慈濟傳播人文志業基金會
慈済が種籾配付
ミャンマーの農家四万世帯が農耕を再開
 
 ミャンマーの農民は代々、借金して作付を行い、収穫後返済する生活を強いられている。そこへ異常気象による災害が重なり、稲作農家でさえ食べる米がないのだ。
 
 ミャンマーは世界の米どころの一つであり、もし農民が耕作を放棄すれば、長期的に世界の食糧供給に影響する。
 
 慈済は被災した農民が農耕を再開できるよう厳選した種籾を配布した。収穫後は「翌春の種籾」として保存され、人々に米が残ることを期待した。
 
●車窓の外は見渡す限りの田園だが、乾季で辺り一面黄土が続く。車の窓ガラスにはミャンマーの地図が描かれていた。ミャンマーは2018年に大水害が発生、ヤンゴン省、バゴー省、モン州、カイン州が大きな被害を受けた。慈済は今年2月中旬から4万7千世帯余りの農家に種籾の配付し、8万ヘクタールの農地が恩恵を受けた。
●ミャンマーのカコロン州にあるこの寺院では、慈済が準備した種籾が仏塔の周囲一杯に積まれていた。これらは4万世帯の農民を対象に、台湾、ミャンマー、マレーシアのボランティア400名が力を合わせ、クラウド技術を応用した配付システムを使い、現地政府のサポートを得て10日間で配付を終えた。
 
「慈済は最高の種籾を配布してくれました。何だか夢を見ているようです」。バゴー地区キョクタカー村のウスーリンミント村長は、八畝の田が去年の夏の水害で冠水し、収穫がなかった上に、種籾を買った借金も返済しなければならず、大きなプレッシャーが掛かってどうしようもなかった時に慈済が配付に来てくれ、初めは半信半疑だった。「多くの慈善団体から種籾を寄付するという話がありましたが、その後なしのつぶてでしたから…」。
 
これは決して夢ではなく、仏教大国で実際に起きた感動的な物語なのである。物語はエーヤワディー河畔から始まる。
 

始まりはサイクロン・ナルギス

 
ミャンマーといえば、ミャンマー玉が頭に浮かび、華人に人気のコレクションである翡翠の他、全国各地に見られる黄金に輝く仏塔も有名だ。この仏教国家は三方を山に囲まれ、北から南にエーヤワディー川が流れている。その流域面積は国土の三分の一を占め、楽観的でつつましい善良な国民が暮らし、特殊な地理環境により資源が豊富で、現在米の輸出は世界ランキングで十位以内に入る。
 
しかし自然現象は無情で、毎年二月から五月の期間は、灼熱の太陽が容赦なく照りつけ、続いて季節風による暴風雨が襲い、河川の氾濫が毎年繰り返される。
 
二十世紀以降、工業が急速に発展し、人類の物質に対する欲望はますます強まり、森林が過剰に伐採され水保全機能が低下したことで、洪水が起こりやすくなった。二○○八年五月二日、サイクロン・ナルギスが三・六メートルの高波を伴ってミャンマーを襲い、世界の米どころの一つであるエーヤワディー川三角州が氾濫、付近の水田が河に飲み込まれた。
 
農地が水没したことで、農民は収穫がなくなり、生活は困窮した。被災者は十万人を越え、世界を震撼させた。
 
ミャンマー軍事政権は当初、海外からの援助を拒否しており、一週間後の五月八日、最初の国連物資の搬入がようやく許可された。五月十日、慈済基金会は入国を許された最初の非政府組織として、マレーシア、タイのボランティアからなる災害現地調査グループを現地に派遣した。こうして慈済のミャンマーにおける慈善の門が開かれた。
 

ミャンマー水害 慈済援助記録

 
2018年7~8月
連続豪雨により中南部の10以上の行政区域が被害を受け、34万人が被災した。水が引かず、11月に収穫予定だった作物がほぼ全滅した。
 
2018年9月
農業部の職員が慈済に援助を求め、ミャンマー、マレーシア、台湾のボランティアがヤンゴン地方域、バゴー地方域、モン州、カレン州等の被災地を調査、農民は種籾を購入するため政府や企業から借金し、収穫がないと、種籾や肥料を購入するための債務を返済できず、返済できない場合、田圃を没収されることもあることが分かった。
 
