慈濟傳播人文志業基金會
マレーシア華僑の心・台湾人の温情(上)
華僑から見たマレーシアと台湾の絆
 
クアラルンプール・シティー・センターの屋外広告に紹介されている台南の名物屋台料理。
ここぞとばかりにマレーシアの人々に台湾の観光と美食文化を宣伝している。
マレーシアの華僑と台湾の人々は同じ言葉を使い、同じように祝祭日を祝う。
離れた土地で過ごしていても、
「文化」という一本の細い糸でお互いが堅く結ばれ、切れることはない。
 
 
月光の下、子供達はランタンを嬉しそうに持って遊び、大人達はマレーシアで無形文化財に指定されている二十四節気太鼓の演技を楽しんでいる。もうすぐ中秋節なので、人々はランタンを手にし、その晩のイベント「老街走月」(月見をしながら古い街並みを散策するの意)に参加するために、クアラルンプールの中心部にあるプタリン通りに集まった。華僑がクアラルンプールに移住した当初はこの界隈に集中して住んでいたため、屋根の上の瓦から食卓の上のご馳走まで中国色が濃いので、中華街と呼ばれるようになった。
 
「マレーシアの華僑は客家、廣東、福建、潮州、廣西、海南と異なる地方からやって来ましたが、それぞれの方言で受け継がれた異なる文化と風習は貴重で大切な財産であり、華僑文化を豊かにしています。このイベントを通して、それぞれの方言にもっと感心を持つよう人々に呼びかけ、華僑と他の民族との交流を促していきたいと思っています。華僑による民俗舞踊の披露の他、マレー系とインド系の舞踏団も招きました」とイベントの主催者である郷音館の館長張吉安が言った。
 
華僑が本格的にマレーシアに移住するようになったのは、十九世紀に遡る。当時の清朝政府は内憂外患に直面していた。国内では太平天国と白蓮教による反乱、海外からは英仏諸帝国に侵略されて社会が動揺し、民衆は苦しい生活を強いられていた。中国の東南沿岸地域に住んでいた住民は生計の為に海を渡って南洋に移住した。その人達の大半は苦しい生活をしていた農民で、高い船賃は無論のこと、己れの生活でさえまともに維持できていなかった。そのために、大英帝国に身を売り、植民地開拓の労力として「ブタの子」のようにマレーシアに運ばれてきたのである。
 
海外に移り住んだ華僑の中から身売りの借金を全額返し、運良く故郷に錦を飾れたのは少数だった。大方は戻れず、そのままマレーシアに居着いてしまった。移民の社会は通常血縁や地縁によってコミュニティが生まれる。例えば、陳氏書院(陳氏一族の集会所、祖先を祭る家族のお寺でもある)、海南同郷会館などである。助け合い、団結の精神を発揮している。次の世代へと広がるに連れ、従来、教育熱心の華僑が教育を興し初め、学校を設置した。そこで四書五経、唐詩・宋詞等を教えることによって中国語教育と伝統文化の伝承を目指した。
 
●19世紀に大量の華僑がマレーシアに移住し、伝統的な文化を持ち込んだ。例えば、クアラルンプールのプタリン通りではドラゴン・ダンス(上写真)が催される。そこは初期の華僑が集まっていた主な場所であり、1920年には既に繁華街の模様だった。(左写真・《移山圖鑒》からデュープした)
 

弾圧を受けた中国語教育

 
大英帝国の植民地時代と第二次世界大戦を経て、マレーシアは一九五七年に独立したが、華僑の運命はそれで順風満帆にはならなかった。むしろ新しい挑戦を強いられた。国内ではマレー民族主義が台頭し、政府が華僑を抑圧するようになったのである。例えば、一九六一年に、国民教育体系に所属するように中華学校の改正を求める《教育法令》を成立した。それを拒否した中華中学は所謂独立中学(以下独中と記す)になり、政府の援助は受けられず、学歴も認められなかった。そのような状況の中でも、独中は中国語教育と伝統の伝承の要塞として中国語で教育することを貫いた。「文化は民族の根本です。私たちの会は政府の圧力がある中で設立されました。その使命は全国の中国語教育を守り統括することです」マレーシア中華学校理事連合会総会(以下董総と記す)の理事長陳大錦の言葉である。
 
