慈濟傳播人文志業基金會
足で稼いだ再建の縁
私の九二一物語
 
 新社小学校の教室棟は地震の後、壁に亀裂が入り、鉄筋が露出した状態になったが、長い間、支援してくれる対象が出て来なかったため、校長先生が不眠不休で支援を求めた結果、希望工程で完成した最初の学校となった。
 
九二一地震が発生したあの夜、大地が大きく揺れて人々を不安に陥れた。夜明け早々私は急いで外埔郷に住む教頭の欧慶龍先生に連絡し、一緒に山の上にある学校に駆け付けた。石岡に着いた後、車はそれ以上進むことができなかった。目の前の道路が高く盛り上がって通行止めになり、用のない人は出入りが禁じられた。我々は車を降りて徒歩で向かった。途中、倒木や落石に阻まれ、一時間程歩いてやっと新社に着いた。
 
東勢鎮と川を挟んで反対側に位置する新社街では、一列に家屋が倒れ、二階建ての建物の一階が崩壊したり、止まっていた車が家屋の下敷きになっており、目に触れるもの全てに心が痛んだ。そして学校がどうなったのか心配になった。
 
やっと学校にたどり着くと、目立つ赤い校門は残っていたが、中を覗くとキャンパスの外壁は倒れたり、亀裂が入っていた。運動場は避難者で一杯になっていた。その先にある校舎は見る限り無傷に見えたが、教室に入って見ると悲惨さが分かった。壁から鉄筋が露出し、窓ガラスは割れ、教材は全て破損していた。地震の発生が夜だったのが不幸中の幸いで、それが昼間だったらと思うとゾッとした。
 
混乱の中、我々は先ず学生を落ち着かせた。台中盆地を取り巻く山岳地に位置する新社は素朴で穏やかな町である。新社小学校はその地域の中心的な学校で、百年の歴史があり、保守的な校風と伝統を固く守っている。地震という人知を越えた極限状態は果たして学校の契機になりうるだろうか?
 

補強か再建か?

 
家が倒壊したからといって子供達の学業まで止ってしまってはいけない。どうしたら速やかに授業を再開できるか?その時期、各学校ともテントを奪い合っていたため、私は早速豊原市の業者に頼んで、速やかに二十数張のテントを組み立ててもらい、十月四日には全校で授業が再開された。
 
初日、生徒たちは野外授業のような感じで新鮮に感じたようだ。だが授業が進むにつれ、昼間の強い日差しを避けるため、テントの淵に座っている生徒は太陽の方角によって椅子を移動せざるを得なく、落ち着かなくなった。また、雨が降ったり風が吹くと、テント内では埃だらけになった。
 
校舎の取り壊しも順調には程遠かった。一回目の鑑定結果は補強でよしとされ、再建の必要性が明記されなかった。二回目の鑑定も同じ結論だった。しかし、私は亀裂と鉄筋が露出した教室を見て、生徒の安全が心配だった。私は何年かすれば他校に異動するが、学校はずっとここに残るのだ。再三、三回目の鑑定をしてもらうよう教育局に頼んだ。
 
三回目の鑑定は台湾新幹線のシンガポール籍エンジニアを招いて行われた。その結果、確かに安全性が憂慮されるとして鑑定書に「校舎を取り壊して再建する必要がある」と書いてくれた。私はやっと肩の荷を下ろした。やっと学校は生まれ変わる機会を得たのである。
 
教育局が取り壊しに同意した後、軍部の協力の下に十月中旬、その工事が完了した。しかし、再建を引受けてくれる団体がなかなか現れなかった。一度はある団体が名乗りを上げたが、立ち消えてしまった。
 
本来なら補強するだけでよかったが、その時、自分がした大胆な決定に対して焦りと不安を覚え、どうしたらいいか分からなかった。そのまま放置して政府が建ててくれるまで待っても良かったが、台湾全土に数百もの学校が損壊しており、再建にどれほど時間がかかるか分からないため、教師と生徒にとって決して良いことではなかった。しかし、運命が朗報をもたらした。
 
