慈濟傳播人文志業基金會
台東慈済の半世紀を遡る

山と海に囲まれた土地で

1980年代の慈済による台東訪問の路線図。経験豊富な訪問ボランティア、鄭怡慧の手書きによるもの。当時はすべての訪問活動を終えるのに1カ月を要した。
 
台東では初期の頃、證厳法師が自ら先頭に立って慈善訪問に赴いた。一九七三年、台風十五号(アジア名‥Nora)が花東地区を襲い、台東に甚大な被害をもたらしたとき、慈済人は力の限り支援活動を行った。
 
その後の慈善活動の多くは、王添丁校長とその妻黄玉女が中心となり、余輝雄、宋美智、范春梅らとともに、山を越え、海を渡り、各地の貧しい人々を訪ねた。
 
慈善の足取りは、社会の片隅にまで深く歩み入り、生活に苦しむ人々に寄り添い、その心に暖かい光を灯した。
 

台風十五号による台東の大災害

 
●1973年10月9日、台風15号の外縁の気流が豪雨を降らせ、花蓮の玉里から台東の大武にかけて深刻な災害をもたらした。知本渓付近の温泉宿(下図)、台9線賓朗橋(左図)も大雨に続く土石流に流された。当時、花蓮と台東を結ぶ橋の多くは鉄道と道路を併用しており、災害により橋が断裂すると、鉄道と道路が同時に中断され、迅速な救助活動を展開することが困難となった。(写真提供・農委会水保局第五工程所)
 

復旧支援における方法の確立

●1973年11月4日、證厳法師と慈済委員、そして慈済貧民施療所の医療ボランティア達50余人の一行は鉄道で南下し、玉里で救済物資の配付と施療を行った。百世帯にのぼる被災者に対し、家屋の毀損程度や家族の人数に応じて支援活動をおこなった。支援の過程では「直接、重点、尊重」の原則と「視察、記録、募金、配付」の流れが確立され、この方法はのちの災害支援活動の拠り所ともなった。
(図・花蓮本部提供) 

一九六〇~七〇年代の台湾社会は普遍的に貧しかった。毎年立冬の頃になると、政府や民間慈善団体が冬季救済活動を行い、人々に思いやりと助け合いを呼びかけた。慈済功徳会は一九六九年初頭より冬季配付活動を始めが、いつも年越しの数ヶ月前になると、慈済委員達は長期ケア世帯の調査や、配付品の買い付け、包装などの作業で大忙しであった。
 
一九七三年、證厳法師と委員たちは例年より一カ月早く奔走しはじめた。冬季配付のためではなく、台風十五号のもたらした甚大な被害に対する支援活動に着手するためだった。
 
十月八日早朝五時、中央気象局が台風十五号の大雨特別警報を発令した。その翌日、台風は台湾西南の海上を通過し、金門島を通り抜けて中国大陸へ到達した。台風は台湾を直撃することはなかったが、しかし三日連続の豪雨が、花蓮県玉里以南、台東大武にかけて、総計で死者・行方不明者六十八名、負傷者八十五名、家屋全壊千二百五十一棟、半壊四百三十三棟という、深刻な被害をもたらした。
 
なかでも、台東県卑南郷の新斑鳩渓が氾濫して上流の天然ダムが決壊したことで、大規模な土石流が発生し、堤防の決壊や橋の断裂で民家が押し潰され、美農村では二十人余が死亡した。台東史上最も深刻な災害であり、県内では二万六千人にものぼる人々が被災した。
 

幸福にある人は、不幸にある人を憐れむべし

 
花蓮から台東までの道のりは、十数本もの河川を渡らなければならないが、橋の多くが鉄道と道路を併用していたため、災害により橋が断裂すると、鉄道と道路が同時に不通になり、直ちに救援を行うことができなくなった。災害発生後十日、證厳法師は委員懇親会の席で心を痛めておっしゃった。「交通は途絶え、連絡も絶たれ、災害の詳細は量りかねますが、恐ろしい状況であることは間違いありません!幸い花蓮は平安無事でしたが、幸福にある人は、不幸にある人を憐れむべきです。準備を整え、道路が復旧したら直ちに視察を行い、支援活動を展開しましょう!」
 
災害発生から半月後、損壊していた橋がついに開通した。十月二十四日、證厳法師と花蓮委員会から多くのボランティアが玉里に赴き、現地の委員の付き添いのもと、被災地の視察を行った。住民の多くは「八七水害(一九五九年八月七日、台湾中南部で発生した大規模水害)」の被災者で、台湾中部から中央山脈を越えて東部に移住し、この地で新たに生活を始めた人々であった。まさかその十四年後にまたも水害に襲われるとは思ってもなく、ショックのあまり、病気で立ち上がれなくなった人や、喪失の大きさに耐えきれず精神に異常をきたす人もおり、心が痛む状況だった。證厳法師は被災世帯を一軒一軒慰問し、村長に記録を依頼した。
 
