慈濟傳播人文志業基金會
困窮の背後に広がる 無限の希望
 数百人の農民が冷房のない配付会場で、心穏やかに微笑んだ。ボランティアが一列に並んで物資をリレー式に運んでいるのを見て、彼らも自発的に加わった。彼らは単純な道理を理解している。逆に、毎日注意を受けている私の方が忘れがちだ。
 
種籾の配付は午前中に終わり、空いた午後の時間を利用して私たちは七十三歳の農民を訪問した。彼には五人の子どもがいて、上の三人は既にタイへ出稼ぎにいき、下の二人は家に残って家事手伝いや臨時工をしていた。
 
数年前、タイにいる子どもたちから仕送りがあり、家に井戸が掘られた。しかし、子どもが結婚してからは仕送りがなくなっただけでなく、孫を連れてきて年配の親に面倒を見させているのだ。家には扉がなく、仕送りで付けようと思っていたが、その期待は泡と消えた。今、老農夫はひたすら蒔いた種籾が豊作をもたらすことに期待を寄せている。
 
貧困であっても、ミャンマー人はいつも果てしない希望を持っている。楽天的で自分の運命を受け入れているのは生まれ持った幸福な性質である。私たちには彼らのような楽天性が欠如しており、裕福な生活の中で、本当に足るを知っているのだろうか。
 
物質的に豊かな台湾では、食べすぎが心配である。「腹八分、二分は人の助け」というスローガンの実行は決して難しくないはずだ。ミャンマーでは痩せ細った農民がお腹いっぱい食事するのは難しく、彼らにとって一握りの米は大切なエネルギー源であるが、彼らは捨てがたきを捨てる精神で以て、他人を助けるために一日一握りの米を「貯米箱」に入れている。
 
●緑豆の種を受け取った農民は、遠い国から訪ねて来た慈済ボランティアと緑豆のさやが実った緑豆畑の中で喜び合った。
 
マレーシアの師兄が持っているスマホのおかげで、ミャンマーはライブで花蓮静思精舎での説法を聞くことができるのである。スクリーンは小さく、音量も大きくはないが、心して聞けば、はっきり聞き取ることができる。ミャンマーと台湾の間には一時間半の時差があり、早朝三時五十分から私たち四、五人はそのスマホの前に集まって説法を聞いている。ある日、證厳法師は、「衆生が常に平等な慈愛の心を持っていれば、安らぎを感じて煩悩はなくなり、人は助け合いながら生きていくことができます」と開示した。その時、私は配付活動での出来事を思いだした。
 
その日、午前中の配付活動は非常にスムースに行われ、珍しく早めに終了することができた。午後は二手に分かれ、一組は家庭訪問を行い、もう一組は会場の後片付けをした。ところが予想外の出来事が起き、村長が百人余りの村民を連れて種籾を受け取りに来たのである。彼らは午前中、農作業に忙しかったのだ。
 
その時、村民の資料が家庭訪問チームの車にあることに気づき、直ちに電話してUターンしてもらった。ところが三時間以上も待って、ようやく彼らは慌ただしく戻ってきた。田舎の道に迷ったのだった。
 
暑い午後、村民たちも三時間以上待った。会場には音楽もマイクもなく、おまけに言葉が通じず、コミュニケーションを取るのが難しかった。彼らがいらいらしていないかと心配し、皆で歌を歌い始めた。感謝の歌から歓迎の歌まで歌い、やっと会場は楽しい雰囲気に包まれた。活動を終えたのは夕暮れで、レストランに戻ったのは七時半だった。田舎道に迷ったボランティアをからかって笑い声が広がり、空腹を忘れていた。
 
●炎天下で農民は腰を曲げて、苦労して育てた稲を刈り取っていた。ミャンマーは世界の米どころの一つであるが、様々な状況下、米の栽培と収穫は人力に頼るしかなく、それは人々が苦労して収穫したものである。
 
人との関係で平等な大愛の中に身を置けば、煩悩から遠ざかることができる。ボランティアたちは見返りを求めず、ただ村民たちの苦しみを和らげ喜びをもたらしたい一心で、ミャンマーに奉仕にやってきたのである。善良な村民は来季の豊作を期待して、種籾を受け取るために長時間待っていたが、誰も文句を言わなかった。私たちはお互いに感謝の言葉を交わし、互いに心の安らぎを与えた。
 
七日間の滞在で見聞したことを思い出してみると、村民たちは「安貧楽道」と形容することができる。人々は多くを求めることはなく、無事に暮らせることだけを願っているため、「安」であり、民生用のインフラ整備が遅れているため、「貧」と言える。一文無しであっても、家族と一緒に暮らせることが「楽」であり、物質的に裕福でなくても、彼らの心は影響されることなく、逆に天と地を畏敬し、信仰心が厚く、道理をしっかりと理解している。
 
今回の配付活動を通して、人はこれほどにも簡素な生活ができるのだと気づかされた。ボランティアの話によると、ミャンマーでは荷物を無くす心配はなく、外出時に戸締りも必要ない。多くの人の家には扉もないが、もとより盗まれるものは何もないのだ。仏教を信じているため、元から彼らは善良な本性を持ち、安らかな心で何も求めず、求めないからこそ心が満ち足りているのである。 
 
「道」とは、道理を弁えていることであり、文明人だと自負する私はミャンマー人よりも道理を弁えているとは限らない。配付会場で、何百人もの村民が冷房のないお寺の中で、騒ぐことなく微笑みを浮かべて物静かに和気藹々としてボランティアの指示に従っていた。
 
物資を運ぶために、ボランティアが一列に並んでリレーしているのを見て、彼らは自発的に列に加わって手伝ってくれた。おかげで作業はすぐに終わった。これが「合和互協」という道理であり、彼らはよく理解している。逆に、毎日注意されている私は物忘れがひどい。要するに、私はミャンマーで「安貧楽道」を学び、「仏七」(注)に参加したとも言える。(注)仏七‥お寺で七日間の法会に参加する活動。
(慈済月刊六二九期より)
NO.270