校舎の裏の運動場では慈済が新社の被災者の為にプレハブ仮設住宅を建てていた。十月下旬、證厳法師は工事の進み具合を見に来たが、初めて新社小学校まで足を延ばした。丁度、放課のチャイムが鳴り、生徒達が走り出て来たが、法師と紺色の服に身を包んだ人達の存在に気付き、好奇心で集まってきた。欧慶龍教頭先生がそれを見て、「早く二階に行って校長先生に、證厳法師が来られているが、もう直ぐお帰りになる、と知らせてくれ」と近くにいた生徒に言った。
 
その知らせを聞いて百メートル走でもするかのように、私は三階から工事現場に走った。法師はもう車に乗り込んでいたので、「誰も校舎の再建を引受けてくれないのです。引き受けてもらえませんか」と窓越しに訴えた。法師は微笑みながら、「校長先生、教育の仕事は深く末永く耕すものです。頑張ってください」と言ってくれた。私も「教育は私が志とする仕事です。必ず心を込めてやり通します」と返事をした。法師はその場ではそれ以上言われなかった。
 
翌日の十月二十七日、朝早く教育局の役人から電話があり、「校長先生、あなたの学校に吉報が寄せられました。慈済が新社小学校の再建を引き受け、潤泰企業グループが計画に協力します」と言った。その時、私の心情を反映したように、窓の外の曇り空から日が射し込んだ。奇跡だ!引受けてもらえたのだ!
 
そこには、もう一つのエピソードがあったことを後でボランティア達から聞いた。法師はその日、台中支部に戻っても心が重かった。十月十一日に慈済は二十五校の再建を引き受けると発表したばかりだったが、膨大な再建資金はまだめどがついてなかったのだ。そこへ更に新社小学校校長の願いを聞いてしまったのである。それでも慈済は引き受けると同時に、潤泰建設グループに協力を仰ぎ、再建を決めたという経緯があったのだ。
 
震災と再建を経て、2001年希望工程で再建された新社小学校は第1期の卒業生を送り出した。

第二の百年を造る

 
潤泰建設はそれまでオフィス・ビルや電子工場など高い技術が必要なビルを建設してきたが、新社小学校は初の公共工事だった。後になって「慈済の工事を引き受けるのは大変なことです。何故なら、慈済には自前の建設チーム、建築士、そしてボランティアが工事の監督をするので、基準がとても厳しいのです」と現場の作業員が私に話してくれた。
 
運動場の設計に関して、花蓮に行って法師に伺いを立てたことがある。設計事務所の張福明総経理と建築士の潘怡群が同行したが、彼らは帰りの車の中で設計図を手にしながら私に意見を求めた。運動場のトラックやメインスタンドに関して三時間余も話し合った。そして、校舎の側の古い木を残す為に、それを迂回してカーブ状の階段という趣のあるアイデアが出た。そこから新社小学校のキャンパスは子供たちと自然を優先する設計になった。
 
学校を再建すると同時に、子供たちの心も新たな一歩を踏み出して前向きになるよう導くことが大切である。全校の教師と生徒は学校再建の為に心を尽くし、二〇〇〇年四月にチャリティーバザーを催し、生徒と父兄たちがバザー用に中古品を持ち寄った。全収入は慈済の希望工程に寄付された。
 
如何にして子供たちが感謝の心を持ち、そこから再出発できるようになるか?まずは生徒会に考えてもらい、教師にも提案してもらう。やる気と喜びを持たせることが大切である。
 
●2001年2月、新社小学校は新しい校舎に引っ越した。2年生の担任である方玉秀教諭は「新教室の使用に関する規約」を手にし、愛で再建された校舎を大切に使うことをクラス全員と約束した。