法師は花蓮に戻ると、花蓮の委員二十余名全員を集めて会議を開き、「このたびの被災地域は広く、被災者の数も多く、功徳会だけでは負担しきれません。委員の皆さんが災害支援チームを結成し、全力で募金集めにあたって下さる事を期待します!」と言われた。
 
会議書記を担当した江木火は、三十一号委員である邱蘭嬌の夫であり、花蓮合作金庫のマネジャーでもあったが、證厳法師が大まかに見積もった台風十五号に関する支援の必要経費が台湾ドル六十万元であることを聞くと、手に持っていたペンを下ろし、傍にいた徳融師父に心配そうに尋ねた。「そんな大金を、一体どこから集めればよいのでしょう」
 
年初に顧問として招聘されたばかりの江木火の心配は、けっして杞憂ではなかった。もうすぐ年末の冬季配付も始まるというのに、功徳会慈善基金は二十万元余りしかなかったからだ。
 
證厳法師は、年内に配付を完了することを望んでおられた。年末まであと一カ月余り、「できるだろうか」と心配したのは彼だけでなく、その場にいる全ての委員達も同様であった。だが、證厳法師は被災地の人々が助けを必要としていることだけを一心に想い、困難にとらわれることはなかった。
 
冬季配付への影響を避けるため、證厳法師は重要な決定をおこなった。災害支援の「専用口座」を設け、台風十五号用に集めた寄付金を全額、台風被災者の支援に充てることにしたのである。この「専用口座」を作るという方法は、のちに慈済が大型急難支援をするときの通則となった。
 

実態のある支援を届けることが、

支援者の善意に報いること

 
「お金が無いからといって、見過ごすことはできません!」證厳法師の言葉は、東部の委員達の心を動かした。皆が全身全霊で、募金活動をすすめた。短期間で六十万元もの救済資金を集めることは容易ではなかったが、災害支援は迅速さが命であり、證厳法師は募金活動を台湾西部まで広げる必要があると考えた。
 
台北の委員は台風十五号への救済募金の話を聞くと、「新聞で報道されていないので、西部で台東の災害状況を知る人はいません。募金は難しいです」と證厳法師に伝えた。證厳法師は大衆に善行を呼びかけるため、台風十五号の災害状況や慈済の支援計画を一字一句鋼板に刻んで赤い紙に印刷すると、台湾全土四千余名の会員へ送った。
 
台湾全土から古着が次々と届いた。その一着一着に、寄贈者の思いやりがこめられていたが、社会はまだ貧困で、衣服には何度も補修を重ねた跡や、ボタンが取れたもの、ファスナーが壊れたもの、きれいに洗濯されていないものも多かった。證厳法師は、その一つ一つを点検するようにと委員達に注意深く指示された。汚れた衣服は洗濯し、破れたところは補修し、破損がひどいものは破棄し、きれいに整理した後、性別と年齢層に分け、アイロンをかけ、きれいに畳んだものを被災者に届けるようにという丁寧さだった。
 
多くの人々の思いやりが結集して、救援活動は迅速に展開することができた。十一月四日早朝六時、證厳法師と委員、そして慈済貧民施療所の医療ボランティア達の一行は五十名余り、鉄道で南下し、玉里にて配付と施療をおこなった。家屋が全壊または半壊した百戸余りの被災世帯に対し、五百元から二百元の救済金を配付し、また各家庭の人数に応じて慰問金を追加した。総計で七万千三百四十元、掛け布団百枚、衣服一千着を寄贈した。
 
玉里の災害支援は円満に終わったが、その次にはさらに深刻な被害に見舞われ二万人余りが被災した台東への支援が待っていた。證厳法師は考えた。被災地は広大で被災者も多数にのぼる。どうすれば一番助けを必要とする人々に、本当の支援を届けることができるだろうか?
 
