慈濟傳播人文志業基金會
ハンググライダーのように 晩年を優雅に飛ぶ(上)
 兄弟と日夜交代で介護してきた父親の最期を見送った。彼はその時、自分は「最後の枕元の孝行息子」だったことに安堵して肩の荷を下ろした。自身は「老後のために子を育てる」と言う古い考えは持っていない。一人で老後を迎えることについて、体は若い頃のように戦闘力が高くなくても、設定された航路に沿って、エンジンがないハンググライダーのように、のんびりと飛行し、ソフトランディングできることを望んでいる。
 
●毎日朝晩、陳漢鈞はプールでラップを重ねながら泳ぐ。体を鍛え、これから先はハンググライダーが風に乗り優雅にソフトランディングするが如く、自立した生活を続け晩年を迎えたいと考えている。
 
 
冬至にお団子を食べると歳暮も近い、自ずと嫌でも「歳月」が進んでいることを感じる。陳漢鈞は出勤前の時間を利用して、独居の父親にこの季節に食べるお団子を届けた。
 
満七十二歳と一日になろうとしたあの日、父親は自分の体に異変が起きたことも知らず、古くなった日本風の教員宿舎の玄関先にある階段を上ろうとして前足を上げたが、後足が動かず、そのまま立ち往生してしまった。息子の顔を見て苦笑すると「おかしいな、足が上がらない」と言った。股下が濡れて、足下に水溜まりができていた。
 
その時はそれまで送ってきた父親の静かな生活だけでなく、自分にも関わってくるとは思いもよらなかった。老い、病い、死という悩みが始まろうとしており、そしてそれは止めることができないものだった。
 

突如天井が人生のすべてに

 
「おかしい、どうしてこうなったのだろうか」と陳漢鈞はまず父親を椅子に座らせながら考えていた。様子を見に来た隣の人は、転んだわけではないので早く医者に行った方がいいと勧めてくれた。
 
「お父さんは脳卒中です」という医者の診断を聞いた時、初めは薬を飲んで何日か寝ればいいと思った。何年か経って当時の自分にはその程度の医学知識しかなかったことを笑い話にしたが、左半身が「マヒ」した父親は、以後ベッドで「天井を見るだけ」の介護に頼る人生に直面していたのだった。
 
母親が早くに亡くなってからこれまで父親はずっと一人で暮らしていたので、息子たちは毎日の生活と身の回りの世話だけをしてやればよかった。一九八八年、父親が脳卒中で倒れた時の台湾はまだ外国籍の介護者を雇うことはできなかった。台湾人の介護者を雇う場合は日当が二千元(七千円相当)、その上父親には大人用オムツに長期的な費用がかかるため、経済的事情からとてもではないが介護者を雇える状況ではなかった。
 
「病気が長引くことで孝行息子もいなくなることは我が家では絶対にありえません」陳漢鈞の三人兄弟は父親を老人ホームに送ることは考えなかった。兄弟の一人は仕事で花蓮に住んでいなかったので、父親の世話は彼と花蓮在住の二番目の妹が主にすることになった。
 
「今後夜勤は私に全部やらせて下さい」とホテルのフロント係をしていた彼は自ら上司にシフトの調整を申し出た。こうしたことで妹は昼間仕事ができ、、少なくとも二つの家庭に影響を及ぼさずに済んだ。父親の世話をする為に、妹一家を実家に引き取った姑の度量に陳漢鈞は深く感動した。
 
妹が八時に仕事に出かけられるよう、陳漢鈞は毎朝七時に夜勤を終え、真っ直ぐ父親の家に向かった。彼は父親の朝食、トイレ、入浴を済ませた後、手作りの吊り輪で父親の左手を鍛えたり、右手が萎縮しないようにキャッチボールの相手をしたりして、リハビリを手伝った。
 
運動をして疲れた時は父親をベットに休ませると、陳漢鈞は側の床で仮眠を取った。ちょっとした父親の動きにも直ぐに気づくように、彼は熟睡することはなかった。昼食の後、彼は雨風も厭わず車で父親をリハビリセンターに送っていく。リハビリを続けた結果、父親はやっと杖を使って歩けるようになった。
 

