慈濟傳播人文志業基金會
アラブのミスターチェン

大砂漠の武勇伝はよく知られているにもかかわらず、陳秋華はしばしば「私は一人ではない。みんなの愛が私と一緒にいるからだ」と言う。現実の世界に戻った時、彼は依然として「とてつもなく大きい福田と非常に少ないチームメンバー」という困難に直面している。

しかし、苦難を見ると助けずにはいられない。それは「菩薩道の果てには苦難の眾生がいる」との證厳法師の言葉の証である。

救援物資が運ばれて来るのを見ると、米であれ何であれ、彼らは手を伸ばして、くれ、くれ、欲しい、欲しい…と言うのです。その場にいなければ、彼らの生活でどれだけ必要とし、困っているのかは想像できません」。とヨルダンのボランティア林芝が言った。

「配付の時、ある子供が騒ぎ出しました。それは、以前或る団体の配付の仕方が彼らを不安に陥れたからです。たとえば、二百人分必要なのに救援物資は二十人分しかなかったのです。慈済は長年配付の経験があり、配付券さえ持っていれば、必ず物資は貰えると言い聞かせても、彼らは不安で、物資がだんだん少なくなるのを見ると落ち着いていられなくなるのです」と陳秋華が言った。

「濟暉(陳秋華の法号)、停まってはいけません。私は自分の血を使ってでも難民を救済したいのです」と證厳法師は優しくおっしゃった。陳秋華ははっと目が覚めた。夢だったのか!

二○一六年八月に行われた配付活動では、難民の情緒不安定によって騒ぎが起き、互いに押し合う状況が出現した。その情景は陳秋華を悲しませた。毎月の配付活動を止め、慈善基金を医療費に回せば、数百人の三ツ口や無肛門症の子供が手術を受けることができるという思いが胸の内に芽生えた。 思いもよらず、その夜、證厳法師が夢に現れ、自分の意志が十分に堅くないことを深く懺悔した。

二○一七年二月十二日、台北国際会議場で三回、「大愛のある世界・心の蓮がこの世に満ちる」福を祈るコンサートが開催され、一万人近くが参加した。コンサートの席上で、陳秋華は「私はシリアの難民に懺悔しました。彼らを放棄しようと思ったことがあるのです。難民はそれを聴いてとても動揺したのか、皆泣いていました」と言った。

「私はどう感謝したらいいかわかりません。シリアの人々が安全に故郷の土を踏むまで、台湾人は愛の心で寄り添ってくれていることに、ただ仏教の最敬礼である頂礼を以て感謝するしかありません。ありがとう、ありがとう!」

●慈済ボランティアの陳秋華(右)は一昨年に慈済の支援で3つ口の矯正手術を受けたシリア人の子供を慰問し、体調を気遣った。

後戻りするはずがない

壇上で陳秋華が「頂礼(五体投地)」をしている場面は多くの人に感動を与え、シリア人に嫁いだ台湾人の賴花秀も会場で涙を流した。 「ミスターチェンはシリアとは血縁関係のない武士です。しかし、彼は五体投地して全ての人に感謝することができました。その時、私は本当に感動しました」。

賴花秀は雲林出身で、一九九四年に台北で働いていたシリア人の夫と結婚し、二○○七年にシリアの首都ダマスカスに定住した。二○一三年六月、彼女は十歳の息子を連れて台湾へ里帰りした。元来八月にシリアに戻る予定だったが。内戦がますます激しくなるとは予想していなかった。夫は彼女たちに、当分の間台湾に滞在するよう言った。そうして家族は別々に暮らすようになった。

「私と慈済の縁は禍を転じて福と為すと言えるでしょう。シリアでの戦争は苦しいものですが、それをきっかけにミスターチェンと知り合ったのです」。彼女はシリア難民の世話をしようと思い、二○一四年にヨルダンに来た。「来たばかりの頃、秋華師兄夫婦に付いて、障害のある三人のヨルダン人の姉妹を訪ねました。その時、私は彼ら夫婦が米を担いで階段を登っているのを見ました。その階段はとても高く、私でさえ上るのが大変でした。その時、この人はどんな人なのだろうかと思いました。私はその偉大な力を学びたいと思い、その時から、彼と一緒に慈済の仕事をしています」。

彼女はシリア難民であり、敬虔なイスラム教徒である。昨年慈済ヨルダン支部の職員になったが、就任してから四カ月後、自分には少し荷が重すぎて担えなかったので辞めたかった。今年一月、慈済ヨルダン支部の認可が下りた。彼女は陳秋華が「二十一年と四カ月後に、やっと開設できた」と言ったのを聞いた。それに対して彼女は「ミスターチェンは二十一年と四カ月も初心を堅持して来たのに、私はたった四カ月で投げ出してよいのだろうかと自分に問いました」と言った。

●慈済ヨルダン支部とハシミ慈善団体は、「タラボット社会教育センター」プロジェクトで協力し、シリア難民の子供とヨルダンの貧しい子供たちをケアした。10歳のセンタシは竹筒歳月の話を聞いて、賴花秀に人助けの願望を話した。

