慈濟傳播人文志業基金會
逆境を活力に
新芽奨学金受賞者
勝利へ邁進するアスリート 
 
「他人にあるものが自分にないが、
自分にあるものを他人が認めてくれるとは限らない」。
楊子豪は家庭の事情にこだわらず、
むしろ逆境を活力に変えて前進し、フィールドで勝利を目指す。
 
陸上競技場のフィールドで七・二六キロの砲丸を持ち上げる。楊子豪が平日の練習でいつも行う動作だ。全身の筋肉よ、さぁ爆発だ!重たい砲丸が空中で一筋の放物線を描き、着地。スタッフが駆けつけて距離を測定し、記録が発表されるのは間もない。
 
砲丸投げ種目で全国五位の記録を持つ彼は、二〇一八年の「新北市杯全国陸上選手権」では十一・〇五Mを投げた。五位ではあったが實力を出せた大会だった。
 
だが大事なことは、一つでも多くの試合に出場して経験を積み、二〇二〇年東京オリンピックに出場するという夢に近づくことだという。
 
「代表選手になるためには二〇一九年の国体で三位以内に入らなければなりません」と楊子豪は次の目標を語る。「練習と試合経験を積み重ねていきたいです」
 
●砲丸投げが楊子豪の得意種目だ。一年三百日を練習に費やし、瞬発力を鍛え、記録更新を目指す。

栄光の影に困窮の時代あり

 
他のトップアスリートがそうであるように、楊子豪も全国五位になる以前に数々の大会で入賞しメダルを獲得している。そして台北市立大学大学院運動教育学科に進むとライフガードをはじめ、水泳コーチ、バスケットボールコーチ、AFAA認定フィットネスインストラクターといった資格を取得した。
 
積極的に試合に参加したり資格に挑んだりする以外に、彼は弱者家庭の子供達に関心を寄せている。二〇一八年四月、明新科技大学スポーツマネージメント学科に入学すると、卒業前の最後の学期に先生と同級生とともに教育部(日本の文科省にあたる)体育署の水泳指導チームに参加し、移動式プールを使用して新竹県尖石郡の山間部、海抜七百mのところにある玉峰小学校で水泳教室を開催した。
 
「子供達に水の中はどんな所なのか、そして自分の命を自分で守ることを教えています」子供達は楽しみながら学んでくれたので、教えている側も共に喜びを感じたそうだ。「自分たちも達成感が持てました」
 
これだけのメダルと資格証書が楊子豪の努力と實力を照明する。しかし汗と栄光の影には生活が困窮した時期があった。
 
「若い時はハイヒールをはいていたものですが、今はそれでは歩けません」母親は感慨深げに昔を思い出して言う。軽度の小児麻痺を患い、以前は歩くこともできていたのだが六十歳の頃には杖が手放せなくなったそうだ。
 
母親は保険会社で働いて母子家庭を支え、楊子豪と娘の楊亜ティ(女へんに亭)を育てて来た。慈済委員として慈善献金も続けている人だったが、中年を過ぎた頃に両足の筋肉が衰え、歩行困難になってしまった。母親の体の異変はすぐに一家を苦境に陥れたので、楊亜ティはいたたまれず慈済へ援助を願い出たのだった。
 
楊一家をケアしている高麗ナ(女へんに那)は、その時子供達は商業学校と中学三年生でまだ未成年であり、困難な様子が伝わってきたという。
 
●楊子豪は代表選手を目指して大学院の授業の合間にウエイトトレーニング室に通い、筋力増強に取り組んでいる。
 

奨学金を善用 練習器材を揃える

 
慈済は二〇一二年に楊家をケア世帯に認定した。同時期に県政府からも低所得者として登記されたので、毎月生活補助を受け、子供達の学費は免除になった。慈済は定期的に訪問し、物資の援助と必要な時に補助を行った。母親に障害者用バイクを購入して交通の不便を解決し、就学面で相談があれば補助をした。
 
二〇一六年には状況が代わり、低所得者の認定が取り消され、生活補助と学費免除が受けられなくなってしまった。急な事だったので、子豪と姉はまず友人に学費を借り、慈済も長期ケア世帯に認定し直して定期訪問以外に毎月七千元を補助することにしたのである。
 
長く一緒に過ごすうちに、ボランティア達は楊子豪に対し、なんと前向きな子だろうと深い印象を持つようになった。「向上心が強い子ですよ。生活が苦しいとネガティブになる子供もいますが、彼はいつも前を見ています。『他の人にあるものが自分になくても、自分にあるものを他の人が持っているとは限らない』とまで言いましたから」と高さんも賞賛している。楊子豪は早くからスポーツの方面に進むことを決め、二〇一四年商業高校を卒業すると明新科技大学スポーツマネージメント学科に入学して正式に学び始め、試合でも頭角を表し始めた。
 
高一の頃から毎年慈済新芽奨学金の申請が認定されたことは、母親を最も喜ばせた。入学してからもその親孝行で温かい品行が認められ、宜蘭の慈済支部では奨学金の中の孝行賞に選出した。大学進学後は自分の好きな事を進む道に選び、成績を伸ばしたので、学習領域賞を以て彼を励ました。
 
