慈濟傳播人文志業基金會
この道一筋三十年 宋美智
誰も私たちがボランティアになることを強いた
わけではありません。ただ生きているうちに、
因縁を大事にしなければならないとの思いで、
心安らかに、人生の最期までボランティアに尽
くせれば幸せだと思うだけです。
 
(撮影・顔霖沼)
 
一九八二年のある日、台東県のある手芸店でボタンを買っていた時、慈済ボランティアの龔梅花さんがある人に慈済を紹介していたところに出会いました。私は彼女の話を聞き終わってから、慈済の会員になれるかどうかを尋ねました。その日から私は淨財を寄付するようになりました。
 
私の夫、余輝雄は「土地銀行」の台東支店に勤務し、一家七人を養っていました。義母は健康状態が悪く、しばしば喘息の発作を起こしましたが、注射すると次第によくなりました。医療費が高価なため、我が家は病のために貧困になるケースと言えました。
私は「一生このように貧乏なのだろうか?」と思ったことがあります。一九八○年から牛乳配達を始めました。朝四時過ぎに自転車で喫茶店や会社、駅などをめぐって届けました。初めのころは牛乳一本の配達料は五十銭でしたが、その後一元(約三円)になりました。
 
牛乳配達の仕事は二十年間続けましたが、牛乳を新鮮なうちに届けたくて、配達の途中で麺類やおやつなどを食べたことはありません。また、雨の日が嫌で、冬はともかく夏場はレインコートがとても蒸し暑く、服がびしょ濡れになったのです。でも、牛乳配達をしたことは家計の改善につながりました。
 
●1980年代、余輝雄と宋美智夫婦は台東に移住し、余輝雄は「土地銀行」に勤め、宋美智はパートで牛乳配達をしたことで、家計は次第に改善された。
 
慈済の会員になってからは、ボランティアの黄玉女さんと花蓮の静思精舎に行って「仏七」(注)に参加し、證厳法師のお諭しに心を動かされ、なんて智慧のある師匠なのだろうと感銘を受けました。仏七が終わってから私は法師に帰依しました。台東に帰る途中、「これからは法師について慈済の志業をしよう」と心に決めました。また、「牛乳配達先のお得意さんに慈済の会員になってくれるようお願いしよう」と願をかけました。
 
私は「慈済では愛のある人や裕福な人が弱者を支援しているから、私も参加することにしました」と夫に説明し、彼が賛成してくれたことに感謝しました。「いいね!もし募金集めが困難だったら、僕が手伝うよ」と言ってくれました。私は人名は書けても、お金の勘定ができませんから募金に行く時は必ず夫を連れて出かけました。彼の助けがなければできなかったのです。
 
私たちは王添丁校長について、ある日、台東県太麻里郷三和村にケア世帯を訪問しました。対象者は学校に行ったことがなく、長期労働者として働いていましたが、歳と共に目が見えなくなったため、雇い主の奥さんは彼を山の上にある、水道も電気もない道具小屋に住まわせ、慈済の支援を仰ぎました。毎月の生活補助金や物資は雇い主の奥さんに代理で受け取って小屋に届けてもらいました。
 
ある日、私たちが小屋を訪ねて話を聞いたら、米だけはもらっていたが、お金はもらったことがないと言われたのです。そのことがあってから、夫の余輝雄は「訪問ケアのために車を買おう」と決心しました。毎月、生活補助金を直接ケア対象者に届けることで、慈善行為をより完璧なものにしたかったのです。
 
その車は夫の給料の五カ月分に相当し、息子は私に「よくそんな大金を出してお父さんに車を買わせたね」とあきれていましたが、私はケア対象者がもっと気の毒でなりませんでした。
 
訪問ケアチームは皆、時間がある限り、歐順興先生と陳勝豐師兄、そして私たちの車でその人を訪ねて世話しました。以前は訪問地域を分けていませんでしたが、ボランティアの増加につれ、手分けして訪問するようになりました。私たちの担当地域は卑南郷の太平村と泰安村で、今でも続けています。
 
どんなに頑張っても気落ちする時があります。たとえば、一九九一年、慈済が中国の華東水害を支援し、大愛村を建設しようとした時、数多くの会員から不満の声が上がりました、「台湾を助けず、中国を助けるとは…」実際は、台湾でもケア対象者の必要と不足に合わせて、家の建て替えや家具の補充、周囲の掃除などずっと行っていました。私たちも経済面に余裕がある方ではなく、客家族出身の私は伝統的なお餅や粽を作ってチャリティーバザーに出し、そこで得たお金を慈善活動に充てました。
 
●初期の大規模災害支援募金活動で、宋美智(写真中央)は台東のボランティアたちと海岸で拾ってきた石に静思語を書いて募金集めをした。
 
今までの人生で、私たちはめったに旅行に出掛けることはありませんでした。誰も私たちにボランティア活動を強いたわけではなく、ただこの縁を大切にしたいという思いで、心安らかに、人生の最期までボランティアができれば幸せだと思っているのです。
 
以前、「菩薩、人間に遊ぶ」という言葉の意味が分かりませんでしたが、訪問ケアに参加してから理解するようになりました。人生を速く過ごす人もいれば、ゆっくり過ごす人もいて、遊んでいるように見えるからです。あまり固くならず、気楽になればいいのです。
 
夫の余輝雄は二○一七年に肺がんを患い、翌年に亡くなりました。私は夫に、「今生ですべきことを全てやり遂げたのですから、安心してください。子どもたちも親孝行ですから、気に掛けることは何もありません」と言いました。いつか私の番が来るのです。体を動かし、話せる間は、ボランティアをし続け、悔いのないようにしたいと思います。(資料提供・陳芝安、林厚成、陳若儀、高芳英)
(慈済月刊六三一期より)
NO.272