心優しい勇士

陳秋華を知るヨルダン人は皆、彼をミスターチェンと呼び、賴花秀は彼を「武士」、ハッサン王子は「優しい巨人」と呼ぶ。證厳法師は「彼は四大志業と八大脚印を着実に実践しています。イスラム教の国で大将軍となって、衆生を済度しているのです」と言った。そして「大将軍」という言葉で彼を形容したのは、彼がテコンドーで最上位の九段のマスターであるだけでなく、ヨルダン皇室のハッサン王子のテコンドーコーチ兼顧問でもあるからだ。長年にわたり、彼は選手たちを率いて国際大会でしばしば素晴らしい成績を上げてきた。

今年のラマダンには二千六十九世帯に配付したが、一世帯分が二十キロを超える支援物資を持ち、砂漠を駆け抜けて配付するには勇気が必要だ。背丈の高いアラブ地元のボランティア、例えば アブトーマス、ケーダーコーチ、及びテコンドーの学生などが後方で物資を搬送した。誰も争って功績を鼻にかけないだけでなく、比較的辛い仕事も引き受けていた。彼らはミスターチェンの弟子たちや学生の父兄だった。 

ケーダーコーチは高校時代から既に陳秋華の生徒だった。師弟の絆は三十六年にわたり続いている。大柄なアラブ人は恩師のミスターチェンの話しに及ぶと感動し、心優しい勇士の表情になる。彼は武芸を学んだだけでなく、恩師の「竹筒歳月」の精神を彼の勤めている公立学校で実践している。「私は貯金箱を作り、毎日二十クラス全部に行き、金額の多少に関わらず、生徒に募金することを教え、そして毎週募金金額を公表しています」。

ある時、彼は交代で出席している兄弟がいることを知った。彼らは一足の靴しか持ってなく、交代で靴を履いて登校していたのだ。また制服を買う余裕のない貧しい学生もたくさんいた。そこで、彼は卒業生に「サイズが合わなかったり、着用できないユニフォームがあれば、寄付してほしい」と呼びかけた。多くの衣服は古くて破れたりしていたが、寄贈者の気持ちを傷つけないために、それらを全部引き取り、新たに整理した。

ラマダンを迎える前、校内のすべての学生は家族に募金活動をしようと提案した。中には服や靴を寄付する裕福な家庭の父兄もいた。子どもたちは皆、これらの寄付金と支援物資が最も貧しい生徒たちを助けるためのものだと知っていた。

愛と慈悲は無形だが、それを宣揚して実践すれば、行動を通して、愛のさざ波は現実的に少しずつ広がり、伝わっていくのである。

●ザータリ難民キャンプの外のテントエリアで、ボランティアが支援物資を配付した。そこに居住している人々は、全般的に生活が貧しく、ボランティアによる配付活動もいつも大変だが、それでも長年ケアが続いている。

慈済の代弁者

ヨルダンのマフラクはシリアとの国境付近にあって、多くのシリア難民が滞在している都市だ。ヨルダン救援組織は、賃貸している民家の二階を研修センターとして、六歳から十四歳までの子供に勉強を教えており、また何度も慈済の施療活動の場として提供している。マフラク研修センターの校長であるアブアメールは、初めて慈済に接した時、多くの慈善団体がすでに撤退した後で、慈済が彼らを支援してくれることに期待していなかった。しかし図らずも慈済は有言実行で、今に至っている。学校から報告された手術ケースは全てミスターチェンとボランティアが付き添って治療を行っている。彼は非常に感動して、「私が慈済の代弁者になってあげます」と言った。

大砂漠の武勇伝はよく知られているにも拘わらず、陳秋華はよく、「ヨルダンは遠いが私は孤独ではありません。みんなの愛が私と一緒にいるからです」と言う。しかし現実の世界に戻れば、彼は依然として「福田は非常に大きく、チームメンバーは少ない」という現実と向き合わなければならない。

二十二年間、慈済がヨルダンで行って来た志業は、クリスマス、イースター或いはラマダンの時だけ行われる活動ではなく、毎日、毎年、絶え間なく行っているもので、パレスチナ難民に始まり、 シリアの難民、砂漠の奥地から都市の周辺にいるベドウィンまで、苦難に喘ぐ人を見れば、支援に尽力するのである。

かつて或る人が見かねて、どうしてそんなに一心に投入するのかと聞いた。「あなたはそれを見なかったふりをすることはできないのか?」と言った。またある人も「こんなに多くの難民を、どうやって救うのか」と聞いた。彼はただ実直に「慈済と縁のある人々だからだ」と答えた。

早朝から夜更けまで、日々苦しみに喘ぐ人々がいる。あらゆる危険や困難は菩薩の愛と苦難に対する支援の歩調を阻止することはできない。また苦難から人々を救い出す足どりを阻害することもできない。陳秋華の足跡は法師の言葉を立証している、「菩薩道の果てには苦難の眾生がいる」。
(慈済月刊六三三期より)

NO.275