「災害支援金は人々の心血が集まったものです。すべての家庭に配付しても、それぞれが受け取るのがスズメの涙ほどでは救済効果は薄くなってしまいます。使い方が適切ではなければ災害救済の意義が失われるだけでなく、募金者の善意にも申し訳が立ちません。『実態のある支援を届けることが、支援者の善意に報いること』だと良く考えて、これを成し遂げなければなりません」。
 
證厳法師は「重点」の原則を採用することにした。助けを一番必要としている人、すなわち自力での復興がかなわない貧困家庭を救うことにしたのである。そして委員達に向かって、「一軒一軒を尋ね、家庭背景や家族構成、生活状況をよく調べてください。初期調査後に再度二次調査をして書類を作成するのです。それがこれからどのように援助を進めるかを判断する根拠となります。『重点的に直接』を心掛けて災害救済を行いましょう」とおっしゃった。
 
台東から花蓮までの距離は約二百キロあり、普通のディーゼル列車では五時間余りもかかる。道のりはかくも長いが、十二月五日、台東行きの道路がなんとか開通すると證厳法師はすぐに委員を率いて南下し、数日にわたる家庭訪問をして調査を進めた。
台東温泉小学校の王添丁校長(法号‥思安、第五十七号委員)とその妻黄玉女(法号‥静観、第四十六号委員)は、功徳会に加入して僅か一年余りであったが、證厳法師が到着する前にすでに初期調査を終え、一万人近い被災者の中から六千名余りの生活困難者を見つけ出していた。おかげで花蓮の委員達は、慣れない土地で一から手探りすることなく、すでに選ばれたケースを再調査する形で進めることができた。
 
●1981年台東慈済冬季配付活動。長期ケア世帯に生活補助金の受領を案内する王添丁校長(中)。
 

視察、記録、募金、配付

 
新しい掛け布団ときれいに畳まれた古着が貨物列車十五輛一杯に積まれて花蓮から台東まで運ばれ、その後トラックで輸送された。車体には「慈済台東災害救援品」の旗がかけられ、警察と住民の協力の下、次々と被災地に到着した。物資が届くと、證厳法師と委員達は南へ向けて出発し、十二月二十五日、二十六日に介寿堂を借りて配付活動を行った。
 
これは慈済功徳会の設立七年以来、最大の災害支援活動であり、活動範囲は台東池上、鹿野、卑南、太麻里、東河、関山などの村落にまで及んだ。家屋損壊の程度や家庭の人数に応じて、合計で五百五十四世帯、二千六百三十一人を支援、現地で配付と施療を行った。遠隔地からの往来が難しいことを考え、金崙、太麻里などへは専用車で被災者を送迎した。また関山、月眉、鹿野などの地区の被災者には、交通費を支給することにした。
 
台風十五号の被害において、慈済は花蓮の玉里から台東まで六百七十一世帯に対して、掛け布団五百枚余りを配付し、総額六十万元余りを支出した。その行為は、地方政府の長からも「雪中に炭を送る」行為として称えられた。
 
台風十五号の災害支援における、「直接、重点、尊重」の原則と、「視察、記録、募金、配付」の流れは、のちに慈済が国内外で大型の災害支援を発起する際にも、その拠り所とされる方法となった。
 
台東地域は広くて山と河が多く、現地の人々の案内がなければ各地を訪ねることは難しい。災害支援活動のなかで、證厳法師がもっとも懐かしく思い出すのは、王添丁校長とその妻黄玉女教師であった。
 
王校長の妻黄玉女は、それより早く十二年前に證厳法師と出会っていたが、それは不思議な縁であった。時間は一九六一年に遡る。
 
修道法師と静思と名乗るおさげ髪の正学女(出家者として修行に励む人)が、弘法のため台東の仏教蓮社を訪れていた。修道法師の講義中、静思は傍で法師を助け、また時々壇上に上っては法師のかわりに仏教の故事を語っていた。小学校の教師であった黄玉女は、しばしば蓮社に来て経を聞き、のちに修道法師に師事した。しかし残念なことに、修道法師と静思は蓮社に一年余滞在した後そこを離れたため、その後、黄玉女は彼女らの消息を聞くことは無かった。
 
花蓮で文房具店を経営していた慈済委員の李時(法号‥静恒)が台東に出張した時、旧知の仲である黄玉女に慈済委員になるよう勧めた。黄玉女はその場で承諾し、数ヵ月後には募金活動を手伝い始めた。のちに自ら静思精舎を訪ねた時、ようやく功徳会の創始者が證厳法師、つまりあの時の静思であることを知ったのである!
 
