慈濟傳播人文志業基金會
回顧と悟り あの年を忘れるなかれ
台湾921大地震から二十年
 
九二一希望建設で建てられた福亀小学校の階段式舞台をイメージした九九峰の図柄。
 
一九九九年九月二十一日、台湾はマグニチュード七・三の地震を経験した。草屯地方の九九峰は一瞬にして崩れ、禿山に変わった。今,山々は緑に映え、既に観光名所になっている。
 
二十年前、台湾全体で二千人余りが犠牲になり、一万人を超える負傷者を出したあの世紀末の大災害。多くの若者にとっては、「聞いたことがある」程度に過ぎない。
 
災害は傷跡を残し、過去を振り返りたくない。しかし当時、国際救助隊が被災者捜索に駆けつけ、国民が分け隔てなく再建に投入してくれた、あの情を忘れてはならない。
 
一時の無常な出来事で済ますのではなく、振り返って教訓として生かすべきであり、防災意識を高めて、大自然の力に対して己を謹み戒めるべきである。
 
 

一〇二秒の振動

●グラフは九二一地震の時、日月潭に設置された地震計で観測されたもの。地震発生時の最大瞬間地動加速値は989cm/sec2だった。(中央気象局提供)
 
大きな振幅の波形が二十年前に起きた大地の活動を物語っている。
 
その百秒を超える振動によって、この島に暮らす人々は突如あることに気づいた。遥か遠方または映画で見る出来事を自分が体験した。この足で立っている大地は強固なものではなく、身を寄せて生活している場所が私たちの命まで奪い、この世界は崩壊するのだということを。
 
激しく揺さぶられたのは周りの環境や長い人生の中で培ってきた信念だけでなく、世界との連帯感や人生観までもが変わってしまった。
 
時の経過と共に記憶は薄れるが、そこから出た影響は消えることはなく、今になっても続いている。

復興の中継ぎ

●1999年10月初め、南投県埔里鎮信義路に建設中の大愛村工事現場。慈済は地震発生から3カ月以内に被災者家族らのために、1776棟のプレハブ式仮設住宅を建てた。
(撮影・蕭錦潭)
傷を負った大地と廃墟の中に約四年から六年間、中継ぎの家としての役割を果たした小規模な集落が異なった景観を作り出していた。
 
当時、台湾全土には百十二カ所、合計五千八百五十四棟の鋼鉄枠組みプレハブ式仮設住宅が存在した。地震で住む場所を失くした人々に、基本的な生活機能を有し、風雨を遮って長い復興期を過ごす避難所として提供された。
 
様々な原因から台湾はその後の復興再建でプレハブ式仮設住宅の建設を優先しなくなったが、慈済は引き続き被災後の支援経験を活かして、様々な機能を備えた中継ぎ住宅を開発し、条件に見合った地域でその機能を発揮し続けている。
 

現場を保存し、実地教育に使う

●階層が崩れた当時の建物が台中霧峰光復中学に保存され、九二一地震を振り返る教育の場となっている。(撮影・顔霖沼)
殆どの地震災害地の建物は復興する過程で早い段階から取り除かれ、今は見ることができない。この災害記念碑のような存在は死の瞬間に時間が停止し、その標本を展示しているかのように壊滅の様相をその空間に残している。巨大な自然の力と設計不良の建築物の綱引きは勝敗が明らかである。
 
発生場所に保存しているのは、今後、益々メディアや資料に依存し、理性と想像によってしか当時の状況を理解できない世代の人々のため、一カ所だけでも直接、過去に戻れる場所を残しておきたかったからだ。記憶の保存と教育の意義の下に、実際の現場に身を置き、あの自然界の出来事を感じ取っていただきたい。
 

ハイレベルの建築基準

(撮影・洪瑞欽) 
 
五十一カ所の希望建設で建てた学校は全て、鉄鋼の柱と梁を使った他、鉄筋をきつく縛ってコンクリートで固めている。それらは全てハイレベルな耐震設計になっており、厳しい品質管理と納入検査の下に施行された。
 
その構造設計の理論と建築法規を超えた要求やそれに伴う工事の複雑さ及び高価なSRC(鉄骨鉄筋コンクリート)工法に決定したのは、過去の劣悪な建築慣習を反省し、予知不可能な自然の力に対応するためであり、また次世代の生命を守りたいという初心に基づいている。
 

自然と共存する

●九二一地震の震源地である集集小学校の後方には集集大山が見える。(撮影・顔霖沼)
完成当初の違和感に比べ、二十年経った希望建設の校舎と周りの環境はいっそう調和が取れていた。建物自体には風雨の浸食による傷跡が見られるが、大方、強固で問題はなく、子供たちを守るという当初の約束は忠実に守られている。
 
だが、それで終わりではない。将来、起こるであろうもっと極端で複雑な災害に対して、どのように対応し、それを使う人の繊細な人道的要求に寄り添っていくかが、今後、人類と自然または人同士が平和的に共存していく上での重要課題なのである。
(慈済月刊六三四期より)
NO.275