慈濟傳播人文志業基金會
平穏に暮らしている人がすべき事 
小さくて弱い人類は、道路や建物ほど強固ではない。九二一被災地で断たれた道路や倒壊した建物と、無常の苦しみに苛まれている人々を目の当たりにすると私たちが住んでいる地域が安全で、家族も無事であるのは、幸運であるとしか言いようがない。平穏に暮らしている人はできる限り奉仕をしよう!
幼い頃の記憶は苦しみだけである。父は電力会社の外勤作業員で、給料は高いが、毎日仕事があるとは限らず、収入が不安定だった。そして、交友が広いため、家に持って帰るお金は多くなかった。私は長女で、一九六四年に生まれ、下に五人の兄弟姉妹がおり、学費を払う時は他の生徒よりも後で、いつも最後に納めていた。
 
母の大変さを見て、私達も分担したいと思い、小学校卒業後の夏休みに、お祖父さんの工場でコップ洗いやテーブル拭き等のバイトをした。月に三千元ほど稼いで母に渡して手伝うことで、母の負担を軽くした。
 
父は以前から浮気をしていたため、母は私を連れてタクシーで高雄や屏東辺りで父を探し回り、他の女と一緒にいる父を見つけて余計に怒ったので直ぐに喧嘩になり、母は殴られ、私を連れて家に帰ったことがある。小さい頃、大人の世界は分からなかったが、母が情のもつれに苦しんでいることには気が付いていた。
 
苦しみを味わって来た人は苦しみに対して格別に敏感である。後に慈済に入ってからは、苦難に喘ぐ人がこれほど多いのを見て、自分の幸せを大切にするようになり、ご飯が一杯あればその半分を他人に分け、誰もが食事に有り付けるようにしている。
 
●2018年、熱帯低気圧が嘉義に水害をもたらした後、謝恵芬は連絡所で被災者に届ける慈善プリペイドカードと證厳上人の祝福の手紙を準備していた。(撮影・楊國華)

誰も助けてくれなかったあの日

 
中学校を卒業した後、台南で裁縫を学び、結婚は嘉義太保に嫁いで、一時期テーラーの仕事をした。一九九一年に三番目の子供を身籠った時、つわりが酷く、いつも実家へのホームシックにかかっていた。ある日、嘉義駅で《花蓮慈済功徳会の起源と成長》というパンフレットを見て、證厳法師がやっていることがとても偉大に感じると共に感動した。パンフレットの中に振り替え伝票が有り、その時から毎月、花蓮に寄付するようになった。そして、親戚や友人、隣人を会員に誘い、七十名余りの会員を募った。
 
毎月二回発行する「慈濟道侶」を受け取ってから、慈済の委員が会員の家まで寄付金を取りに来てくれることを知り、とてもいいことだと思った。つわりの体で郵便局へ振り込みに行く時、自転車に乗りながら気分が悪くなったことがあったからである。ようやく取りに来てくれる人が見つかった。その人こそが古参の委員である謝錦綢師姐である。
 
一九九二年、錦綢師姐が私を慈済列車で花蓮に帰る活動に誘った。その時、会員から寄付金を預かる身として責任があり、慈済がしていることを理解する必要があると思った。精舎の「一日 作さざれば一日食らわず」の精神に感動し、自分の志を堅いものにするため、一九九四、正式に委員になった。
 
一九九九年に九二一大地震が発生した時、上下左右の揺れを長く感じた。その時、大変なことになったと思ったが、震源地がどこか知らなかった。深夜になっても災害状況が分からず、朝になってから災害が酷いことを知ったので、家にあったテントと寝袋を取り出し、隣近所から物資を集め、リサイクルトラックに載せて嘉義連絡所に行き、そこから鹿谷に向けて出発した。
 
東勢を通過する時に見た被害の状況は言葉では言い表せないほどひどく、地盤は沈下し、建物と道路の区別がつかないほどだった。鹿谷に着くと、道路の状況は悪くなかったが、土レンガ造りの家屋は酷く倒壊していた。途中で被災者のニーズに合わせてすかさず物資を配付した。車が止まると直ぐに大勢の人が寄って来て物資を持って行った。
 
