慈濟傳播人文志業基金會
主婦のライフプラン
「もしも家族の一人が慈済に参加すれば、社会の家庭問題が一つ減少するはずです」
私は主婦として、
この言葉はとても理にかなっていると思ったので慈済人になることを決意しました。
十数年の歩みでやっと分かったような気がします。
すべてが自分のポジティブエネルギーになりました。
それは大切な家族のためにもなりました。
共に「生、老、病、死」という苦に向き合うことが出来たのです。
 
「暁の鐘に目覚め、法の香りに浸る」證厳法師の開示を聞き始めてから五年近くになり、取ったノートも十六冊になりました。それは時間を積み重ねてできた慧命の食糧とも言えます。
 
「特に深い縁があるからこそ夫婦になれたのです。夫婦はもともと同じ森に住んでいる鳥のように、一心同体で家庭を円満に維持すべきです。同時に社会への恩返しも必要であり、同じ志を以て衆生に奉仕し、共に菩薩道を歩むのです」これは證厳法師の《衲履足跡》中の開示ですが、私はノートに書き留めてあります。
 
振りかえってみれば、慈済に入って十数年が経った今、やっと分かってきました。それは全て自分のポジティブエネルギーとなって貯められ、仏法の勉強は自分の家族のためにもなりました。共に「生、老、病、死」という人生四つの苦に向き合うことができたのです。
 

初めて母となった喜びと悲しみ

 
「私の嫁になってくれないか」一九九二年秋、マレーシアから台湾に留学し、そのまま台湾で就職した陳国樑さんが私にプロポーズしました。
 
知り合って一年も立たっていませんでしたが、彼と一生共に手を繋いでいこうと決意しました。親孝行で正直でしかも一生懸命に働く姿に感動し、私の両親もこの人なら安心できると思ってくれたのです。私たちは台湾の台南で暮らすようになりました。
 
結婚して二年目に、新しい命を迎えましたが、初めて親となった私たちの喜びは数時間続いただけでした。女の赤ちゃんの泣き声がひどくなり顔色がみるみるうちに黒くなっていく様子を見た医療スタッフは、すぐ大病院に転院させて精密に検査すべきだと主人に告げました。
 
●楊秋燕と陳國樑の国際結婚が長く続いているのは、心が寄り添い、志が同じだからである。
 
私は子供を生んだ後で麻酔のため意識がまだはっきりしておらず、小さい命がすでにICUに搬送され緊急治療を受けていたことも、先天性肺動脈狭窄症という病気ゆえにすぐ手術を受けなければならなかったことも後になって知りました。「千人に一人の発生率で、生存の可能性は五割ぐらいです」と医師に言われた時、この事実が信じられないほど心が痛み、気落ちしていました。
 
治療中、主人と私は何度もお寺に参拝し、娘の病気が治るように神様にお願いしました。泣き暮らしていた私を見て主人は、「娘はもしも私たちとの縁があれば、きっと生きてくれるはずだ。もしも縁がなければ、神様が彼女を自分の元に連れて行くから。私たちに今できることは、医師を信じて、保育器にいる娘に頑張りなさいと励まそう」と言って私を慰めてくれました。
 
二か月の苦しみを経て娘の病状がやっと落ち着き、一般病室に移されたのですが、更に観察と治療を受けることになりました。
 
当時、近くの湖内郷に住んでいたおばさんが慈済の委員で、娘の見舞いに来てくれました。彼女は「子供は二つのタイプがあって、一つが恩返しに来た子で、もう一つが親を修行させるために来た子ですよ。」と教えてくれました。私は娘の痛みが軽減するようにと、娘の代りに誠意で以て善行し、毎月慈済に寄付するようになりました。
 

私を娘のように可愛がってくれた姑

 
二○○一年、長女は幼稚園の四歳児クラスに、次女も三歳児クラスに入りました。その年慈済では世界的に「一人一善をすれば災難を遠ざけることができる」という理念を推進し、私も「愛を世に撒き、福田を耕す」活動に参加していろいろな方に呼びかけ、善念と寄付を募りました。
 