新教室の使用に関する規約

 
新社小学校は慈済が引き受けた「希望工程」五十一校の内、最初に完成した学校である。全校教師と生徒は二○○一年一月二十日に新校舎に移った。
 
学校を再建できたのは容易なことではない。如何にしたら子供たちはそれを大切にし、感謝の気持ちを持つようになるか?学校は「児童自治市組織」を設けた。三年生以上の子供たちに投票権を与え、自治市長と学生幹部を選出するなど、生徒の法治教育の一環とした。新教室の使用開始前の会議で、教師は生徒にどういうことをしていこうかを考えさせた。
 
生徒幹部たちが討論した結果、「新教室の使用に関する規約」を提案した。その内容は「我々は仏教慈済功徳会の支援と、潤泰建設有限公司の企画、設計、施工に感謝します。我々は力を合わせて新校舎を大事に使い、その精神に則って下記の規約を遵守することを誓います。一、真面目に整理整頓に努め、教室内外の清潔を保つこと……十、損傷した箇所を見つけた場合は直ちに報告すること」。
 
全部で十項目あり、生徒達は真剣に余白に各自の名前を書いた。彼らの全員が「規約」の意味と責任を全て理解していなかったかも知れないが、福を知り、福を大切にするという心構えを皆で心を同じくしていた。
 
荘厳な建築は無言の説法でもあり、子供たちはそこから学んで心を落ち着かせることができるのである。教師も生徒も喜びに満ちて新校舎に入ると、多くの生徒が「学校がとても綺麗なので、放課後、少し居残ってもいいですか」と訊いた。生徒たちが帰宅したくないほど、学校は桃花源になったのである。
 
「九二一を忘れるなかれ」と法師が言うように、それは生きた教育の場となって、子供たちに感謝の気持ちを教えると共に、人格を培ってきた。感謝を知っている子供は自ずと人格が形成されるからだ。
 
私はずっと慈済の理念が好きだった。「悲智願行」。智とは十分な智慧と知識を持っていることで、子供たちを喜ばせるだけでなく、楽観的になるよう育てることが大切である。そのためには子供たちに明るさと希望を持たせたいのである。
 
母校が存在し発展し続ければ、成功の立役者は自分でなくても構わない。大理石や黒曜石はいつか壊れ、墓石に刻まれた文字を読む人が無くなても、永遠に残るのは人の心に刻まれた名前の方だ。
 
九二一希望工程プロファイル
台湾全土293校の全壊校舎を再建する必要があり、慈済は51の小中学校を引き受けた。南投33校、台中15校、嘉義2校、台北1校。2004年1月にすべて竣工した。(下図)
 
各学校の再建工事は慈誠隊(男性の慈済委員)が延べ10万人余りの地域ボランティアを動員して成し遂げた。
 
921地震の後、慈済が支援建設した学校は全て、「希望工程」と名付けられた。そこには、「親の希望は子供にあり、国や社会の希望は人材にあり、その人材を育成するのが教育であり、教育は即ち希望の工程である。
 
震災後、緊急に修繕したり仮設教室を建てたのは13カ所である。学校給食の支援は1999年10月1日から2000年2月1日まで、24校の小、中学校で行われ、2267人の生徒が恩恵を受けた。
 
校舎の支援建設だけでなく、心のケアも行われた。
・1999年10月慈済教師懇親会が行った「臨時受け入れ他校生及び教師」安心プランは、2001年7月までに延べ36350人を動員した。
 
・2000年1月28日から慈済教師懇親会は20カ所の被災した学校で「大愛を揺り動かし、『笑顔』を取り戻す」という教師と親子のクラスを開設した。2001年7月31日まで延12584人を投入して79回行われ、様々な学校から延13001人の教師と学生が参加した。
 
・慈済教育志業体と慈済大学青年懇親会は2001年9月14日までの夏と冬の休みに被災地において、延べ4135人を投入して、55回研修キャンプを催し、住民と学生合わせて7216人が参加した。
 
(慈済月刊六三四期より)
NO.275