慈濟傳播人文志業基金會
心ある慈済
奉仕とは金持ちだけがするものではなく、その心があればできる。「清らかな心」とは己を厳しく律すること。「慈悲心」とは人に寛容な心で接すること。この二つによって慈済志業は慈善奉仕と仏法修行に取り組んでいる。
 
 
社会には慈済は金持ちだと思っている人がいるが、證厳法師はこう答えたことがある、「慈済はお金を持っているのではなく、心を持っているのです」。
 
お金と心は違います。お金は具体的なもので目に見え、数えることができる数字です。心は見ることも、触ることもできない、内面的な感受性です。一般の人は具体的に知覚で分かる存在を重んじますが、法師は心の伝達が大切だと重ねて言っています。
 
それが慈済は金持ちというよりも、「慈済には心がある」といわれる所以なのです。慈済も「物で情を表す」ことをしますが、それは所謂、形有る財物を通して無形無相の愛と思いやりを表しているのです。
 
例えば、九二一大地震の後、慈済は災害援助だけでなく、被災者のために仮設住宅を建て、五十一校の小中学校再建プロジェクト「希望工程」で支援しました。当時、法師は規模の大きな学校を選んだため、その莫大な再建費用をどう調達するのかと周りの人々は心配しました。しかし、法師は自分こそが最適であり、正しいことであればやるべきだと考え、慈済がやらなければ誰がやるのでしょう?と言いました。
 
慈済はそれを義務として担いました。「己の無私を信じ、他人にも愛があることを信じる」という堅い信念を持てば、あらゆる難関を無事に突破することができるのです。
 
 
「慈済の心」のこの「心」には二つの意味があると思います。一つは「清浄心」もう一つの「慈悲心」です。「清浄心」は己を厳しく律することに用い、「慈悲心」は人に寛容な心で接することです。法師は自分自身にも弟子達にも、この二つの心を持つことを願っています。
 
己を清らかに律することは例えば、「静思家風」の自給自足と自力更生による勤勉で倹約した修行生活に現れています。社会からの寄付金は一切使うことなく、社会に還元するのみで、より高い道徳観で以て社会大衆からの愛を布施しているのです。「慈悲利他」。思いやるのは衆生の苦難であり、全ては他人のことを思い、行動しても、自分の安楽のためにしたことはないのです。
 
「清浄心」と「慈悲心」の導きの下に、布施を大切に預かり、貪らず求めず、財務面では厳しく透明さを保っています。もう一方で、布施は衆生を利益する道具と見なし、多ければ多いほど、その効果を最大限に発揮するよう努力しなければなりません。法師にとって、募金が多いということは責任も重くなると共に、社会の慈済への信頼と期待を象徴しており、慈済人はそれだけ重い任務と使命を背負っているのです。お金がある分だけ、もっと清浄心と慈悲心を持つよう修行があるのみです。
 
慈済志業の慈善活動と仏法の修行に対する重要な啓発とは何か、と問われたら、清浄心と慈悲心が一番良い答えだと思います。
(慈済月刊六三二期より)
NO.275