慈濟傳播人文志業基金會
手提げバッグを縫うことは願を掛けること
高雄市・杉林区
 
被災した女性の生計の為に立ち上げた「杉林布バッグ工房」は、いつ経営が傾いてもおかしくない状況から今では独自のブランドを確立しただけでなく、社会的責任も担っている。
 
明るい朝の日差しが窓から入り、布製品が一面に並べられた作業台の上を照らしていた。ラジオ放送の音に紛れてカバーステッチミシンなどの機械音が断続的に聞こえる。杉林大愛村にある広さ約五十坪の「杉林布バッグ工房」には十数名の中年女性が生地を裁断しミシンを使って忙しく働いていた。そして、お喋りをして大声で笑うことも、時には話し合いに熱くなることもあった。
 
被災した杉林村の住民の生計のためにビーズや瓢箪の彫刻、木彫などの伝統工芸のクラスを設立し、各方面から資源の提供を受けたが、初期の裁縫クラスは注文や人員が不安定で、運営は大変だった。当時から支えて来た責任者の谷瑞婷は今、工房の片隅に腰を下ろし、目の前の楽しげな光景を笑顔で見ているうちに様々な思いが胸に溢れてきた。
 

ママチームの誕生

 
朝露で濡れた芝生から清々しい香りが漂う中、谷瑞婷はのんびりした田園生活を楽しむ暇もない。休日にも関わらず、谷瑞婷は休む余裕がなく、裁縫クラスの仕事を広める為、急いで杉林慈済大愛村に行き、裁縫クラスのお母さん達と合流して車でバザール会場に向かった。
 
車の中で「私たちは裁縫ができるだけではなく、自分達が作ったものを紹介できるようにならないといけません」と再三言い聞かせた。彼女は皆が自分達の工房で作った商品の独創性を理解して、積極的に販売の基礎知識を学び市場のトレンドや流行を取り入れるよう望んでいる。彼女が工房の専任管理者になって二年、杉林裁縫クラスは変貌を遂げた。
 
夫と同様、職業軍人である谷瑞婷は、まだ海軍の左營駐屯地に服役していた時に杉林区の丘陵における傾斜地を購入した。二〇一二年に退役した後、在学中の娘二人を連れて杉林区に移り住み、優雅な田園生活を楽しむようになった。
 
二〇一七年、谷瑞婷は杉林布バッグ工房で働き始めると軍隊で培った人事管理の経験を生かして組織運営の透明化を図り、メンバー同士を信頼し合える仕事仲間に変えた。工房の運営が少しずつ良くなると事務や営業の仕事も増え、彼女は毎日、夜の九時、十時まで働いた。
 
二〇一八年初め、二十八歳で帰郷した青年の呉峰智を工房に招聘し、ネットでの販売を立ち上げると共に営業の第一線を任せたので、バザール会場では布バッグの販売だけでなく、多くのデザイナーとも知り合いになることができた。僅か数ヶ月で何人ものデザイナーから受けた委託製造のオーダーは、工房の二十数人全員が残業しても消化しきれない程だった。
 
「オーダーの一部を外注にしましょう」と谷瑞婷が会議で提案した。メンバーからは心配する声も聞かれたが、話し合いの末、全員が納得した。「杉林区に小さな加工工場があります。訊いてみたらどうでしょうか」と誰かが提案した。谷瑞婷と呉峰智は翌日、その八人しかいない加工工場を訪れたところ、注文がない為に稼働停止寸前であることを知った。工房からの注文で幸いにもその工場は起死回生し、その後、協力関係が築かれた。
 
「以前から私たちは多くの人に支援してもらってきました。今は自分たちの足で立っており、他の人に手を差し伸べるべき時です。互いに助け合ってこそ『皆が良くなる』のです」と、今回の経験から得た新たな展望を谷瑞婷は集会の時に話した。一緒に頑張ってきた仲間も彼女の意見に賛同した。
 
●谷瑞婷(左)は大愛村にある杉林布バッグ工房でお母さんたちを指導し、社会的責任を担うファッション・ブランドを立ち上げた。

家庭のような工房

 
照明の明るい応接間で劉秀勉は車椅子に座って作業をしていた。割り箸を使って少しずつ恐竜のぬいぐるみに綿を詰める作業である。彼女は被災後、杉林大愛村に入居したが、二年前に受けた膝関節の手術の回復が思わしくなく、行動が不自由になった。突如降って湧いた病の痛みで、本来楽天的な彼女も気分が塞ぎ込むようになった。
 