夫の王添丁は彼女の慈済への献身を大いに支持し、夫婦そろって校内の同僚から募金を開始した。また、学校にも助けを必要とする子供達がいることを知り、功徳会に報告して支援の判断を仰いだ。
 
これらの救済案はいずれも、さらなる調査や深い関わりが必要となるものであり、王校長夫婦は学校での功徳会の代表を務めていた。そして、一九七二年三月より、彼らは台東慈済委員として、現地で貧困や病、孤独に苦しむ人々に寄り添った。
 

墓地の傍に住む盲目の老人

 
それより早く、功徳会が成立して一年余りの頃、長期支援の対象となる貧困家庭はすでに台東まで広がっていた。
 
六十五歳の呉発(走へんに若、発音・ノウ)おじいさんは、台東第一公共墓地にある茅葺きの家に長年住んでいた。体力が衰えていなかった頃は、お墓の隣に野菜を植えたり、墓地へお参りに来た住民が置いていった食べ物などで、なんとか飢えをしのいでいた。だが、年をとるにつれて体が弱り、視力も落ちてほぼ全盲となり、生計を立てることが難しくなった。
 
一九六八年一月、證厳法師は「更生報」で老人の境遇を知ると、すぐに三百元を用意して出版社経由で送り届け、また三月二十三日、老人を訪ねるため列車で南下した。五時間もの長い道のりを経てようやく、海辺に近い墓地の中で、骨と皮ばかりにやせた老人の家を見つけた。
 
證厳法師は老人の手を取ると、二百元の生活費を手渡した。「おじいさん、安心してください。これからは私達が生活の面倒を見ます。目の治療にもお連れします。医療費は私達が負担しますから!」
 
花蓮へ戻ると、證厳法師は老人の治療について尋ねてまわった。十日後には急ぎ台東へ向かうと、自ら老人を連れて台湾を半周し、台中の沙鹿の医者を尋ねた。
 
「先生、まだ見えるようになるでしょうか?手術の可能性はありますか?」證厳法師は期待をこめて聞いた。医師は検査の結果を見て、申し訳なさそうに答えた。「手遅れです!高齢で体も弱く、手術の必要もないでしょう」。
 
證厳法師は失望して彼を台東に送り届けた。立ち去る前に老人に六百元の生活費を手渡し、これからは慈済が毎月三百元の生活補助金を届けますと、慰めた。
 
功徳会が成立して一年余り、経済的に苦しい時期、彼は台東における一人目の長期支援世帯となった。三カ月後、省立台東医院に医療費を支払うことができない貧困者が二人いると聞くと、證厳法師は再度南下し、医療補助を与えた。
 
翌年、一九六九年中秋のころ、台風十一号(アジア名:Elsie)が来襲し、台東の卑南郷大南村が大火にみまわれ、一四八世帯が火の海に飲み込まれた。證厳法師たちは苦労を厭わず何度も往復して災害支援活動を成し遂げた。
 
●1970年代、證厳法師は台東鹿野の長期ケア世帯を尋ね、委員と共に簡素な茅葺きの家を見て、生活状況を理解した。
 

貧困を理解する程、病苦が見えてくる

 
最初の頃、距離と人手不足のため、慈済の台東における活動は小規模に限られていた。慈善活動が大きな一歩を踏み出したのは、王添丁と黄玉女が加わってからのことである。
 
黄玉女は、慈済に加入して一年目の頃、補助の目安がよく分からず、一九七三年三月二十三日、證厳法師に手紙を書いた。
 
お師匠様:
今日午後、空き時間を利用して三名の貧困者を訪ねました。一人は六十七歳で身寄りの無い林おじいさんです。子供は一人いますが三、四年前に家出し、今では音沙汰がありません。障害があり(片手が無い)、肝臓と腎臓を患い、体がひどく浮腫んでいます。医者に連れて行きましたが、お金が無いためか、他の理由があるのか、医者にも治療を拒絶され、病に臥したままです。家の一角を借りて建てられた住まいは足の踏み場が無いほど狭く、そこが生活の全てで、とても可哀想です。
もう一人は呉阿雲さんという四十三歳の男性です。リウマチでもう四ヶ月も床に臥しており、排泄にも介助が必要です。妻は元来仕事に就いていましたが、夫の世話をするため今は外で働くことができません。上は十七歳から一番下が六歳の五人の子供達は、ロータリークラブの貧困者向け住宅に住んでいます。
貧困地区にはもう一人、趙雲鵬さんという人がいます。五十六歳で肝臓病を患い、以前は清覚寺が医療費を負担して省立医院や栄民医院で手術を受けたこともあります。しかし再発後、家が貧しいため病院に行こうとせず、清覚寺の住職が再度病院に連れて行こうとしていますが、治療費が二千元余もするようです。功徳会で医療費の補助としばらくの間生活補助をすることはできないでしょうか?彼は子供が七人おり、十五歳の長子は家が貧しいため休学しています。
貧困地区には他にも多くの可哀想な人々がいますが、私は手紙を書くのが苦手なので、詳しく紹介することができません。お師匠様が台東へ視察に来られ、彼らを温かくお助けくださればと願っております。
 