息子が日の当たる場所へと邁進し、そして慈済から認められた姿を見て、母親はやっと大きな肩の荷を降ろした気持ちになったという。「あの子には悪い道に入ったり学校を中退しなければそれでいいと思ってきました。こんな変わり方をするとは思ってもいませんでした」
 
高さんが内緒ですよと教えてくれたことがある。「お母さんは子豪くんが試合に出るたびに、どんな賞をとったか私たちに教えてくれるのです。自慢の息子なんです」
 
楊子豪と同じように新芽奨学生である姉の楊亞婷は、その支援で本当に助かっていると言った。子豪も「僕はスポーツ選手で何時間も練習しなければならないため、他の人よりもアルバイトしてお金を稼ぐ時間が少ないのです。その奨学金のお陰で、練習に使う靴や服を買ったり、緊急用に使うこともできました」と語った。
 
●楊子豪は陸上砲丸投げで全国第5位の記録を持ち、これまでに数々のメダルを獲得しながら自己ベスト更新を目指してきた。
 

慈済の援助で

子供は落ち着き夢を追う

 
大学に通いながら校内でアルバイトをした楊子豪だが、授業がない時間には他の学科の事務所にも出かけて手伝いをし生活費を稼いだ。体育学科でも、一学期に百二十時間と少なめではあるがアルバイトをしながら授業と練習に打ち込んでいた。
 
「学科事務所では八時から十時まで授業がないとその二時間だけバイトが出来るのですが、校外のバイト先では、二、三時間しか働けず、長期的に来てくれない社員を雇ってくれるところはありませんから」。
 
科大を卒業した彼は正直にこう言った。同級生には学校が終わると直ぐにアルバイトに通い、昼間の授業に集中できなくなる学生もいた。自分はアルバイトが授業と練習に影響しなかったので幸せだと思ったそうだ。「そうでなければ、好きなこと、スポーツを諦めるしかありませんでした」。
 
新芽奨学金とアルバイト代のほか、彼と姉は銀行に学資ローンを申請し、一学期に四万元を借りて生活した。計算してみると、大学四年間と大学院の間の借入金額は二人で合計三十万以上になった。就職後この元金と利息を合わせて毎月数千元を返済するのである。
 
返済は当然の責任と義務だと、二人はすでに心の準備をしていた。現在大学院生の姉は、「私は高校一年の時からローンを組んでいました。返済は当然のことですし、私たちにとっても社会を学ぶ機会だと思っています」
 
自立したいという意志と、慈済にこれ以上負担をかけたくないという善の思いから、二人は慈済を頼らず、自分たちでローンを申請したのである。ローンという負担を背負っても、楊子豪は慈済に対し感謝の気持ちを持ち続けている。彼に将来の心配をさせずスポーツへの理想を貫くよう導いてくれたのが慈済なのだ。
 
二〇一八年全国新芽奨学金給付式典の際、彼は宜蘭慈済支部へこのように挨拶した。「師姑師伯の皆様、本当に有難うございました。自分が宜蘭を留守にしている時、皆様が毎月実家に来て支援して下さったことは、僕にとって最大のサポートでした!」
 
●試合を終えて宜蘭の実家に戻った楊子豪。母親(中)、姉(右)との1枚。姉も何度も慈済新芽奨学金を支給されるほど成績優秀である。

卑屈にならず 

無限の可能性を発揮する

 
学習態度、学科とスポーツのすべてにおいて優秀な成績を修めた後、大学院へと進学した楊子豪は、新芽奨学金学習成就賞に輝いただけでなく、宜蘭地区でその年の模範奨学生にも選ばれた。同じ新芽奨学生達に新たな道を示したと言える。
 
「今日はお伝えしたいことがあります。『諦めないように』は毎日のように聞く言葉ですが、私が言いたいのは『諦める』ことです。何を諦めるか、それは大切な事を一つやり遂げるために、娯楽の時間を諦めるのです。自分を取り巻く無駄を捨てる、それはしばらく休むのと同じです。自分のしたいことをやり遂げるのです」。
 
世の中に楽をして得られるものはない。一等賞の影にはどれほど多くの汗と涙にくれた時間が隠れていることか。一年の三百日を練習につぎ込み、慈済の援助を受け取り、楊子豪は記録を更新してきた。自分にできたことは、誰にでもできると彼は信じている。
 
「僕の夢はこの道の先にあります。一歩進むことができたので、努力を続けます」後輩の奨学生に対し、家庭の事情で卑屈になることなく、人にどう思われるかなど気にせず、弱い気持ちを活力に変えることが大切なのだと強く呼びかけた。「僕自身がやってみせればきっと伝わるでしょう。皆さんにも無限の可能性があるということが!」
 
●競技場での1分間の成績は長年貫き通した努力が基礎になっているのである。彼は新芽の後輩達にも卑屈にならず娯楽に溺れず自分の道を進む努力をするよう選手経験ををいかして励ましている。
(慈済月刊六二六期より)
NO.267