慈濟傳播人文志業基金會
天地が揺れたあの日 生命の刻印
台湾921大地震から二十年
 
 
天地が揺れ動いた、あの夜。
 
慈済ボランティアが真っ先に考えたのは、「私に何ができるだろうか?」ということだった。
 
交通が途絶え、自宅が被災しようとも、人々を助けたい思いに変わりはない。彼らは災難の中、生死の悲しみと苦しみを経験したが、その場で力の限りを尽くし、生命に遺憾のない記憶をとどめた。
 
一九九九年九月二十一日、深夜一時四十七分、尋常ではない揺れが、台湾全土で眠る人々を揺り起した。その瞬間、多くの人が寝床から飛び起き、驚き、逃げ惑い、叫び声をあげた。だが、起き上がる時間すら与えられることなく、一瞬のうちに、永遠の別れの痛みを残した人々も少なからずいた。
 
二十年前の台湾中部大地震を思い起こそうとしても、曖昧な記憶しかない人が多いかもしれない。だが家族を失った被災者にとって、それは一生忘れられない時間であった。また自ら救助にあたった人にとっては、生命の中に消し去ることのできない、強烈な学びの記憶を残した。
 
●台中の東勢鎮は、車籠埔断層の曲がり角に位置し、強い衝撃により多くのビルが倒れ、300人以上が命を落とした。台湾中部大地震において、最も死傷者が多い地区となった。(写真提供・王一帆)

あの夜 震央の地「集集」で

 
台湾中部大地震は、震央が南投県集集鎮に位置していたことから、「集集大地震」とも呼ばれる。その震源の深さはわずか八キロメートル、規模はマグニチュード七・三に達し、南投と台中では、広範囲にわたる町が一瞬にして破壊された。南方の彰化、雲林、嘉義、および北部の苗栗、当時の台北県及び市においても、死傷者が出た。震災後の政府統計によると、一〇二秒にも及ぶ長くて強い揺れにより、二千四百十五人が死亡し、十万八千棟余の建物が損壊したという。
 
自宅が集集鎮にある慈済委員、林慎は語る。あの日深夜一時過ぎ、彼女が慈済の用事や家事を終えてようやく横になったとき、自分が大きなゆりかごに揺られているように感じた。強い眠気のため気に留めなかったが、頭上から物が落下して大きな音が鳴ると、ようやく危険が迫っていることに気づいたという。
 
「私が起き上がったとき、ドアはすでに開かなくなっていました。ドアを押し開けるのにどれほどの力を出したのか覚えていませんが、すぐに義母を抱きかかえて外に出ました」。呉厝里にある林慎の自宅に大事はなかった。実家の様子を見に戻ってきた隘寮里に住む娘が、沿路で多くの遺体を見たと怖れおののきながら言った。母と娘、そして夫の兄弟の嫁一人とが落ち合い、三人は慈済ボランティアとして、オートバイのヘッドライトを頼りに、停電で真っ暗な街に出て被害状況を確認した。行く先々で、助けを求める人々の叫び声が聞こえた。
 
「消防隊の皆さん、助けに行っていただけませんか?」林慎は消防署へ駆けつけた。だが留守番中の職員は、「今、全員出動しています」と力なく答えた。災害はあまりに甚大で、救助隊員は奔走し、疲弊していた。生きている人の救助が最優先だった。林慎の夫の妹は不幸にして亡くなっていたが、今は倒壊した建物の下に残したまま、掘り出すことすらできなかった。
 
●台湾北部の新荘にあるマンション「博士の家」3棟の倒壊現場で、救助隊員が諦めることなく生存者を捜索していた。台湾中部大地震では、台湾全土で10万棟を超える建物が損壊した。20カ国からの救援隊が、台湾各地の被災地で救助活動に協力した。(撮影・郭以徳)
 
深刻な災害を目にし、通信もほぼ途絶える中、林慎は悲しみと恐怖を必死で抑えた。救助を求めるため、集集水道局に来て、電話を借りた。水道局員はおそるおそる室内に入ると、電話機を戸口まで引っぱった。林慎は花蓮の静思精舎への電話を試みた。
 