その頃聞いた證厳法師の開示のいくつかが深く印象に残りました。例えば、「もし家族の誰かが慈済の活動に参加すれば、社会の家庭問題が一つ少なくなるはずです」。
 
そして「過去の時代にはかまどと煙突が家庭生活を表し、煙が出ていればその家はご飯を炊いていることを表していました。現代は高いマンションばかりでレストランも多くなり、何かにかこつけてはすぐレストランへ食事に行きます。私たちは昔の安定した生活に戻るべきです」。
 
また「女性は家庭を左右するとても大切な立場にあり、その言行は国にも影響を与えるほどなのです。これからも一層女性の美徳を広めていくべきです」。このような観念は私に姑のことを思い出させました。
 
幼い頃、私の両親は仕事の関係でいつも家を空けていて、雨の日だけ顔を合わせていました。家事の事も滅多に教わることはなく、嫁に行くまで食事の支度は全くできませんでした。
 
マレーシアの姑は、私の苦手を知ると時間があればすぐ台湾に来てくれて、自分の息子に故里の料理が食べられるようにし、ついでに私に料理と住まいの掃除も教えてくれました。
 
姑は身を以て私に教えくれました。もしも一家の主婦が家事さえもできなかったら、子供たちもそれを真似し、大きくなっても当然家事ができないのかもしれません。
 
私の心の中で彼女は立派な母親でした。いつも子供たちのために働いて、どんな事が起こっても子供たちの立場に立ってくれました。当時姑と二人で一緒に食事の支度をしていたことを思い出します。姑は食材の買い出しに、私は食材を洗ったり切り分けなどをしました。彼女が料理を作るとき、いつも横にいる私に味見をさせてくれるのです。二人の心は通じ合い和やかでした。
 
姑はよくマレーシアと台湾を往復してくれました。自分の得意な料理を私に伝えたかったのでしょう。今では恩返しすることもできず、舅や姑のために料理を作って食べて貰うこともできないので、おもてなしが実現できなくなったのが残念でなりません。
 
主人が大学を卒業した年、姑にガンが見つかりました。彼女は直ぐにガンに立ち向かうため医師の言う通りに積極的に治療を受け、ポジティブな考えを保っていました。十数年間の抗がん治療の甲斐もなく、二○○四年の初めにがん細胞が全身に転移し亡くなりました。五年後、舅も同じようにがんでこの世を去りました。
 
記憶に残っていますが、姑は最後に台湾を離れる時、飛行機に乗る前に突然「私の代りに息子の面倒をみてください。二人の孫のことも」と私に言ったのです。その後、姑はマレーシアに帰ったまま、再び台湾に来ることはありませんでした。
 
舅と姑が危篤になった時、縁があって、マレーシアの慈済人からお見舞いや励まし、温かいケアを頂きました。皆さんにお経を唱えてもわなければ、台湾に住んでいる私たちは安心できなかったでしょう。
 
二人のお年寄りは既にこの世におりません。私をまるで実の娘のように愛してくれた様々な思い出が、今でも私の心に深く刻まれています。
 
●楊秋燕は1992年に台湾在住でマレーシア籍の陳国樑と結婚した。長女は心臓病を持ってこの世に生まれたが、国際結婚の夫婦はこの困難に遭って学んだことが多いと言う。2人の娘を育てる中で自分の実家に助けてもらい、また主人の大家族にも可愛がられた。
 

主人の心ゆかせのために

 
姑が生きているうちは中国古来からの伝統文化である「七つのマストアイテム:柴、 米、油、塩、醤、醋、茶」にあるような一家の主婦がするべきことを十分に果たしていましたが、私は茶道だけ姑から学ぶことができませんでした。
 
中国の伝統文化には、新婦は結婚の翌朝必ず舅姑に顔を洗う水とお茶を捧げるという習慣があります。当時の私は緊張しすぎて、気付いていないうちに、「嫁の壺」という嫁いり道具を床に落として壊してしまいました。
 
