慈濟傳播人文志業基金會
慈済大学見晴医療奉仕隊の 晴天を探す旅
慈済大学医学部の学生たちは見晴村の原住民居住区を訪れ、子供たちと心を交わすことで見聞を広めた。彼らはここで拒絶されたり必要とされたりしながら、自分を再認識して柔軟かつ強くなった。そして彼らは分かったのだ。どんなに些細なことでも正しいことをやれば世界を変えることができ、自分にも他人にも晴天をもたらすのだということが。
 
 
Vネックの青い手術着に着変えると、三十歳を過ぎたばかりの牛光宇は西部にある総合病院の救急外来に入った。救急医である彼は、分秒を争う日々では迅速に死神の手から人々の命を救っている。たまに落ち着いた時はパソコンでカルテをタイプしている。彼はいつも目の前のやるべき事に専念する有能な人間であり、医学部を卒業して十年目ですでに主治医師に昇格していた。だが多忙な彼には医学生時代を回想する暇は余りない。
 
一年ほど前、彼は台湾から直線距離にして九千キロ以上離れた太平洋に浮ぶキリバス共和国へ医療支援に行ったことがある。その時、台湾では救える命が此処では医療不足のために、救われていない現実を目の当たりにしていた。
 
心痛のあまり彼は、小規模のICU病室の建設に着手し、一年間の滞在期間中に緊急医療の手引きを編集し、初期検査や診療の振り分けなどの方法を設計し、この小国家で初めてICU病棟を立ち上げた最初の台湾人医師且つ推進者となった。
 
「それが正しいことならば必ず誰かが助けにきてくれる」この言葉は牛光宇の座右の銘であり、信念でもある。
 
二○○二年、彼は台南から中央山脈を越えて花蓮の慈済大学医学部に入学した。最初の四年間は多くのサークル活動に参加して、積極的に実力を蓄え、五年生の時には医学部学生会の会長に推薦された。その時の彼の夢は一学年に一クラス五十名しかいない慈済大学医学部で一年生から七年生までのうち求心力のある学生を集めて、それぞれ医療の専門を発揮させることだった。
 
彼はかつて離島や山間の部落へ行って奉仕したことがあった。彼の目から見た原住民の生活は自分たち程良くないが、何時も行く度に現地の人たちとの真摯な付き合いの中で、最も感激を受けたのは子供達との出会いだった。「私たちがしてあげられる事に限りがあっても、子供達は私たちを信じて仲良くしてくれるのです」と語る。
 
先住民から信頼を仰ぎ、堅い友情に結ばれながらも、振り返って考えると東部唯一の医学部の学生として彼らに対し何ができるだろうかと思った。「私はこの土地に対して、例えようもない感情が生じ、『責任』を感じました。通りすがりの旅行者ではなく、彼らの仲間になれるよう努力しなければ」と思うようになった。
 
台北から花蓮へは他の大学のサークルも奉仕をしにきている。花蓮の慈済大学は山間部に最も近い大学なのだから、なおさら山奥の村々に入って奉仕しなければならないと牛光宇は考えた。そして医療奉仕隊を組織するという考えが芽生え、次第に支持を受けるようになり、医学部副会長の荘傑貿、大学四年生の陳則叡、林進偉、三年生の連子賢、顔志傑、二年生の林偉琳、厳嘉琪、一年生の盧星翰、陳亮萱らが参加した。
 
何事も始めはすべてに困難が付きものだ。協力者を探すこと、拠点選び、指導教師を求めること、経費の募金等一歩一歩進めなくてはならない。幸い行動を始めようとした時、各界からの支持を受けた。中でも慈済大学医学部主任の許明木医師が経費の支援など多くを提供してくれた。
 
これは錦上に花を添える程度ではなく、雪中に炭を送る支援となった。なぜなら学生にとって資金集めは最も困難な事なので、それさえ十分であれば大手を振るって前進できるからだ。
 

目的を調整して自信を取り戻す

一回目の奉仕は鯉魚潭付近の銅蘭小学校を選んだ。小学生の学童保育と衛生教育を行い、良い結果を出したが、問題も次々に浮かび上がった。東部地域における奉仕隊の必要性をもう一度考えなければならなかった。子供たちは休日になると、外部からやってくる学生のイベントにいろいろと参加しているので、本当に必要なのは平日付き添ってくれる現地の大学生なのである。
 
そこで中心幹部は活動の目的を調整し、次の冬休みの研修会には現地の要望に応えるだけでなく、すべての後輩達に自信を取り戻させなければならない。
 
最初に萬栄郷の見晴小学校を訪問することになり、医学部六年生に進学する牛光宇と隊長を引き継ぐ陳則叡、次回の担当者となった顔志傑の三人は国道九号線を見晴村へとバイクを走らせた。
 
直線道路をひた走ると沿路は山脈、街路樹、雑草が続き、たまにぽつんと家があるだけで、三人は通り過ぎたのではないかと思ったが、寿豊郷と鳳林鎮を過ぎて右折した小道から中央山脈に向かって前進すると小さな村が見えた。
 
ここが中央山脈の麓にあるタロコ族居住地区で、現地の人が「みはらし」と呼ぶ場所だった。水田に沿った道を曲がり雑木林を抜けると、カトリック教会とプロテスタント礼拝堂、小学校、集会所等の建物があちこちに見えた。
 
見晴村は萬栄郷の中で最も規模が小さい。以前はトウモロコシ、落花生、サトウキビ半年に一度収穫される農作物や稲が植えられていたが、今ではもう見られない。実際に見晴村に住んでいる住民は四百人あまりで、それも子供や年寄りが大部分である。唯一の小学校である見晴小学校の児童数は四十七人で幼稚園児は十八人だけだった。
 