「落ち着いてください。住民の皆さんが飢えてしまわないよう、気をつけてください」。林慎が電話で救援を求めると、證厳法師ははっきりと指示を与えた。「現地のすべての人々の面倒をよく見てあげてください。何か必要なものがあれば、すぐに台中支部に伝えること。すぐに届けさせますから…」
 
それは朝五時過ぎのことだった。慈済花蓮本部は早朝三時になる前、既に救済総指揮センターを設置していた。台湾中部に位置し、深刻な被害を受けた台中では、職員である蕭恵特が地震後の二時五分には民権路の支部に到着した。各地の被災状況や必要なものは何かなど、情報が次々と入ってきていた。事務担当、ソーシャルワーカー、財務、総務もそれを基に行動を始め、各地の慈済人もそれぞれ救援活動を展開していた。「生きているならば、やることがある!」この思いは、被災したボランティアたちの間で、図らずも暗黙の了解となっていた。素手でがれきを掘り出して、近所の人を助ける者もいた。多くの人々が、自宅のことは後回しにして、より深刻な被害に見舞われた人々を助けた。
 
「やることは多い。ひとつ終われば次がある。まずは救援物資の配付、それから炊き出し、医療センターの設置、そして倒壊した建物の調査」竹山鎮延平小学校の曾彩琴先生は当時を振り返って述べた。自宅でガラスの破片を少し片付けると、すぐにボランティアの制服を着て、救助に向かった。夜暗くなっても被災した自宅には帰らなかった。「私の家族は竹山中学校の校庭に避難しましたが、私は行きませんでした。慈済でやることがあり、あまり遠くへ離れたくなかったので、自家用車の中で眠りました」。
 
慈済は、台中市、台中県の霧峰、豊原、新社、東勢、南投県の埔里、草屯、中寮、竹山、集集などの地で、三十カ所の支援拠点を設置した。炊き出しやテント、寝袋、布団、携帯ライト、保存食などの生活必需品を提供し、二十四時間体制で被災者や救援人員をサポートした。
 
被災した人々が慌てて逃げ出した時、着の身着のままであったことを心配し、法師はボランティアにこう指示を出した。「今、被災者はお金を必要としています。すぐに救難慰問金を配付してください」。
 
「まずは、皆が家にあるお金を持ち寄ったけれどこれでは足りない」「銀行で引き出してください!」「停電で、銀行も閉まっています」。台北、台中の慈済人の報告によると、停電により、ATMも機能していないという。慈済本部は花蓮の銀行で現金二千万元を引き出し、台北と台中の被災地へ至急送り届けた。
 
●台北松山の「東星ビル」倒壊現場で、ボランティア達はサービスセンターを設置し、被災者と救助隊員に対する後方支援を行った。(撮影・林鳳琪)

全台湾が協力し 苦難を乗り切る

二十一日午前十時過ぎ、台中の慈済ボランティアはまず集集鎮の役場に集まった。救援車両に慈済の旗を掲げ、急ぎ救援物資を運び、被災地の人々に力を与えた。
 
林慎はボランティアに急いで尋ねた。「南投は?」「もう運動場に届けました」「中寮は?」「入れません」「水里と信義、そして鹿谷は、我々のいるここが救援拠点になります」。
 
各県や市の慈済ボランティアが次々と北部、中部の被災地に到着し、災害状況の視察、被災者への慰問、救援物資の配付などの作業を開始した。「苗栗と彰化の師兄、師姐たちも来ていました。台南から来た人々はここで食事を作り、高雄からの人々は先に竹山に行きました。それぞれ行き先を分担していました」林慎は詳細に語った。
 
民間人が救済に奮闘している間、軍や警察、消防隊も黙って見ていたわけではなかった。高雄の慈済ボランティア、谷風泰は、当時陸軍総司令部作戦署の上校組長として、災害初期の救援にあたっていた。
 
「揺れが強かったので、これは震災になるとすぐ判断し、龍潭の総本部戦情センターを救援統括センターに変更しました。夜が開けるとすぐ、総司令官が最高幕僚幹部を率いてヘリコプターで中部の災害状況を視察しに行きました」。
 
