慈濟傳播人文志業基金會
台東初めての慈済ボランティア 黃玉女
私の一生は比較的順調でしたが、
心の苦しみや試練はありました。
慈済が私と家族を救ってくれたことに
感恩しています。
 
(撮影・顔霖沼)
 
私は一九二八年、台北の石碇に生まれました。四歳の時、私は叔父の養女となり、六亀に引っ越した後、台東に定住しました。十七歳の時に台東公立学校の教師になり、一九八二年に定年退職するまで三十八年間、教育の現場に立っていました。私の主人である王添丁校長は四十八年間教職を勤め上げました。
 
以前、證厳法師は台東に来る前には必ず王校長に連絡しました。そして、私と静豪師姐が家の掃除やシーツの洗濯、布団干しなどをして、法師が宿泊する環境を整えました。
 
一九六一年、私は台東仏教蓮社で初めて法師にお会いましたが、当時、法師はまだ出家していなかったため、その後、連絡が途絶えました。十年後、花蓮の李時師姐の紹介で、ある法師が善行していると聞いて、募金集めを手伝いました。しかし、募金帖をもらっても誰を勧誘したらいいのか分からず、毎日、学校に持って行ってはまた、持って帰りました。
 
ある日、王校長に「ボーイスカウトのように一日一善、有意義なことをしましょう」と私は言いました。彼は大いに賛同してくれたので、各自の学校から始めることにしました。教師たちに会員になってもらい、そうやって少しずつ慈済を盛り上げて行きました。
 
数カ月後、私は花蓮に行って、その法師がどんな方か見てくるべきだと思いました。静思精舎に行って見ると、皆は忙しくしており、證厳法師は畑にいると言われたので空き地に行くと、一人の法師が編笠をかぶって、手に持った長い棒で大豆を叩いていました。私が近づくと,法師は編笠を取ったので、私は一目で證厳法師だと分かりました。
 

法師がいてくれてよかった

 
證厳法師が慈善事業をするにあたって最初にお金を費やしたのは花蓮で、その後が台東でした。台東に於ける慈済の最初のケースは呉発という人で、彼は両目が見えず、海辺の墓地に住んでいました。私は法師について彼を訪ねたことがあり、その時はもう夕方近くなっていましたが屋内に電気は点いておらず、内心とても怖かったのです。「誰かいますか?」と法師が尋ねました。呉爺さんは屋内から返事し、ドアを開けてくれました。彼はトマトを食べたばかりなのか、口が真っ赤だったので、皆、びっくりしました。
 
法師は彼の目の治療のために台中市沙鹿区で検査が受けられるよう取り図いました。呉爺さんは希望に満ちていた、と徳慈師匠が言ったことを覚えています。彼は、「この法師はこんなにも優しく、私が見えるようになるよう、治療を取り計らってくださった」と思いました。彼は精一杯目を大きく見開いて検査を受けました。その時に希望が見えたかのようでした。
 
しかし、長い間、視力を失っていたため、手術をしても視力は取り戻せないと医師は診断しました。私はそれを聞いて悲しくなり、涙を流しました。彼の人生は真っ暗でしたが、幸いにもこの身寄りのないお年寄りには法師の寄り添いがありました。
 
そして、目の治療はできなくても、せめて生活を改善できるよう、慈済にお金はなくても、方法を考えました。呉爺さんは台東における最初の慈善ケースであるだけでなく、医療ケースでもありました。私はこの経験から法師の慈善事業が徹底したものであることを理解しました。
 

見えれば、行動に移すことができる

 
慈済に参加し始めた頃から、向いに住んでいた静豪師姐を家庭訪問に誘っていました。そして、だんだん彼女の主人も参加するようになりました。台東での冬季の物資配付は近所の欧順興先生宅の側の空き地を借りて行われました。
 
四十数年前、私はあまり個別案件のケアができず、法師に手紙で状況を説明しました。法師は私の手紙を受け取ると直ぐに台東まで来られ、私たちは法師と一緒に家庭訪問しました。
 
法師は私たちに案件の査定方法を教えてくれました。先ず、政府の援助があるかどうか、なければ慈済がいくら援助すれば生計が成り立つのかを判断します。後で訪問内容を記録に残し、毎月花蓮に帰って報告しました。やがて少しずつ援助の基準と原則が分かるようになりました。
私は法師と一緒に慈済の仕事をしていたため、法師の苦労がよく分かりました。体が弱く、心配事が多かったのです。それが分かって心を打たれたが故に、真剣になったのです。
 
当時、台東のボランティアは大武、池上、長浜などにわたって四、五百件のケースを抱えていました。何回かに分けて訪問し終わるのに、大体ひと月掛かりました。訪問する時は、一番遠い所から始めました。そうすれば、翌日は遠くまで行かなくても済むのです。
 