一息入れる暇もなく 日夜続ける

 
父親が少しずつ歩けるようになった頃、陳漢鈞は毎日のように危ない目に遭っていた。
 
「おい!死にたいのか!」と耳を突く罵り声とクラクションに慌てて目を覚ますと、いつの間にか自分の車が対向車線を走り、前の車に衝突しそうになっていた。ホテルの夜勤と朝から晩まで父親の世話で十八時間休み無く働いたあと、父親をリハビリ・センターから家に連れて帰る途中のことだった。彼は疲れ果てていたのだ。
 
「自分のほっぺたをつねっても、三十秒もしないうちにまた居眠りをしてしまいました!居眠り運転をしている間、きっと神様が代わりに運転してくれたのだと思います」とその頃の四、五年間を無事故で過ごせことを菩薩に感謝しているという。
 
妹が仕事から帰ってきて、晩ご飯の支度をする。父親にご飯とリンゴのすり身を食べさせてから、陳漢鈞は十時の出勤時刻を前に一度家に帰って仮眠をする。それが一日の中で妻と息子に顔を合わせる僅かな時間だった。
 
「ご飯の時間になっても起こさないでくれと妻に頼みました」と陳漢鈞は言った。彼は父親より早く倒れたくなかったのだ。
 
断続的に仮眠をとっても一日の睡眠時間は合計四時間足らずで、睡眠も浅いので十分休んでいるとは言えなかった。「人間は鋼鉄でできているのではありません。幸いにしてまた四十歳代だったので、何とか持ち堪えました」と陳漢鈞が言った。台東で教鞭をとっている弟夫婦は毎週金曜日になると帰って来て交代した。それは日曜日の夜まで、彼と妹にとっての息抜きの一時だった。
 

認知症は家族を困らせた

 
冬至にはいつものお団子さえ食べられなくなっていても、歳月は父親をそのままにはしておかなかった。脳卒中になってからの父親は明らかに衰弱し続けた。
 
ある日、陳漢鈞が晩ご飯の片付けをしていた時、父親は真剣な顔で彼を呼んだ。「おい来てくれ、大切なことを話したいのだ」
「何?」
「ご飯はまだか?」
「はい、今から用意しますよ」と陳漢鈞は返事したが、父親は直ぐにご飯のことを忘れてしまっていた。その後、父親は脳卒中による認知症だと診断された。
 
父の時間がどれほどあるのかわからなかったので、中国で暮らしている叔母が見舞いに来られるよう申請した。長年離れ離れだった兄妹が再会できるのは感無量のことだろうと思ってそうしたのだが、「貴女は年取っているから、妹ではありません!記憶の中の妹はまだ十八歳です」と父親は言った。当時故郷から逃げ出した時、叔母さんはまだ三つ編みの少女だったのだ。人は一旦記憶を奪われると、気持ちも消えてしまうのだろうか。
 
その上、父親は病気になってから体内時計が日夜逆になったので、介護する人の体力も限界に近づいた。兄弟で暫く頑張ったが、ある時もう支えきれなくなって、兄と弟を呼び戻して相談したところ、兄が「老人ホームに入れよう」と最終決定を下した。
 
父親が身近にいないとかえって気になった。ある晩、陳漢鈞は耐えきれず、同僚に頼み、仕事場を抜け出して父親の様子を見に行った。夜中の一時、二時だったが、彼が目にしたのは、父親が目を開けたままベットに手足を縛り付けられている光景だった。
 
「私は何も悪いことをしていないのに、どうして縛り付けるのだ!」と父親はいく晩もつらい思いに耐えてきたと話した。彼は悲しくて涙を流しながら自分を責めた。そして、「明日連れて帰ります」と近くにいた介護の人にきっぱり告げた。考えてみれば老人ホームは人手不足で、細かく介護するのは不可能だったのだ。これも仕方の無い現代の社会現象である。
 
●手にしているのは父親の写真。毎日兄弟で力を合わせて父親を介護した陳漢鈞に悔いはなかった。年をとって独居している彼の望みは、息子が安心して外で働けるよう、心配をかけないことだという。
 