震災当日の九月二十一日、陸軍総本部は豊原に指揮拠点を設置し、台湾中部に駐軍して救援の指揮にあたった。作戦命令を出して、南部の旅団クラスの一部隊、約三千人を急行させた。部隊は翌朝六時前には集集の被災地に到着して支援にあたり、また政府の各機関との連絡のため、通信体制を整えた。
 
その後、陸軍の救援統括センターは大里市の竹子坑営区に移された。谷風泰も共に駐留し、主に日々の救援活動や兵力、重機(民間提供の重機を含む)の調達や配置計画を担当した。駐留期間は一カ月に及んだ。
 
●地震の後、人々や物資が各地から被災地に集結した。深刻な被害を受けた中寮区では、慈済ボランティアが山積みになった生活物資を整理して、被災者への配付に協力した。(撮影・蕭耀華)
救命活動における黄金の七十二時間に、国軍、消防隊および民間の災害救援ボランティア達はがれきの下に閉じ込められた人々の救助に全力を尽くした。アメリカ、日本、韓国、ロシアなど二十カ国から、三十八の支援部隊も台湾に到着し、救助に加わった。不眠不休の努力により、幸い助かった人もいたが、重傷により命を落とした人の方が多かった。
 
「国軍はたくさんの『ご遺体袋』を集集に届けました。集集の死傷者は悲惨なほど多かったのです」と谷風泰は慨嘆した。軍のほか慈済も直ちに一千六百個の遺体袋を提供した。また被災者の遺体を冷凍保存するため、中国造船会社から冷凍コンテナ十基を借りた。海運とコンテナ輸送に従事する実業家ボランティアであった李宗吉も配下の会社から冷凍コンテナ二基を調達して支援にあたった。
 
氷点下の低温で遺体が癒着することを防ぐため、慈済ボランティアは三十分に一度冷凍コンテナに入り、遺体の向きを変えた。「数珠はありませんか?私に一連いただけないでしょうか?」振り返ると遺体を運ぶ若い兵士が死との近さに衝撃を受けているようだった。慈済人は惜しまず渡し、彼らの心が安定するよう助けた。
 
谷風泰は、当時を思い出して語った。テントを張って料理し、救援隊の兵士に温かい食べ物を提供したり、家族を慰めたりしていたグループのことがとても印象に残ったと言う。退役後の二〇〇九年、正式に慈済に入ってからようやく気がついた。十年前震災の地で目にしたこの人々こそ、慈済ボランティアだったのだ。
 
 
慈済災害支援の統計
 
◎訳・心嫈
 
災害情況
 
◎1999年9月21日の午前1時47分、台湾中部でマグニチュード7・3の地震が発生した。震源地は南投県集集鎮で、深さ8キロ。台中、南投エリアの車籠埔断層によるもので、地表の亀裂は100キロに及び、強い揺れは102秒にも及び、台湾全土で揺れが感じられた。
◎死者2415人、行方不明者29人、負傷者11305人。家屋の全壊51711棟、半壊53768棟、全体の経済的損失はおよそ3647億元。
◎翌年、政府は9月21日を「防災の日」と定め、毎年防災訓練を行っている。
 
 
支援活動
◎31の支援対策センターが設置された(花蓮本部の総指揮センターを含む)。日常生活物資を提供すると共に、大型の炊き出し拠点を30カ所設置した。
◎19の施療ステーションを設置し、重点復興再建地域に2カ月常設し、慢性病や伝染病予防医療を提供し、延べ2052人の医療関係者を動員した。
◎1600の遺体袋と12基の冷凍コンテナを緊急に提供し、ボランティアが遺体の安置を手伝った。
◎国内外からのボランティアと善意の人々延べ18万人余りを動員して、仮設住宅、交番、消防署の臨時オフィス、簡易図書館、簡易守衛室及びお寺など1776棟が約7万平米の土地に建てられた。
◎被災した学校の支援再建プロジェクト「希望工程」は51校。
 

震災後九日 住居建設を開始

 
大地震の発生から九月末まで、慈済ボランティアは延べ十万人余りを投入し、百三十万膳の炊き出しを行い、家を失った二十六万の人々に物資や医療支援を提供した。台湾全土の善意の人々から寄付があったおかげで、物資が不足する心配はなかったが、問題は被災者の住居だった。
 