これはよくない前兆だと思われ、姑は大変怒っていました。舅は私を助けるため「歳歳平安、歳歳平安(碎と歳の発音が同じであるから、毎年健康かつ無事でありますように)」と言ってくれました。それで、私は二度と茶壺を触ることがないまま過ごしました。
 
姑が亡くなった半年後、主人は姑を思い出していつも一人で黙ってお茶を飲んでいました。私は主人の悲しみを一緒に分かちあいたいと思いましたが、どうしたらいいのか分かりませんでした。もしもお茶を飲んで親を失った悲しみが和らぐのならと私は考え、茶壺の苦い思い出を乗り越えて慈済の茶道コースに入り勉強することにしました。
 
思いがけず「静思茶道」はお茶の入れ方と飲み方の作法を学ぶだけでなかったのです。そのコースの主旨は、證厳法師の《無量義経》を慈済の精髄に取り入れることです。茶道の先生は仏教の経文を教科書にして指導し、実践を目標にしているそうです。お茶のことも経文にも触れたことのなかった私にとってそれはとても難しいことでした。しかし私は毎日主人に美味しいお茶を楽しんでほしい一心で通い続けました。
 
「人の母、妻、嫁として料理と家事をするのは当たり前のことです。裁縫のほか、料理、茶道、生け花などをしっかりと学び、主婦の役割を果たしてください」と證厳法師は開示の中でも茶道のことを語られています。主人にお茶を入れるのも家庭主婦の役割としたら、心の底では思い出したくない茶壺の事も、無明の煩悩として取り除くべきでしょう。周りに影響されずに茶道に専念し、清らかな心で淹れたお茶はきっと美味しくなるはずだと思うからです。
 
心を込めてお茶を入れることができるには、自分でやってみて学ぶことが大切です。茶道から初めて仏法に触れましたが、《無量義経》の教えでは、お茶をいれる時は純粋に素朴な気持ちで全ての細かい作法を守ることを心がけ、その中から「布施、持戒、忍辱、精進、禪定、智慧」という「六度波羅密」を見出すのだそうです。お茶を入れる時にこのような考えで行えば、茶道の心境を体験できると学びました。
 
お茶を入れることが好きになったので、いつも自宅近くの慈済道場で近所の人や慈済人とお茶で縁を結んでいます。人と触れ合ううちに、《法華経》をよりはっきりと理解できるようになりました。特に実家の母が病気になった時は、一層深く経典を理解したい気持ちがつのりました。
 
●静思茶道を勉強した楊秋燕は、「心のお茶を飲んで、心の法を伝えよう」と考えて近所の人たちを招き、3割を茶道体験に、7割を證厳法師から習った仏法の教えを分かち合う時間にして皆に伝えている。
 

勇気を出して母に別れを告げる

 
それまでどんなに大変なことがあっても、実家の母はいつも私の後ろ盾となってくれましたが、彼女がいなかったらどうしようという事は一度も考えませんでした。兄が急に心筋梗塞でこの世を去ると、母は兄の事ばかり考えて、体も弱くなり、とうとう私のことさえも分からなくなってしまいました。
 
「人生の価値とは何でしょうか。世の中にはなぜ生、老、病、死の苦があるのでしょうか。なぜ愛情、別れ、憎しみの苦があるのでしょうか。なぜ貧、富、貴と貴賎の苦があるのでしょうか。なぜ苦しみはこんなに多いでしょう」再び證厳法師の開示を振り返って考えるとやっとその道理が分かりました。 
 
母がいつも私のことを気に掛けてくれたのは、一緒に家を守ると約束したからです。彼女は慈母の役割を果たすためずっと私に付き添って、私が娘を生んだ時、病院で娘の看病している私を、母は心配して産後の養生に気を配ってくれました。
 
「人のお産は簡単そうに見えるのに、なぜかあなたのお産は九死に一生を得たみたいに産後も病院で過ごすことになってしまったのね。女にとって産後の養生はどんなに大切なことか」と心から心配してくれました。
 