2018年10、11月
水害後、農業再開の時期を逸したため、慈済は緑豆の種を寄付した。植え付け後、翌年の2月か3月には収穫でき、農民の一時的な欠乏を補うことができる。
 
2019年2月16~25日
ヤンゴン地方域、バゴー地方域、モン州、カレン州の13の村に種籾203,595籠(約4,294トン)を配布する計画を立案、恩恵を受ける農地面積は203,595エーカー(約82,392ヘクタール)、恩恵を受ける農民は47,690世帯。
 
ボランティアが10日で配布を行い、43,550世帯が受け取り、残りの一割の世帯に対しては現地ボランティアが引き続き配布した。5月末から6月初めの雨季後に植え付けを開始し、145日後に収穫できる。
 

都市と農村の経済発展格差

 
二○一一年、ミャンマー政府は五千万以上の人口を擁する同国市場への外資受入を開始し、この新興市場に中国、日本、韓国が相次いで投資を開始した。ミャンマー当局は開発路線を邁進し、二○一一年に七百米ドルだった国民の平均所得は、二○一七年には千二百米ドル超にまで増加し、週刊新聞『エコノミスト』で世界の経済成長率ランキングのトップと評されたこともある。
 
ヤンゴンは最初に開放政策の恩恵を受けた都市であり、ネオンがきらめき、高層ビルが立ち並ぶなど、現代都市の様相を呈している。一見経済が改善したかに見えるミャンマーだが、ヤンゴンから車で一、二時間の距離にある農村では、様子は全く違っている。
 
「経済は成長していますが、農民の生活は改善されていません。政府の新建設も私たちとは関係がありません。私たちは農耕するだけですから、ヤンゴンで働けと言われても、都会の生活に適応できませんよ」、バゴー地方域ワウ市象村の農民組織の代表で、老村長のウカウニャンはため息混じりにこう話した。
 
農村のインフラは整備されておらず、都市と農村の格差は拡大するばかりだ。水害は農民の苦しい生活をますます追い詰める。二○一八年七月、八月、またも大水害に襲われ、影響は広い範囲に及び、ウカウニャン村長の村も被災した。政府は一時的な支援として、各世帯に十万チャット(約六千五百円)の補助金を給付した。
 
二○一八年九月、台湾、マレーシア、ミャンマーのボランティアが災害現地調査に赴き、農民の大多数が作付のため借金していることが分かった。また田圃を持たない貧農は政府の低利子ローンを申請できず、また高利貸しから借金していたため、収穫により返済するはずだった債務を水害のため返済できず、食べるための米さえない状況にあった。借金を返済し、農業を再開したいと思っていても、種籾を購入する資金がないのである。
 
事態を見過ごせなかった證厳法師は、農民が乾季を乗り切るための緑豆の種を配付するようボランティアに指示した。災害現地調査グループ代表の黄秋良は、「乾季の栽培で経済効果が最も高いのは緑豆です。緑豆の収穫後すぐに稲作を行うことができます。慈悲深い法師は農民の経済と生活が改善するように、二種類の種の配付を指示したのです」と話す。
 
二○一八年十一月十一日から十七日にかけて、ボランティアはヤンゴン(Yangon Region)とバゴー地方域の四つの村で、六百五十三トンの良質な緑豆の種を配付し、一万世帯以上の農民が恩恵を受けた。
 
●慈済が種籾配付のために借りたバゴー地区の寺。1人の出家僧が興味深く覗いていた。
 

緑豆の豊作により苦境が緩和

 
緑豆を二、三月に収穫すると、続いて五月末から六月初めにかけては稲作の準備にとりかかる。慈済人は「よい種籾」を配付したいと願っていたが、買い付けの時、数々の困難にぶつかった。黄秋良は「もともと四社が種籾を慈済に供給してくれることになっていたのですが、為替レートの変動が大きく、二社から断られ、比較的小規模の一社からは米ドルを受け付けないと言われました。最後の一社の代表者ウマウンミンが引き受けてくれ、彼が他の供給業者を探してくれたお陰で、何とか種籾の買い付けができたのです」と話してくれた。
 
