慈濟傳播人文志業基金會
「捨」の練習
私は一人だけの時間を過ごすのが好きなため、
精舎に帰るとまず自分の空間を持たないようにと心掛けている。
甘んじて時間を奉仕し、執着心をなくすことである。
反復する労働で私がやっと気が付いたのは、
喜びとは自分の欲望を満たすことではなく、
見返りのない奉仕をするということだった。
 
炎天下の夏は太陽が照り続け、汗が止めどなく流れる。暑い日差しの下、目を細めて静思精舎で歩いていると、「炎炎の夏日に眠気が襲う」という文句が頭に浮かんだ。
 
「春は読書の季節ではなく、炎炎の夏日は眠気がさす。秋が過ぎて冬が到来し、書籍をしまって残りの日々を過ごす」これは明の時代の才子、馬夢龍編纂の『広笑府』の中の「読書が怖い」という一篇の詩である。小さい時から読書好きの私は、なぜ読書が怖いのか全く理解することができなかった。その上忙しい精舎の生活の中で、もっと法を復習する時間があることを望んでいるのに、読書が怖くないだけでなく、逆に「時間が足りない」ことを心配していた。
 
精舎に帰って證厳法師に従って修行する前は、繁華街であらゆる種類の人間や出来事が起きる香港に住んでいた。仕事で忙しい一日が終わって家に帰ると、ただ自分の時間を持ち、テレビを見たり読書したりして過ごした。
 
五年余り前、精舎に来た時はあらゆる事が新鮮に感じられると同時に不慣れだった。毎日精舎の生活に慣れようと模索しながら、昼間は仕事に専念し、週末は常住尼僧たちに着いて畑仕事をした。夜は時々、大部屋で皆と話し合って感情の交流を深めるため、読書の時間を探すのはとても困難だった。
 
困難は心に法がないからであり、修行の真義を理解していなかったからだ。その上当時、私は台湾語が分からなかったので、焦るばかりだった。
 
ある日、法師が静思晨語で「六度」、「四摂」を解説していたが、私にとって非常に役に立った。「六度」とは、自分の内に対して布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧を促し、「四摂」は外に表れる積極的な奉仕、布施、愛語、利行、同僚を悟りに導く行為である。その時から私も生活の中に取り入れることを試みた。
 
「六度」は布施が最たるもので、私は「捨」から学び始め、自分の時間を切り「捨」て、我執を取り除くことを練習した。利他を優先し、頷いたり会釈し、ちょっとした人助けするのも全て「捨」から始るのである。
 
捨の練習をしていると、何時しか日が過ぎ去った。ある日、朝食を済ませて食卓を拭いていた時突然、こういう生活が本当の修行であり、全てが日常的で雑念がなく、只ふきんで食卓を拭くことだけに心を配っていると感じた。真の喜びとは自分の欲望を満足させることではなく、見返りのない奉仕から得られるものだった。
 
●旧正月の間、ボランティアは静思精舎に帰り、新年を迎え、常住師匠と一緒に野菜畑で雑草抜きをした。(撮影・彭珮瑋)
 

生活は当たり前のことではない

 
見返りを求めないと言えば、「一日働かねば、一日食せず」という言葉から、常住師匠たちの苦労と恨みも悔いもないことに感心させられる。以前好奇心から、ある常住師匠に、「こんな炎天下で辛い畑仕事に耐え、笑顔を浮かべられるのは簡単なことではありませんね」と言ったことがある。
 
師匠は笑って、「畑仕事は私たちの生活に欠かせないことを教えてくれるのです。炊事したり野菜を植える人に感謝し、その福を大切にしなければなりません。座って口を開ければご飯が来て、手を伸ばせばお茶があるのは当たり前ではありません」と言った。
 
精舎へ帰って間もない頃、二年に一度の盛大な行事である、ウコン掘りがあった。都会育ちの私にとって見逃すことのできない出来事だった。高ぶる気持ちと共に作業服を着て、午前八時から六時間掛けてウコンを掘り、それを車で運んで天日干しした。
 
昼は食堂で食事してから食器を洗い、午後は野菜を植えるために土を耕し、苗を掘り起こして手押し車で畑まで運び、植えた後には水やりをした。
 
一輪車を押して上り下りしているととても疲れた。午後三時の太陽は熱く、編み笠を被っていても頭が膨れ上がるような感じだった。重くて車輪の空気が足りなかった一輪車を一気に坂道の上に押した後、諦めたい気持ちになり、「今日来たのは間違いだった」という言葉が頭に浮かんだ。
 
しかし、直ぐに頭を切り替え、意志の力で続けた。というのも、常住師匠たちが毎日、野菜畑で重労働し、黙々と全世界の慈済人の家を守っているのを見ると、自分だけが試練に耐えられず、直ぐに諦めてはいけないのだ。その日、夕方の五時まで働き、体は疲れ切っていたが、気持ち的には大きな前進だった。
 
畑仕事は精舎での日課の一つに過ぎず、「清修士」(注)の寮や公共区域の清掃は三六五日行われており、私が割り当てられたトイレ(浄房)掃除は合計一ヶ月にも満たず、後の十一ヶ月は他の人の奉仕に頼っていたのだ。本当に感謝に耐えない。
(注:出家前の修行者)
 