学歴が政府に認められないため国内での大学進学は不可能なので、進学を望む学生は海外留学の道を選ばざるを得なかった。しかし、欧米の大学は学費が高く、一般家庭が負担できることではなかった。また一九五〇年代のマレーシアは中国共産党に対抗していたので、華僑は中国留学をすることもできなかった。シンガポールの南洋大学も一九八〇年に強制閉鎖された。中国語教育を受けた華僑は海外留学の機会が更に少なくなったのである。
 
しかし、丁度同じ時期、台湾に移った国民政府は海外の華僑の支持を得ようと、積極的に華僑に援助の手を差し伸べ、これらの留学生を迎え入れた。「実際、一九二○年代から国民政府が華僑事務委員会を設け、その事務を統括しました。そのあと、華僑とその学生の面倒を見ることを国家の義務とし、更に憲法にも定めました」と僑務委員会委員長呉新興が言った。
 
●郷音館創設者である張吉安は文物の収集、展覧会の開催などを通して、華僑の文化を守っている。例えばランタンは華僑が中秋節の時にランタンを手にして練り歩く習慣を物語る。

台湾留学の日々

 
「一九五○年代の台湾は戒厳令を敷いていましたが、治安が良く、物価が安いために、華僑の留学先として最適でした。その上、素晴らしい国学知識と学術思想を持つ学者が国民政府と一緒に移り住んで教鞭をとっていました。最も重要な点はお互いに中国語を使っていたことです。言葉の障害がなく、文化も大変似ていたのです」とマレーシア留台校友会連合総会の創会会長である頼観福が興奮を隠せずに、台湾留学の日々を思い出しながら語ってくれた。
 
大半の留学生は大学卒業後、マレーシアに戻って就職している。しかし、留台大学生と台湾との絆は卒業と共に切れたことはない。留学生達は各校の校友会を設立し、交流を深めるだけではなく、マレーシア政府に台湾の学歴を認めるように働きかけた。現在、マレーシア留台国立屏東工科大学校友会やバトゥー・パハト留台校友会などのように留台総会の傘下には学校と地域別に四十五の校友会が所属している。
 
眩しい太陽の下、温室の中では列を成して生い茂る蔓が上に伸び、みずみずしい金色のメロンが点在している。「台湾の農業技術はレベルが高く、また屏科大は農業分野を得意としています。私は一九七九年に華僑委員会が主催した海青班(海外青年技術研修)という二年間の研修に参加して台湾に行きました」と農場のご主人兼屏科大校友会会長の馬文光が言った。「私が手にしているのは台湾製の糖分計測器です。これでメロンにキズをつけずに甘さを測り、収穫する時期を決めています」と彼はメロンを抱えながら言った。
 

 

●台湾に留学し、卒業後マレーシアに戻った華僑は相次いて校友会を創設し互いの感情を深めている。マレーシア留台国立屏東工科大学学友会が一例である。(上)

●華僑は台湾からの農業と紡績の技術をビジネスに応用し、著しい成果を収めた。(右上、右下)

 

農産業の他、台湾の紡績産業も国際的に有名だった。一九五〇年代、マレーシア政府が輸入に代わるものとして政策的に後押したのである。紡績産業は政府の保護政策で瞬く間に発展した。「七〇年代バトゥー・パハトの紡績産業は芽生えたばかりで、紡績専門の人材が不足していました。私はこれを一つのビジネス・チャンスだと思い、海青班に参加して逢甲大学で紡績について勉強しました。当時は台湾に行き、紡績について勉強するのが流行でした。バトゥー・パハトの紡績産業が発展したのは、台湾が間接的に支援したと言ってもいいと思います」とバトゥー・パハト留台同窓会会長の黄財旺が言った。「華僑の台湾留学は台湾の経済と貿易にも貢献したのです。帰国して創業するとまず、紡績設備と原材料を供給する素材メーカーを紹介してもらえるかを台湾の先生や先輩に打診しました。例えば、目の前の織機は台湾のクライアントから買ったのです」
 
台湾について最も印象深いことは何かと聞くと、黄財旺は少し考え込んで、ゆっくり答えた。「懐の深い人情味ですね。毎年 旧暦の大晦日になると、台湾の学生は皆んな年越しのために帰省するので、我々留学生だけが学校に居残って新年を迎えます。学長の廖英鳴教授は私達のために、わざわざ学校のホールに来て一緒に年菜(台湾のおせち)を食べてから、自分の家に帰って家族と過ごしてくれたのですよ」(続く)(経典雑誌二四四期より)
 
NO.267