慈済人は緑豆の種を買い付けて以来、ウマウンミンと緊密に連携し合うようになり、配付活動にも彼を招待した。彼と家族は慈済人の無私の奉仕に感動し、「あなた方はよく『一家人』を歌っていますね。 『一家人』は単なる比喩だと思っていましたが、あなた方は本当に実践しているのですね」と黄秋良に言った。
 
買い付けの難題が解決すると、次は種籾の品質検査である。慈済は、かつてミャンマーで稲作を行ったことがあり、台湾・北投関渡で五十甲の田圃を耕作する洪再生氏に協力を頼んだ。洪氏は自費でミャンマーまでの航空券を購入して価格と品質の管理をサポートしてくれた。
 
ミャンマーの農業部も非常に協力的だった。バゴー地方域ウォ市の農業部部長ウアウンモエルウィンは、「慈済の提供した種籾の多くは良質なものです。私たちは実験室で品質検査を行い、発芽する種籾を選別し、品質の悪い種籾を淘汰しました。これにより買い付け量の一割が失われましたが、慈済人の熱心さを見てきましたので、私たちはこの費用を喜んで負担します」と話した。
 
一ヶ月かけて四千二百トンの種籾を準備し、二○一九年二月十日から、四つの国と地域から来た慈済ボランティアが、二回に分けてミャンマーで種籾の配付を行った。浸水の痕跡はすでになく、青々とした大地が広がっていた。
 
農民は慈済人を見ると、駆けつけてきてこう報告した。「今年は大豊作でした。一月に大雨が降り、もうダメかと思ったのですが、結果的にその雨は適度に緑豆の田を潤し、豊作になったのです」。
 
ボランティアが緑豆の畑を見に行くと莢がたわわに実っていた。笠をかぶった農民が作物を運ぶ様子は、四、五十年前の台湾の農村風景を思い起こさせた。
 
「緑豆スープで豊作を祝いましょう!」二月二十日、第二陣のボランティアがバゴー地方域に到着し、第一陣との引継ぎを行った。当日の夜には、小さな交流会が開かれ、ミャンマーボランティアが用意してくれた緑豆スープを皆で堪能した。「立派な緑豆だなぁ!」ボランティアたちは我が事のように喜んだ。
 
●種籾の配付のためにやって来た慈済人が、バゴー地方域の農民と共に緑豆を収穫した。この緑豆の種は2018年の水害後、雨季の稲作前の土地を利用し、農民の収入が増えるようにと慈済が農民に寄付したものだ。
●緑豆は通常五月の雨季の稲作開始前に収穫する。収穫後の緑豆は天日に干してから、機械で脱穀する。
●脱穀した緑豆を手にした農民の表情は晴れ晴れとしていた。
 

「翌春の種籾」を残す

 
種籾配付期間はちょうど緑豆の収穫期に当たり、農民たちは大雨と熟しすぎによる損失を恐れて収穫を急いでいた。配付通知書を手に、農民の代わりに検証と受付を行いに来たウォ市の老村長ウカウニャンは、「緑豆一袋は五万チャットで売れます。早く収穫しないと損失が大きくなります」とボランティアに話した。
 
老村長自身も被災者であり、慈済から緑豆の種を受け取っていた。「慈済からもらった豆の種の栽培成功率は過去と比べずっと高く、収穫比も過去より高いのです。以前私は五十籠を収穫していましたが、今回は百二十籠、七十籠も多いんですよ!」
 
ウカウニャンは嬉しそうに笑い、「農民に農耕機を提供してくれるなど、政府も進歩しました。慈済が最良の種籾を配付すると聞き、皆楽しみにしていました。『翌春の種籾』を残しておいて、今後、毎年良質の種籾を蒔き、豊作が続けば生活も改善します」と言った。
 
ボランティアはまた、サポートが必要かどうか判断するため、村長と共に種籾を受け取っていない農民を訪問した。ウォ市貴集村の村民ウミョー一家は二畝の田圃を耕すことで、家族六人の暮らしを支えていた。この二畝の田圃は冠水したが、彼は農業部に被災届けを出しておらず、このため慈済の種籾も受け取ることができなかった。彼は水害後、五分の利息で緑豆の種を買い付け、十四籠を収穫したが、債務と労働者の給与を差し引くと純益は十万チャット(約六千五百円)だと言った。
 