黄玉女は敬虔な心で、辺境にある交通が不便で開発が遅れている花東縦谷を訪ね歩いた。そこでは若者の多くが生活のために西部へ移り、年寄りたちが残されて孤独に家を守っていた。證厳法師は家出する前に理想的な修行の場所を探して、花東縦谷の奥深い地を歩き、貧困、病、孤独に苦しむ多くの人々を見てきた。黄玉女が手紙で語った情景はまさに、證厳法師が長年気にかけてきたことであった。十日後の四月二日、證厳法師は多くの花蓮の委員を引き連れて、台東を訪問した。
 
視察訪問を経て、五十六歳の趙雲鵬さんには三千元の医療費を負担し、一家九人を長期支援世帯に登録して毎月白米六十九斤(約四十一・四キログラム)を補助することにした。また半身不随の呉阿雲さんも、子供たちが皆、幼いため、長期支援世帯に登録して毎月三百元と白米四十六斤(約二十七・六キログラム)を補助することが決まった。
 
まだまだ助けが必要な人がいるに違いないと、半月後の四月十七日、證厳法師は再度南下し、訪問を続けた。
 
小さく薄暗いあばら家に入ると、強烈な悪臭が鼻を衝いた。七十二歳の先住民、周仁来は両脚が壊死して爛れ、傷口はうじ虫に覆われ、その上にハエが飛び回っていた。委員達の多くは耐え切れず屋外へ飛び出して嘔吐したが、證厳法師はその悪臭が臭っていないかのように、床に近寄り、身を屈めて慰問した。
 
台東にはこのように、長く病に臥しながら、治療を受けることもできない貧困者が数多くいた。證厳法師は彼らを見捨てることができず、施療所の医療ボランティア達を招聘して、この地で施療を行うことを決めた。
 

歳末支援

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●当初台東では、少規模の支援がおこなわれるだけだったが、地元のボランティアが増えたことで、慈善活動は大きく成長した。通常の長期ケアだけでなく、定期的冬季配付を開始した。1979年、現地では長期ケア世帯に生活物資を配布したほか(図1)、施療所(図2)、ボランティアの床屋(図3)を設けた。長期ケア世帯の配布場所への往来のため、ボランティア達が送迎バスを手配した(図4)。

 慈善と医療を一体で進める

 
一九七三年五月六日、慈済施療所の張有傳、張澄温父子、黄博施三名の医師と看護師の林碧芑、鄧淑卿ら、そして王添丁、黄玉女夫婦が合流し、中正路の海山寺を借りて貧しい人々への施療をおこなった。
 
蘇萬貴の瞼は神経が壊死していて、何かを見たいときは手でまぶたをこじ開ける必要があった。彼は施療所に入るなり話し始めて長く話したが、言葉がはっきりしないため誰も理解できなかった。委員達が近所の人を連れてきて翻訳してもらうと、ようやく彼の八十歳を超える父親が重病を患っており、医師たちに家まで来て診てほしいと訴えていることが分った。張澄温医師は、それを聞くとすぐに身を起して言った。「私が行きましょう!」これが慈済の施療史上初めての自宅往診に赴いた例となった。
 
その日、施療で百六十人を診療した。またその時、證厳法師や委員達が村落の奥地まで慈善訪問に赴いたことで、多くの人々が長期支援世帯に登録された。その月、功徳会は、新たに十五の長期支援世帯が登録され、創立七年で最高となったが、そのうち八世帯を台東が占めていた。
 
一九七三年四月から九月の半年間、證厳法師と委員達は遠路を厭わず、花蓮と台東の間を往来して貧困世帯の訪問にあたり、慈済の台東にける長期支援世帯は大幅に増加した。三度の施療で六百人近くを診療し、また多くの現地の医療従事者やボランテイアたちが、慈済とともに、慈済の貧困と病を支援する列に加わった。
 
第三回施療から一週間後、台風十五号が来襲し、台東が深刻な被害を受けると、慈済は創立七年以来最も困難な災害支援活動を行うことになったが、そこでは、三回の施療が引き合わせてくれた現地の善意ある人々がとても大きな助けとなってくれた。呉尾、王松峨(静豪)、郭恒敏(静恒)夫婦らが加わるなど、台東の慈済委員が増えていったことにより、現地でより多くの貧困病苦の人々に寄り添い助けることができるようになったのである。
 

●郭恒敏(右から1人目)、王松峨(左から2人目)夫婦、王添丁、黄玉女夫婦の四人は台東における最も初期の慈済委員だった。范春梅(左から1人目)は1987年、委員認証を受けた。
(撮影・阮義忠)

(慈済月刊六三一期より)
NO.272