その後、母の病気で付き添っていたときに、突然無力感に襲われ、心身ともに疲れ果て、「もっといい法はいったいどこにあるのでしょうか」と自分に問いていました。
 
挫折は即ち修行です。悲しいことに手の施しようがないと分かったとき、私はようやく母の「緊急治療を放棄する同意書」にサインし、「緩和ケア」を受けさせました。それから彼女の容態はだんだん下り坂となり、仏法だけが私たち親子の心を慰めてくれました。
 
二○一四年七月二十二日、この日は證厳法師が行脚のあと病に倒れ、治って初めて講堂で《法華経》を解釈する日でした。私と主人はその日から「暁の鐘に目覚め、法の香りに浸る」説法を聞き始めましたが、生中継で慈済人に語りかける法師の声はまだかすれていたのです。当時の私は涙が止まらず、證厳法師の教えがずっと忘れられませんでした。
 
ある日、やっと勇気を出して母に「お母さん、もしも疲れたらゆっくり眠ってください。私たちは良い子になるから、安心してください。もううちの事を心配しなくてもいいのですよ。お母さん、もしも疲れたら、ぐっすり眠ってください。慈済の尼僧たちは慈悲心があるから、これからも人としての道理を教えてくれるから安心してください。もう家の事を心配しなくても大丈夫ですよ」と別れの言葉を言うことができました。本当は辛くて諦めることなどできませんでしたが、最後にやはり母の手を放しました。
 
●2009年8月台風モラコット(台風8号)が過ぎた後、陳國樑一家は被災地に行って清掃を手伝った。
 

楽しいとは言い争いが少ないこと

 
三十二歳の時から慈済に入り、この十八年間に身内の者が一人一人離れていって、生、老、病、死は自然の法則であることが身に沁みました。これが仏法を探求する機会になったとも言えるようです。受け入れれば悟りとなり、受け入れなければどう向き合えば良いのか分からないままです。
 
二○○八年に茶道師範の認定試験に参加しましたが、二度目も不合格でした。この年に左足を骨折し、ボランティアの奉仕にも暫らく参加できませんでした。怪我の回復中、夫婦で人生最大の試練を迎えました。主人の友人が金融危機で破たんしたのです。その友人にはお世話になった恩があったため、私たち夫婦はやっと手に入れた家を売り、彼に資金を支援しました。実家の父は心配のあまり私を叱りました。
 
家でお金に換えられる物を全部売ってしまっても、まだ友人を助けられないほどでした。親友や慈済人から「なぜ借家に住んでいるの?」と聞かれたり、娘からも言われました「クラスメートに聞かれたの。うちはこんなに貧しいのにお母さんはよく笑顔でいらっしゃるのね」と。彼女には理解できなかったようです。
 
「人は水を飲むが如く、冷暖を自ら悟る」。その時ちょうど證厳法師が「清貧致福(素朴な暮らしに福をもたらす)」を呼びかけた年でした。私たち夫婦は人が言うことを気にせず、慈済への奉仕も放棄する気はありませんでした。友人へ恩返しをして例え彼の事業が挽回できなくても、仕事が無くなることはないし、ゼロから再スタートすればいいと思っていました。
 
最初の借家に引っ越した時、よく昔買った家の夢を見ました。あるとき、證厳法師が大勢の慈済人を連れて私の借りた家に来てくれた夢を見ました。「この家は買った家ではなく借りた家です。」と證厳法師を室内に案内しながら事実を言いました。「借りた家でも買った家でも、住めるのであれば、どちらも自分の家と言えます」と證厳法師がお答えになったのです。
 
その年、夫婦二人でお茶を飲んでいる時、心に響いた静思語があります。「人生の喜びはたくさん物を持つことではなく、人との言い争いが少ないことだ」という言葉です。本来お茶が余り好きではなかった長女もそれから関心を持ってくれて、今では家族一堂集まって喜怒哀楽を分かち合っています。
 
毎朝起きて法の香りに浸った後、私は家に戻るとまず茶の水を沸かします。特に寒い冬にガスの火を付けると、家が暖かくなるのを感じます。 次に子供が起きて、朝食の支度も出来て、皆で楽しく一日を迎えることができます。