私が浄房に入った時、「観身不浄」を体得しただろうか。臭いで眉間に皺を寄せたのではないだろうか。他人がしてくれたことに感謝してこそ、物を愛し、大切にすることができるのである。万物、四大元素による結合は借りのものであることを理解して初めて執着心がなくなるのである。
 

専念して働く

 
私は気持ちの切り替えをしなければならない時、野菜畑に行って散歩する。ある日、台風が去った午後に畑に続く道を歩いていると、遠くの方で一人の師匠がスコップで土を掘り起こしていた。以前、その区域は背の高いトウモロコシが生えていて、収穫後は葉が残っていたはずだったが、師匠は何をしているのだろうと思い、声をかけた。「師匠、お手伝いしましょうか」。「そうですか、丁度モロヘイヤを掘り起こして別の所に移すところでした。手伝いに来てくれてよかった」。
 
台風の影響で、畑仕事をするはずの常住尼僧たちが野菜のよりわけをする区域で仕事をしていた。その師匠は他の尼僧たちに休んでもらい、自分一人で苦労していたのだ。私は野良仕事の身支度をしていなかったが、構わず、その滅多にない機会を逃してはならないと思った。
 
トウモロコシを植えていた畑には以前、モロヘイヤを植えたことがあり、何本か自然に芽を出していた。師匠が約二十株のモロヘイヤの苗を掘り起こし、私は泥付きの株を一輪車で畑に運んだ。そして、師匠が穴を掘り、私が土に水をやり、更に一緒に土を被せ、踏み固めた後、水やりをした。
 
白い靴は泥にまみれ、パンツの膝から下も泥だらけだったのも気にせず、両手は蚋にいっぱい咬まれ、指の股は黒い泥で汚れていた。大自然の中で師匠と修行や自分の浮ついた情緒について話し、雨が上がった後の新鮮な空気を吸うと心がリラックスできた。
 
師匠も私と同じで、自分は怠惰でもっと頑張らなくてはという想いで、午後、野菜畑に来て考えていたのだった。師匠は、「忙しい精舎の生活の中ではことさら朝の修行の時間を大切にし、専念して法語を聴かなければいけません。畑仕事している時は手足を動かしていても、心の中で修行し、法の中にある真義を反復して、生活の中に運用してみるのです」と言った。
 
私がここで師匠に会うことができたのは前世の良縁と信じ、この一刻の話し合いと励ましあいは私の善知識となった。私は法師がかつて「縁とは何世にも亘って続くもので、あなたが与えた愛や慰めの分だけ、その人はあなたのことを心に記憶しているのです。あなたのその良い種は、その人の心に植え付けられます」と話されたのを思い出した。
 
五時半まで仕事を続け、足取り軽く寮に戻った。何時の間にか雲はなくなり、美しい夕日はなかったが、青空に白い雲が所々に浮かんでいた。心の中でその師匠に感謝し、もっと頑張らなければと思った。
 
●精舎の野菜畑で三輪自転車で野菜を載せる。常住師匠は心を合わせて互いに協力し、一人は前で引っ張り、一人は後ろから押し、野菜を運んでいた。(撮影・黄筱哲)
 

炎天下でも心の中にそよ風が吹く

 
以前、友人が私に、もし選択できるなら何になりたいかと聞いたことがある。彼女は鳥になって大空を思う存分飛び廻りたいと言った。私は樹になりたいと答えたように覚えている。その原因は簡単で、黙々と立って人々に木陰を与えたり、雨を凌いでもらうことで頼られたい、と思っていたからだった。
 
大樹は一粒の種から芽を出し、縁が集って逞しく成長する。同様に発心立願した菩薩は縁あって仏法を聴き、努力して精進善行すれば,伸びた枝や葉が剪定されるように、この世における試練を受けて習気や我執をなくし、おのおのが異なった外観を成した大樹として人々に涼を取らせることができるようになる。
 
どうすれば堅固で倒れず、根が深く張って大きな枝を伸ばす大樹に成長できるか?私は慈済という大来な環境の中で、努力してより多くの機会と空間を見付けて奉仕し、「四摂法」を実践したいと思っている。
 
「四摂法」は布施に始まる。法師は、「人と良縁を結んで常に人を助けることが即ち『布施』。大衆の世話をし、互いに助け合い愛し合うことが『利他行為』。愛の言葉で慰めることで人の心を広くして煩悩をなくせば、お互いに励まし合うことができ、それが『同事という仲間』です」と開示したことがある。
 
人と一緒に事を成していて困難に遭った時、「四摂法」を思い出し、続けられるだろうかと自問していた後、頑張って試練を乗り越えるようと努力した。それと同時に「布施」という善行、「持戒」による徳の修行、「忍辱」による縁の転換、「精進」して格上げすること、「禅定」で自在になること、「智慧」の成長を着実に行い、生活の中に取り入れることは即ち、自利・利他である。
 
「春は慇懃に心田を耕し、夏はこの世の煉獄に入り、秋は精進して誓いを立て、寒い冬に福慧の豊作を得る」。人生の出会いは全て一時の縁である。修行の道でことさら、困難に遭遇することで心を修行する機会に恵まれたことに感謝しなければならない。ことごとの機会に心を練るのだ。炎天下の人生ではより多くの忍耐と苦労が必要だが、心の中にそよ風が吹けば、自ずと涼しくなり、あらゆる事が法である。
(慈済月刊六二五期より)
NO.269