「地震の後、勤め先の学校は授業停止になったので、私は慈済の救援活動に参加しました。戻ってきた時、学校は既に避難センターになっていました」と曾彩琴先生は当時を思い出して語った。地震から七日目、授業再開の準備のため延平小学校に戻った時、校庭は被災者の立てたテントで一杯だった。断水と停電により、衛生も保てなくなっていた。
 
●慈済病院と慈済人医会は医療チームを編制し、9月21日午後に埔里、集集等被害が深刻な八地域で医療支援を展開した。(撮影・郭以徳)
 
テント生活を長く続けることは望ましくない。被災地の一日も早い復旧のため、證厳法師は五つの重点救済項目を指示された。被災地の消毒と伝染病予防、衛生設備の設置、政府の仮設住宅建設への協力、物資援助項目の明確化、そして悲しみを乗り越えようとする死傷者の家族に、長期的に寄り添うこと。
 
「身体を落ち着けることができてこそ、安心が得られます。被災者が心身ともに落ち着けるよう、住居の建設をすぐに始めましょう!」證厳法師の考えは期せずして、政府の安置政策とも一致するものだったが、住居やコミュニティの計画に求められる水準に関しては、より注意深く詳細に気を配られた。
 
被災者の心身の調和を考え、慈済の仮設住宅の間取りは、一般の住宅と変わらぬものとした。寝室を含む三部屋、リビング、ダイニング、バスルームを備える全十二坪の住宅で、一家に必要な機能が全て備わっていた。人々を励ますような住まいになればと望んだのだ。災害は一時的なことに過ぎず、一生続くわけではないと考えて立ち上がる意欲を失わないで欲しかった。
 
慈済が大愛村を建設すると知って、台中、南投、雲林など、被災地域の県や市の政府が次々に人を派遣し、また公有地の取得にも協力した。無償で土地を慈済に貸し出す善意の土地所有者もいた。九月二十九日、南投市中興新村にある徳興野球場で、慈済の仮設住宅が初の工事を開始した。続いて台中県、台中市、雲林県等の地でも、仮設住宅の工事が始まった。
 
その間、台湾全土や海外から帰還した慈済ボランティア達が、持てる技能や体力を合わせて協力し、晴れの日も雨の日も、工事を急いだ。水道電気技師である陳金伝は、当時台北から何度も南下し、東勢や南投の仮設住宅工事に参加したと言う。彼は地震の後、自ら物資を載せて運転し、被害が甚大な中寮郷に分け入った。だが単独で奮闘するよりも組織的に救済にあたった方が良いと考えたため、慈済ボランティアと共に力を尽くすことにしたと言う。彼は翌年、正式なボランティアの研修に参加した。
 
「我々は工事を仕事にしているから、これほどの工事に、普通はどれだけの時間がかかるか、よく知っている。だが多くの人が力を合わせれば、本当に早い!」陳金伝は、仮設住宅の建設期間中、現場で千人もの人々が効率よく分担して作業していた様子を思い出し、そう語った。「その目で見なければ、信じられないだろうけど。まるで早回しの映像を見ているようだった。今日地面を綺麗に片付けたと思ったら、次の日には基礎を打ち出し、まもなく外壁も出来てきた。まるで時間と競争しているような速さだったよ。皆をもうテントでは寝かせたくなかったし、地面がデコボコしていたのでこのままでは病気になってしまうと思ったからね!」
 
一九九九年十一月十五日、埔里の慈済大愛村三百二十戸が完成した。台中慈済ボランティアの洪武正はよく覚えている。住民の中に若い女性がいて、五人の子供を連れていた。ボランティアが彼女の番号を見て、家の前まで案内した。女性と五人の子供は家の前に着くなり、互いに抱き合って激しく泣きだした。
 