彼ら先発隊が着いた時の第一印象は「見晴村は世の中から取り残された山奥」だった。村全体が眠りの中に静まり返っているようで、たまにやせ細った犬を見かけるだけだった。幸い静まり返っている小学校の敷地は整然としていて、教材も揃っており、一クラスの人数は十数人だった。
 
学校側の話によると、普段、児童は下校すると何もすることがないそうだ。大多数の両親は西部で職に就いたり出稼ぎに行っており、祖父母と生活している子供が六割から七割に上る。遊び相手がいなくて、祖父母の言うことも聞かないため、外でぶらぶらしているという。
 
学校側は大学生の奉仕を歓迎しているが、厳しい面もあり、当時の教務主任の許寿亮は、医療奉仕隊は奉仕の内容を先ず学校側と討論し、慈済の医学生は水面に止まるトンボのようにではなく、学期中も冬休みも定期的に活動を行って関係を継続してほしいと頼んだ。
 
許主任は医療奉仕隊に協力を願い出た。教育現場或は居住地区の問題に限らず、学校側が重視している事柄を奉仕隊から伝えてもらったり、劇やイベントを通して体験させることで子供達に進歩して欲しいと願ったのだ。同時に見晴での奉仕内容は、活動が終わっても学校の授業で取り入れていくことになった。
 
毎年の見晴村に
毎年の合宿期間子供たちが最も期待するのは早朝の歌と体操である。見晴らし隊員は様々な授業の教案を立てて子供たちが交流しながら学ぶ意欲を駆り立てている。医学生は三角巾による傷口の縛り方を教え、子供たちはタロコ語を教える。「地域地図」の授業では子供たちが隊員を居住地に案内して紹介し、一緒に清掃する。

ここの一員になれるように

医療奉仕隊は新たな心構えで見晴小学校の意見を受け入れ、銅蘭小学校での経験を以て足並みを調整した。学生は奉仕を受ける子供達にとって重要なことは「医療」ではなく、寄り添いである事が分かったのだ。それが彼らの最大の目的となった。
 
牛光宇はまた、自分たちは「医療」と言う看板を掲げているのだから他の奉仕隊と異っていると思っていたが、台湾には全民保険があって医療は相対的に普及し、実際無医村は少なくなってきている。更に大きな思い違いは医学生のやる医療には「限りがある」か「用をなさない」に近いということだった。
 
当時慈済大学医療奉仕隊を設立した時の理想は、すべての隊員が奉仕の機会を通してこの土地について理解を深めることだった。牛光宇は、以前花蓮や東部に医師が長く留まることがなかったのは事実だと言う。「私の理想は医療関係者が皆この土地に愛着を持つようになることであり、医療を通して何かを変えようとしたいのではありません」と言った。
 
初めて医学を志した頃の情熱を抱いたままの学生達が力を尽くした七年の学生生活の中で、その体験は学校内の授業や実習だけにとどまらなかった。実習が終わると比較的生活環境の良い所へ行く方がいいだろうか、それともここの人達と共に成長し、そこの風土を認識して卒業後もここに留まることにしようか、と考えたものである。
 
そこで、医療を主要目的とせず、部落の認識と長期的な子供たちへの寄り添いを目的として、二○○七年中央山脈からさらに南の萬栄郷見晴村へと医療奉仕隊は前進し、少し長いが新しい名称「慈済大学医学部見晴村医療奉仕隊」、略称「見晴らし奉仕隊」が改めて誕生した。
 
●見晴らし奉仕隊は毎年冬休みに2泊3日の合宿を行っている。写真は2018年の記念撮影。
初めて見晴らし奉仕隊が出発したのは冬休みが終わった四月から五月にかけてだった。学生たちは二台の観光バスをチャーターして、教材や色々の道具を用意し勇んで学校へ向かったが、思いもよらず土砂降りの大雨。これでは誰も来ないかもしれない。隊長が廊下へ行ってみたが、校舎は一列の建物しかなく、運動場は雨で水浸しで、雨を遮る建物はなく、このまま雨が降り続ければ活動は流れてしまう。
 
そのうち思いがけず一人又一人と子供が訪れ、誰が来ていないかわかると、走って呼びに行ってくれた。高雄で育った顏志傑は熱い思いに駆られた。ここの子供たちは都会と違って皆、知り合いで、約束を守るのだ。雨であっても、ケータイを持っていなくても、約束通り来るのである。
 
初めて来村した医学生による奉仕隊は五十人ほどだが、見晴小学校は一年生から六年生の全校生徒でも五十人足らずである。雨の中の初顔合わせで、医学生たちは情熱的な表情を浮かべていた。活発な子もいれば、恥ずかしがり屋、無表情の子供、怯える子など様々で、中にはおしめをしている子もいた。
 
そのうちに途中から入る者、父兄が弟や妹、おしめを付けている幼児まで連れて来たので、まるで託児所のようになった。学生は小学生に、用を足した後や食事の前には手を洗うこと、食事の作法、歯ブラシの使い方、そして蟯虫検査のやり方をゲーム形式で伝えた。子供達は盛り上がり、学生の背中に上る子もいた。
雨だったため、初めての活動は教室で行われた。初めは皆、がっかりするものと心配したが、思いもよらずいつまでも遊んでいたそうだ。学生が引き上げようとした時「何時また来てくれるの?」と口々に言う子供たちに、学生たちは心が温かくなり、責任感のようなものを覚えた。始めは交通が不便な上に雨だったので一回きりになるかと思っていたが、二度、三度と来るようになり、その度に参加する子供たちも増え、心配も消えていった。
(慈済月刊六二八期より)

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