彼女と親しい谷瑞婷はよく見舞いに来ていた。彼女の家計状況を知り、「私たちの工房はとっても忙しいの。手伝ってくれない?」と聞いた。秀勉が自分の足を見て、「しかし、私は体が不自由で……」と呟くと、「大丈夫、不便だったら私たちが材料を送りますから。」と直ぐに答えた。次の日、谷瑞婷は材料を送った。数ヶ月が経ち、工房の仕事のおかげで体の不調も気にならなくなり、家計を助けることもできたので、彼女は自分が役立つ人だと思えてきて、少しずつ以前の自信を取り戻し始めた。
 
日曜日、工房のメンバーはメンバーの一人である頼許瓊珠の入居祝いの為に杉林から一時間車を走らせて、左營区のあるビルにやってきた。お母さん達は嬉しそうに寝室、厨房、浴室、ベランダを覗き、何人かは八十五歳の瓊珠と応接間でお喋りをしていた。
 
谷瑞婷は瓊珠と厨房で団子スープを用意していた。「子供達は良い子に育って、貴女もやっと辛い日々が終わったわね」と彼女は感慨深げに瓊珠に言った。瓊珠の夫は被災後、家を失った喪失感から抜け出せず、終日酒をあおるようになった。彼女は家計を支える為に、懸命に働いた。数年前、彼女が仕事から帰ってきて玄関先で酔い潰れたご主人を見つけたが、既に息が絶えていた。子供達は家を離れて就学していたため、独りぼっちになった彼女は工房が家庭になり、仲間が家族となった。
 
プロフィール 杉林布バッグ Sunny Bubao 大愛裁縫工房
2010年    5月10日、裁縫クラスが立ち上げられ、台南のアパレル製造会社である德式馬企業(Texma International Co. Ltd.)が無償で機械設備と製造技術者を提供し、且つ公共機関からの注文を共有した。
2012年
労働庁は被災地を対象に職業養成計画を打ち出した。裁縫クラスは補助金を申請し、事業を転換し始めた。
2016年
裁縫クラスは職業養成計画に参加すると、下請から布バッグの製造へと主な事業を転換させ、名前も「杉林布バッグ工房」に変わった。
2018年 繊細で頑丈に創られた製品が評判になり、樹徳工科大学芸術管理学部と産学提携して「トレンディー杉林布バッグ」というブランドを立ち上げた。
2019年 多くの企業と提携し、山奥での裁縫職業訓練に協力している。

「共に学び」「共によくなる」

 
下請けのみの工房にさせたくない思いから、谷瑞婷と呉峰智はママチームが型紙の開発から、試作、設計、配色まで新商品を開発し、オリジナル・ブランドを立ち上げることまで期待した。その為、彼らは休日を利用して様々な展示会を見学したり、生地屋に行って生地の知識や材質や柄の応用などを学ばせた。二〇一八年、杉林布バッグ工房のママチームは確かな裁縫技術で以て樹徳工科大学芸術管理学部と産学提携し、学生のアイデアをもとに回収古着から手作りの布バッグを作り、共同で「トレンディ杉林布バッグ」と名付けたブランドを立ち上げ、高雄市前鎮区のコンテナアートのある観光スポットに出展するようになった。
 
一九八九年生まれの呉峰智は、学業や仕事のために故郷を離れた若者にとって工房が職業訓練のためのプラットフォームとなることを期待している。地元で就職する機会を増やし、故郷に留まることができるようにしたいのだ。彼はいつも「工房をしっかり運営してこそ、若者に自分達の良き技術を伝授することができるのです」と工房のママチームに話し、二〇一七年からは夏・冬の休みに杉林区、旗山区の学生にアルバイトの機会を与えている。
 
二〇一八年、杉林小学校の生徒は修学旅行の費用が負担になっていた。学校側と工房はコラボして企画をたて、パイナップルの収穫期にパイナップル・ケーキをつくり、工房はそれを「勉強好きな杉林」という布バッグとセットにして販売した。そしてパイナップル・ケーキを完売させただけでなく、文化クリエイティブ・コンテストで賞までもらった。今回の提携をきっかけに、陳淑惠校長は裁縫工房のママチームを学校に招き、生徒達に布バッグの作り方を教えるようになった。
 
山奥の子供達は祖父母の代が養育していることが多く、教育は地域と密着したものであるべきだと校長は感じている。彼女の「世代共学」という理想は谷瑞婷と呉峰智の考えと見事に一致したのである。
 
裁縫クラスは今年で十年目を迎える。いつ店仕舞いしてもおかしくない状況から着実に歩みを進め、今では「共に学び」、「共に良くなる」社会的責任を担えるまでになった。
 
 
●谷瑞婷(左)。「杉林布バッグ工房」のママチームは地元の学校の要請で生徒達に手作りの布バッグの作り方を教えた(写真左)。工房でも生徒達の修学旅行の費用集めに「勉強好きな杉林」と題した布バッグセットを売り出した(写真右)。
(慈済月刊六三三期より)
NO.274