精一杯介護する

 
父親は人生の最期に大腸癌に侵され、人工肛門は毎日洗浄しなければならなかった。そして寝たきりなので誰かに体を起こしてもらって背中を擦ってもらわなければならなかった。父親が病いに侵されるのを見るに忍びなかった陳漢鈞は、長時間装具を留める絆創膏で人工肛門の周りの皮膚が赤くなるため、代わりに木製のリングを考案した。それは使い勝手がよく、介護士が同じ病室の患者にも勧めるほどのものだった。
 
五年間、父親の介護に細心の注意を払ってきたため、父親は亡くなるまで一度も床擦れができたことはなかった。「老人ホームにいた一ヶ月を除き、全て私達が介護しました。それこそ精一杯でした」。精一杯父親を介護したゆえに、今になっても悔いは残っていない。
 
父親の一生をふりかえると、戦乱のため生まれ故郷から逃げ出すことを余儀なくされ、転々とした後、花蓮に落ち着いたのである。中学校で教鞭を執りながら、学校以外でも臨時講師を兼任し、我々兄弟六人を育て上げた。学生の数は相当多かった。タバコの匂いに満ちた部屋の中で父親がタバコを片手に学生の作文を赤鉛筆で修正する姿を夜中に起きてトイレにいく途中に見かけたことがあった。
 
戦乱から逃げ回る時代は既に終わっていたが、父親は依然として周囲を警戒していた。陳漢鈞が毎日会いに行っていたにもかかわらずスペアキーを渡さず、お客さんのようにいちいち外から父親を呼ばなければならなかった。
 
ある日、窓が外から開けられるのを見つけて、父親に「次からどこから入れるかわかりました」と冗談を言ったら、翌日からその窓が金属ワイヤーで固定されて開けられなくなっていた。父親は日頃家にいてもドアと窓を締めきっていたのである。定年後は友達付き合いはなく、運動や旅行もしなかった。唯一の趣味は読書とテレビを見ることだった。
 
なぜ父親の世界はこんなに孤独だったのか。病気になったお陰で子供たちはやっと側にいてあげられたのだが、これは父親にとって果たして慰めになったのか嘆きになったのかは知る由もない。
 

五十歳になって散髪の見習い

 
父親の介護をしていたことで陳漢鈞は後日、特殊なボランティア奉仕をすることになった。
 
父親が亡くなった後、陳漢鈞は生前父親の散髪に使った道具を見て、こんなに揃っているのだからと散髪を習うと言い出した。
 
「何でもいいのに、どうして床屋の見習いなの?」と妻に分かってもらえなかったが、陳漢鈞はあちこち聞いて回った。台湾の古い社会では弟子入りするのは十何歳から二十歳が普通だったので、五十歳になって弟子入りを申し出ても、弟子に取ってくれるところはない。幸いに不定期に開催されていた地域の職業訓練クラスの科目は多種多様だった。
 
陳漢鈞は遊び半分の気持ちだったので、職業訓練を受けて免許を執り、床屋になるとは考えてもいなかった。すると申込者が少なかったので、散髪クラスを開講することができないと言われ、代わりに女性理容クラスを勧められた。
 
「女性の理容を習ってどうするのだろう」と最初は戸惑いを感じた。しかし主催者が受講料の値引きをしてまで勧めてくれたし、男性の理髪クラスが開講するまではどうせ待たされるので入ることにした。
 
職業訓練クラスの中では最も年長で修得は遅いが、心を込めて勉強した末、女性と男性の丙級(三級)理容免許を取得した。当時、慈済大学のプールでライフガードもしていた彼の最初の顧客は、同僚の病気になった父親だった。
 
●温かい髪の縁
陳漢鈞は自宅のリビングで無料の床屋を開業している。
壁のカレンダーは予約で一杯である。客がぜんざいを持ってきたり、散髪後、自分たちで床を掃除して部屋が人情の温かさでいっぱいになるため、彼は年をとっても寂しさを感じることはない。
(続く)(慈済月刊六二七期より)
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