茶葉と法水との出会い

 
二○一六年七月五日、私のノートにこんなメモがありました。證厳法師が涙にむせび、開示が言葉にならないほどだった日です。「世の中の米俵を担ぐのはそんなに簡単ではなく、非常に辛いことです。心から仏法を勉強するには、如来の定と慧を持つことです。現在の人々は周りの意見が多すぎるので、どこに向かうのか迷ってしまうのです。」と。私たちは如来の肩や背中に背負われているうちは、その辛さがまったく理解できないのだと證厳法師はおっしゃっているのです。
 
「何か少しでも逸れた面が見えると全部が誤解されてしまいます。人々にもしも私たちのすることは善だと解釈してもらえなければ、慈済全体の過ちとなってしまうのです」。證厳法師は慈しみをたたえる母のように、弟子たちにいつも心がけるよう励まされました。
 
その日はいつもの通りに法の香りに浸った後、ボランティアに出かけましたが、特に足どりが重く感じられました。私は「静思茶道」で社会奉仕するという道を選んだのだ、それは家族にも祝福されているから、十年一日と考え、どこかで私が必要とされれば、すぐ慈済委員の制服に着替えて喜んで奉仕に行こう、そう思い直しました。
 
五十二年前の慈済は、三十名の主婦が毎日五十銭を貯めて気持ちを一つに、買い物かごを提げ、世の役に立つことを約束したのです。五十二年後の現在、私もその家庭主婦たちと同じです。違うのは、茶器入りの青いかごを提げ、慈済の各道場に行って、慈済人や一般の人々に自分の茶道体験を分かち合いながら仏法への心得を伝えているという点です。
 
その三十名の主婦の姿がいつも私の心の中にあります。私は彼女たちの隊列に参加するのは間に合いませんでしたが、今、あたかもその隊列と共に歩いているような気がします。
 
證厳法師に感謝します。苦労を一言もこぼさず、《法華経》を生活に密着した形で解釈し、中年期の私たちがそれを日常生活に取り入れられるよう分かりやすく、難しい経文を目にして拒否と恐怖を抱かないように講義してくださったのです。私と主人はこの五年間、毎朝「暁の鐘に目覚め、法の香りに浸る」説法を聞き続けてきました。ネットを通じてはいますが、證厳法師と弟子の間の愛は繋がっているのです。
 
「昔、どうして『靜思』と言う名前を付けたのかというと、いつも『靜かな心で思考する』と人生の道をよく考えることができるからです。『靜思』と言う冷静な考えがなかったら、間違ったことが発生しやすいのです。ですから人々は落ち着いて考えた後に行動すべきなのです」。と證厳法師は語られました。
 
私が茶道師範の資格を取ろうと思ったのは、それが慈済で奉仕できる道だと考えたからです。現在、茶道コースの授業がスムーズに行われているのも、その背後には證厳法師の支えがあり、教えを頂いたのだと私は思っています。
 
青いかごを提げ、いつも柔和忍辱衣を着て、四季の移り変わりあるいは風雨の日にも変わらず、證厳法師の期待を心に、仏のために塔を、または僧侶の住まいを建てるように礼儀を弁えて群衆に分け入るべきです。
 
仏塔を建てる者の志を胸に、仏の化身であるかのように振る舞うこと、これが自分に対しての期待です。仏法を現代に取り入れるときは茶葉を人に見立てます。「処世は茶道に似ている。茶葉を見てお茶を入れることが大切だ」、「お茶を入れる前、まず人の作法を見ることが大切だ。」茶葉は法水と出会った時、その生命は再び輝きだします。それは茶葉の最後の再生の時でもあります。そして茶葉は自身の本質と特色のすべてを心ゆくまで発揮して、最高の味を導きだすのです。
 
茶葉に情があって、入れたお茶に愛があって、情と愛の両方を兼ね備えたお茶は、證厳法師の法があるからこそ、その人情味を発揮できるのだといえます。
(慈済月刊六二二期より)
NO.267