当時、仕事の都合上、長くそこに居るわけにもいかなかったので、できるだけ多く話を聞いた。しかし、後で考えてみると、その日、彼らはとても助けを必要としていたのだ。
 

一人でも欠けてはいけない

 
震災後、慈済は台中、南投、雲林で一九ヵ所の仮設住宅大愛村、千七百棟余りを建設した。壁板を担ぐことや水や電気の配管工事のような重い仕事はできなかったが、私たちにできる仕事はあるはずで、例えば、掃除したり、鉄筋を運んだりするなどだ。そう考えてから、急いで被災地での奉仕を申し込んだ。
 
現場に行くと、本当に物を担ぐ仕事が多かったができることは全てした。被災地には宿泊する所がなかったため、多くの人は日帰りだった。現地に居れば、余震の怖さを感じ、最後にはどこに居てもいつも揺れているように感じた。
 
地元に住んでいない私たちがこんなに怖いのだから、被災者は尚更だろう。被災後、人によっては寝つかれなくなるし、怪我をしたり家族が亡くなったことで苦しみ続ける。私たちは医療関係者ではないので治療はできないが、せめて彼らに寄り添うことで悲しみを分かち合えるのではないだろうか。家族と離れ離れになったことの痛みや災害による心理的ストレスを少しでも和らげることができればと思う。
 
私たちの住んでいる地域は安全で、家族も無事であることがとても幸運だと思った。それよりももっと重要なことがあった。善行は自分一人でも欠けてはいけないし、誰もが他人を助ける人にならなければいけないのだ。被災地で再建の仕事があれば、周りの人を誘い、家族、親友、隣人を問わず、皆で手伝いに行った。
 
当時、私の子供は十代だったので学校に通っていたが、週末には彼らを連れて、嘉義の二ヵ所の学校景観工事に参加した。現場で、私は自分の仕事をやり、子供たちもできる事をした。その後、写真を見て分かったのだが、息子はシャベルを持ったり、手押し一輪車を推したり、連結ブロックを運んだりしていた。
 
健康で平穏に過ごしている私達は一層奉仕して体得し、出来るだけのことをして被災地の人々をケアすべきである。努力を続け、彼らが安心して過ごせる環境になるようにし、心が落ち着くよう慰めていかなければならない。
 
●男性ボランティアは、921被災地で仮設住宅を建てる重労働をした。
●謝恵芬の息子は10数年前に921希望建設で造園作業に参加した。当時まだ10歳だった。

人は天に勝てない

 
私たちが普段歩いている道路は広く、硬い。被災地で見た道路は盛り上がったり、亀裂のため歩けないところもあった。人類はこんなにも小さく、道路や建物ほど頑丈ではないはずだから、常に自分に警鐘を鳴らすべきである。
 
慈済に入って二十八年、良い事や正しい事であれば行うだけ、という初心から始まった。慈済の仕事とは人心を浄化し、平和な社会を達成することであり、慈済人は名誉や利益のためにするのではなく、喜びを勝ち取るためである。人は困難に遭遇することもあるが、自分と世間を切り離して考えるのではなく、人の世の是々非々を教育と捉え、良い事に出会えば学び、悪いことに出会ったら、相手が悪い状況を見せてくれたことが自分への警鐘だと思って感謝するのである。
 
證厳法師の諭しを心に刻んで、自分を励ませば、次第に心が落ち着いてくる。それは法師が気力と勇気で以って模範を示してくれているからであり、私たちは精一杯奉仕するうちに心の中に「難しい」ことは何もないことを知るのである。「大きな願を掛け、志を堅くし、繊細な心で、人に優しくする」という静思語を座右の銘として、いつも心に銘記している。
 
幼い頃は家庭が貧しかったため勉強や習い事ができなかった。結婚後は家庭の主婦になり、慈済に入ってからパソコンやリサイクル作業、リサイクルトラックの運転を学んだ。九二一地震後、天災は避けることができず、お金がたくさんあっても頑丈な体があっても、無常に遭遇しない保証はないのだと悟った。災難を見て一層、謹んで自分を戒め、敬虔に日々を過ごしたいと感じた。
(慈済月刊六三三期より)
NO.274