王校長はスクーターに乗って訪問しており、当時としては最高の交通手段でした。その後、働き盛りのボランティアが増え、訪問するのが週末や休日になり、何台もの車で行くようになりました。
 
慈済は毎月、花蓮で全台湾委員懇親会を開いており、行くと必ず、尼僧たちが昼間は持ち場の仕事をこなし、夜には基金会の事務や家庭訪問の記録を書き写したりしていたのを目にしました。皆、その精神を見習って、どうやって善行して、それを人に話すかを学びました。そうやって委員が増えていったのです。
 
范春梅師姐は花蓮慈済病院が開業した年に参加したボランティアです。彼女は訪問記録を詳細に書き、募金の勧誘にも精を出していただけでなく、毎月観光バス二、三台分の会員を花蓮静思静舎に案内し、慈済の活動に参加させていました。
 
「慈済がしていることを自分の目で見てきたので、慈済に参加するようになったのです。他の人も自分のように積極的に人を誘うことを望んでいます」と彼女が言いました。今、私は年をとり、体も弱くなりましたが、幸いに、若い人たちが出てきてくれました。
 
●王添丁、黄玉女夫婦と次男の王壽榮、厳玉真夫婦は台東と嘉義で慈済の慈善事業の歴史を作った。
(撮影・阮義忠)

持続するのは難しくない

 
私と校長は、校務や授業で忙しい上に、慈済の任務やあれだけの数の家庭訪問をどうやって続けていたのですかとよく聞かれます。堅持するのはとても簡単でした。それがとても有意義なことだったので、自ずと堅持できたのです。
 
王校長は皆を連れて家庭訪問した時、いつも皆にご馳走しました。「メシに行こう!」と言って、レストランやラーメン屋でもてなしました。しかし、大半の場合は、法師が私たちを連れて家庭訪問する時のように、途中で場所を見つけて、木陰、海辺、東屋で食事を済ませました。
 
ある日、訪問の途中で大雨が降り出したので、皆が帰ろうと言い出しました。「ダメだ!雨風に負けてはいけない」と校長は言いました。校長は元々教育に携わる人だったため、慎重且つ正確に案件を進め、最初から最後まで質疑応答の内容を全て記録していました。前後して五百件ほどもあるのですが、全て記録が残っています。
 
台東にはお年寄りの案件がとても多く、「実情を詳細に聞いて、注意深く立案するのです」と校長はいつも口にしていました。それはいい加減に立案してから二、三カ月で終わらせてはならないということです。もし、支援しなくてもいいようになった案件でもよく考え、終わらせる原因や理由が明確且つ正確でなければならないのです。
 
訪問先に到着すると、大部分の人は王校長に続いて中に入り、残りの人は隣近所から話を聞きました。そうすれば後で話を突合せた時に実情がすべて把握できたからです。しかし、二〇〇〇年ごろから隣近所に話しを聞くことが逆に疎まれるようになり、そのやり方が通用しなくなりました。
 
私たちは訪問先の食卓を覘いたり米びつを開けたりしましたが、それは食事の良し悪しを調べるのではなく、食糧が足りているか否かを知りたかったのです。校長は「あなたの月給はいくらですか?どうして低所得者世帯として申請していないのですか?」とストレートに聞くことはありません。彼の聴き方は優しく、相手の心が固くならないようにし、世間話をしながら相手から実情とニーズを聞き出す一番良い方法を取っていました。
 
王校長が定年退職した後、一九九一年頃になると、私たちも年を取ってきたため、手元の案件を若手に引き継いでもらいました。校長が皆に教えたことはとても多く、またボランティアから質問を受けると直ぐに答えてアドバイスしました。例えば、鄭怡慧師姐は訪問記録を書いている途中、続きが分からなくなると、すぐ自転車に乗って、角を曲がった所にある我が家に来ていましたが、校長はあらゆる質問に答えていました。
 
私の人生は順調だったとはいえ、人生の苦しみや鍛錬も少なからずありました。慈済が私と家族を救ってくれたことに感謝しています。王校長は私と一緒に慈済に参加し、私以上に慈善に投入していたので、彼からとても多くのことを学ぶことができました。
 
私は現在九十歳を過ぎ、数年前に転んでから、体力が弱まりました。幸いにして、子供たちが慈済の志業を受け継ぎバトンを受け取ってくれました。息子の壽栄は嘉義で最初の慈済委員となり、嘉義地区だけでなく、雲林も世話していました。慈善活動の後継者が出来て、私の願いは叶いました。(注‥王添丁校長は二〇一七年、亨年九十五才で他界しました)
(資料提供・江淑怡、林厚成、陳若儀)
(慈済月刊六三一期より)
NO.272