 
ペトボ村の避難所でボランティアが弁当を配付すると、子どもたちは嬉しそうに平らげ、口々にボランティアに「美味しい」と言った。
 
多くの避難所は板にビニールシートを掛けただけの簡素なものだったが、被災者にとっては一家が平穏に過ごせるだけで充分だった。ヌール・ファティマ(Nur Fatimah)は、地震後一時、二度と娘一家とは会えないのではと思った。臨月の娘はペトボ村に住んでいて、ヌール・ファティマは急いで駆けつけ、彼らの行方を捜したが、彼らの自宅は液状化のため倒壊していた。娘は幸いにも無事に避難していて、地震の翌日、ヌール・ファティマの孫、阿詹を生んだ。
 
「怪我はしていましたが、無事に子どもが生まれました。彼らと再会した時、娘婿が『お義母さん、男の子ですよ』と言いました。私は孫を抱き、神が娘と孫を守ってくれたことに感謝しました」。
 
何もかも失ったが、一家全員が無事に避難できたことが何よりの幸いである。慈済ボランティアが訪ねた時、テントに絨毯さえないのを見て、すぐに絨毯を届けると、彼らはまるで貴重なプレゼントを得たかのように喜んだ。ヌール・ファティマは「着ている服以外、私たちには何もありません。慈済ボランティアが届けてくれた温かい食事は、何よりのご馳走でした」と話した。
 
地震後の余震は大小合わせて五百回を超え、損壊した家屋も多かったことから、パル市では多くの市民が野宿していた。慈済ボランティアはケアステーションを設置し、毎日人々を見舞った。次第に慈済ボランティアになついた子どもたちは、ボランティアから手話を習った。
 
食事の時間が来ると、ボランティアが鍋にお湯を沸かし、即席飯を入れ、みんなで時間を数えながら待った。時間が来て鍋を開け、大きくかき混ぜると、いい香りが広がり、人々は「美味しい。チャーハンみたい」と言った。住民のアミリアは、「これはムスリムでも安心して食べられます。ありがとうございます」と感謝の言葉を述べた。
 
 花蓮静思精舎の常住僧とボランティアが災害支援の即席飯を箱詰めし、桃園から貨物便でインドネシアへ送る準備をした。(撮影・黄思佳)
 慈済ボランティアの第一陣が、協議を経て、
10月3日ようやく軍用機でパルに到着した。 
(写真提供・インドネシア支部)
ボランティアは被災地に臨時の厨房を作り、住民と協力して温かい食事を提供した。
(撮影・Khusnul Khotimah)
 パル市郊外の家を失った人々が、ビニールシートでテントを張って住処としていた。
 

施療

最も必要としている人の元へ

 
道路が損壊し、交通機関も欠乏する中、インドネシア慈済人医会の医師、看護師、薬剤師と慈済ボランティアがチームを組み、医薬品二百キログラムとテントを四つ持って険しい道のりを経てパルに到着し、施療を開始した。拠点でのサービス以外に、ボランティアは各避難所のテントエリアをまわり、行動の不自由な負傷者のケアを行った。被災した住民が次々にやって来て、診療を必要とする怪我人の元へボランティアたちを案内した。
 
「テントエリアの多くの人に打ち傷や傷口の爛れなどの症状が見られ、咳や風邪などの感染症も起こり始めており、慢性病の人への医薬品も欠乏しています」。慈済人医会のベティ蘇医師は負傷者の状況をこのように説明した。
 
地震により道路が寸断され、多くの地域に援助が行き届いていなかった。医療チームは津波による大きな被害を受けたドンガラ県(Donggala)で医療サービスを提供した。被災後、一時的に孤立したドンガラ県で、住民は不安を抱えたまま、それでも街では人々が廃墟の中から建築材を見つけ出し、祈祷のための臨時のモスクを建てていた。
 
医療チームは山奧にあるクンバサ村(kumbasa)を訪れた。元々、低所得世帯が多いこの村の住民たちにとって、地震は弱り目に祟り目であった。ボランティアは村の世帯数と被害状況を確認すると、十月十二日昼に再度訪問し、多数の家屋が全壊した六百世帯以上の人々に、インスタントラーメン、保存食、ミネラルウォーター、白米や衛生用品などを手渡した。ボランティアはさらに大型のテントと太陽光パネルも提供し、電力の復旧していない村で電気が使えるようにした。
 
●慈済人医会ボランティアが施療拠点と各テント区で診療を行った。ぺヤボ村では知らせを聞きつけた住民が続々と診察に訪れた。撮影・Arimami Suryo Asmoro)
 
被災者の露思妮は、「地震後、誰も私たちに関心を持ってくれないと思っていたので、今日物資をもらえて本当に嬉しいです。もう何日も温かい食事を食べていません。今日はインスタントラーメンを食べて、身体を暖めることができました」と話した。
 
慈済ボランティアは十回以上物資の配付を行い、連日支援に奔走した。ボランティアの彭文窗は、「雨が降り、気温が高い中で、三、四世帯の家族が一つのテントに身を寄せ合っています。配付した物資が彼らの生活の助けになってくれればいいと思います」と話した。
 
被災者の状況を実際に目の当たりにし、ジャカルタから来た慈済ボランティアの童彩虹はその苦しみを思いやった。「彼らの悲しみや苦しみを見ても、私たちが悲しい顔をするわけにはいきません。ただ、先ず自分の身体や健康を気遣い、生きていれば希望がある、と励ますしかありません」。
 
被災地の復興への道のりは長い。慈済インドネシア支部とインドネシア軍は地震災害支援で提携する覚書を交わし、パル市、ドンガラ県、シギ県と、八月の地震で大きな被害を受けたロンボク島で、現地企業と共に三千棟の恒久住宅を建設することになった。被災者が安らぎの場所を得て、人々が力を合わせて復興への歩みを進めることを心から願う。
(資料整理・李秀玲)(慈済月刊六二四期より)
NO.265