この母親はまだ若いのに、子供はもう彼女と同じぐらい背が高かった。洪武正と数人の師姉が事情を聞き、ようやく分かった。五人の子供のうち、背が高い方は、夫の兄の子供で、彼女が背におぶっていたのは、夫の弟の子供だった。夫の兄夫婦、弟夫婦、そして自分の夫は死亡した。家族で生き残った大人は彼女がただ一人、この先どうすれば良いのかと彼女は泣いた。ボランティアはこの家族をケア対象に入れ、生活を助けることにした。
 
九月二十九日、大愛村の工事が始まった。国内外の慈済ボランティアや善意の人々延べ十八万人が協力して、三カ月間に南投、雲林、台中県、台中市で千七百戸以上の仮設住宅が完成し、十二月二十八日に工事を終了した。
 
続いてボランティアたちは被災地の学校に向けて、希望工程プロジェクト(台湾中部大地震により倒壊した学校の再建プロジェクト。五十一校の再建を手がけた)の支援に取り掛かった。同時に、大愛村の住民たちが安心して暮らしているか、毎月訪問によるケアを続けた。慈済教師懇親会と慈済大学青年懇親会は、希望工程プロジェクトの学校で冬休みと夏休みの課外活動を催し、地震の悲しみから立ち上がろうとする子供達に寄り添った。
 
●慈済は「921集集大地震、住民と心で繋がり、愛を総動員しよう」と題する活動を発起し、ボランティア達が街角で募金を訴えた。多くの人々がこれに応えた。(撮影・洪海彭)

体と生活が安定してこそ 安心が得られる

 
「あれから二十年ですね。住民のみなさんはお元気ですか?」台湾中部大地震で深刻な被害を受けた埔里では、あの年、三カ所の大愛村が建設された。慈済埔里連絡処は二〇一九年五月、大愛村の住民だった人々を再会の場に招いた。
 
当時埔里高校の教師だった高宗暘は、自宅の建物が震災で倒壊し、帰るべき家が無くなった。幸いにも慈済大愛村が一家に最良の身のより所を与えてくれたので、安心して家の復興を計画することができた。
 
「もし初めから賃貸住宅に住んでいたら、心境は違ったでしょう。妻の心には地震の影が残っており、古い建物を見ると怖がったのです。特にれんが造りの家には、とても入ることができませんでした」と高宗暘は言う。仮設住宅に入居した時、妻は「もう地震を怖がらなくていい!」と喜んだ。理想的な住環境で、退勤後は早く家に帰りたいと思った。
 
「大愛村を離れる時、證厳法師や慈済から受けた支援を思い出し、感謝の言葉を伝えたかったのですが、その時は誰に伝えたら良いのか分からなかったのです。十七年後の今、その機会を与えられました。もう一度、感謝を申し上げます!」
 
高先生は、慈済が彼らを一番無力な時に助け、一家を心身ともに支えてくれたことに感謝している。現在彼は退職し、自身も公益のためボランティアに従事している。当時、自分たちを助けてくれた、多くの見知らぬ人達に報いたいのだ。
 
「この二十年来、慈済ボランティアは絶えることなく関心を寄せ、励ましてくれました。そして、私達が未来の生活に立ち向かう勇気をくれました」。九二一大地震当時、埔里鎮枇杷里に家族五人で住んでいた徐逢助は、地震で家が倒壊した。家計が苦しくなり、元の仕事以外にも、あちこちでアルバイトをしなければならなかった。幸いにも慈済大愛の家に身を落ち着けることができたので、一家は安心して困難に立ち向かうことができた。今年六十歳になる徐逢助は振り返って言った。「だから私は慈済の会員になりました。私も苦難にある人々を助けたいと思ったのです」。
 
あの年、多くの人々が歩んだ愛と生命の足跡は、もう消えかかっているかに見える。だが、記憶をたぐり寄せれば、今でも鮮明に思い出すことができるのだ。人と人の間の善と愛の種は、心の奥深くにしっかりと植えつけられ、決して忘れられてはいない。
 
●深刻な被害を受けた南投県中寮郷で、證厳法師が被災状況を確認していた。台中大地震の後、證厳法師は台中を拠点として被災地を奔走し、救援に関する指示を行なった。(撮影・黄錦益)
(資料提供・張麗雲、張美齢、鄭淑真、施金魚、許昆龍)
(慈済月刊六三四期より)
NO.275