そのお金は一家のこれから二ヶ月分の生活費であるが、彼は街で期間工として働かなければならない。一日の平均給与は男性で七千から八千チャット(五百円から五百六十円)である。これがミャンマーの農民の生活の現実であり、貧困から脱することは容易ではない。
 
ミャンマーの十四の行政区域で、昨年は十以上の区域が災害を受けた。慈済基金会は被災状況の深刻だったヤンゴン地方域、バゴー地方域、モン州、ケイン州の五百以上の村で、十日の間に物資の配付を行った。しかしなおボランティアのサポートの届かない数多くの貧困農村があり、現地の人々が愛の心で助け合う必要がある。
 

善良な風習を発揚

●バゴー地方域のある配付地点で、慈済人と現地の農業局の代表、農民が贈呈セレモニーに参加した。配付地点は多くが寺院で、慈済ボランティアはミャンマーの礼儀作法に従い、靴と靴下を脱ぎ、素足で寺院に入り、敬意を示した。
 
二月二十五日、ボランティアがカイン州フパアンに到着した。ここでは五千世帯以上への物資配付が予定されていた。ここはかつて反軍事政権軍が駐留していたことがあり、民族も複雑な地域である。農業部とボランティアは安全を考慮した後、やはり物資配付に行くことを決定した。
 
瓦素寺は決して広くはなく、農民たちは窮屈そうに床に座っていたが、少しも不機嫌な様子はなく、にこやかだった。農業部担当者ウウィンナイグウは、挨拶の中で、「交通の不便なこの地に慈済人は来てくださいました。困難な時期に慈済と出会えたことは幸運です。しかも彼らは配付したら帰るというのではなく、これからもずっと私たちを気遣ってくれるのです」と述べた。
 
寺院は五百人収容できたが、ボランティアたちは境内の木の下に物資配給地点を設けた。ミャンマー人ボランティア・ソエティンザルウィンが農民たちにミャンマー語で慈済と慈済の「竹筒歳月」の謂れ、またミャンマーでの「貯米箱」運動について紹介した。
 
感銘を受けたウスーウィンクヤイン村長はマイクを取ると、「慈済人は仏法をミャンマーにもたらしてくれました。毎食少しの米を寄付すれば人助けできるのです」と話した。
 
ミャンマーの農民は善良且つ温和である。また日頃からお金や米を貯めて出家者を供養している。投資先を中国からミャンマーに変えた台湾の慈済ボランティアで実業家の郭敏姿は、「毎日米を貯める風習はミャンマーには昔からあります」と言う。老村長ウカウニヤンも、「ミャンマー人は善行や施しを行うのが好きです。しかし大部分の人は僧侶を供養したり、仏塔の建設に寄付したりすることだけが功徳を積むことだと思っています。だからバスで妊婦に出会っても席を譲りませんが、出家者を見るとすぐに譲るのです。今、村民たちは慈済の影響を受け、牛乳瓶に米や千チャット(約六十五円)を貯め、村で困っている人を助けるようになりました」と話す。
 
物資配付前、慈済チームは農村で農民の声に耳を傾けた。今回約束どおり配付に来てくれたことに村民は感激し、続々と「貯米」を始めた。慈済が四万七千世帯以上の農民にもたらしたのは豊作の希望だけではなく、「善の効果」だったのである。
 
●配付セレモニー終了後、慈済人がミャンマー語・中国語2ヶ国語版の静思語を農民にプレゼントした。多くの農民が家で毎日読んでいる。
 

「貯米箱」とは?

二○○八年、ミャンマーのサイクロン・ナルギス災害後、慈済は救援活動を開始し、次いで種籾を配付して農業の再開を支援した。慈済の「竹筒歳月」の謂れは村民に感銘を与え、農民の烏閔寿が毎日米を貯めるようになり、タンリン郡区の烏丁屯は農薬を使わない農業を始めた。彼は慈済に感謝し、朝晩米を貯めるようになり、次いで烏善丁が各村で「貯米箱」運動を起こした。
 
善行はまた台湾に還流し、證厳法師は全世界の慈済人にミャンマーの貧しい農民たちの善行に倣うよう呼びかけた。こうして慈済の世界では「腹八分目、二分は人助け」という運動がミャンマーから台湾に還流し、全世界に広がった。
(整理・張麗雲)
(慈済月刊六二九期より)
NO.270