慈濟傳播人文志業基金會
心霊が正しい方向に向っていれば、 人生に価値がある
両手を差し出して大衆を利し、
 
出向いて苦難の人たちを助けましょう。
 
心霊が向かう方向がはっきりしていれば、価値のある人生になり、
 
日々心安らかで自在になります。
 
 
一年一度の歳末祝賀会では、あちこちで新年を祝う声が賑やかに聞こえ、溢れる喜びが皆を祝福していました。しかし一年が過ぎ去ると失望感にも襲われます。誰も命の長さを予測することはできませんが、この一生を得て人間界に来たからには、己の生命には意義があるはずですが、それは達成され、それも深く広いものだったのでしょうか?常に法を聴いて、無常を理解しても本当に思い切ることができるでしょうか?
 
常々皆さんは孫を抱いて私の前に来て、私に頭を撫でてもらい、祝福してほしいと言われます。次世代の平安を願う愛は真心から来るものです。子供たちは家庭の希望であるばかりでなく、社会の未来の希望でもあります。しかし、出生してから成長するまで、平穏無事に両親や祖父母の願いを達成して、この世で社会に貢献できるのでしょうか?
 
気候に恵まれている台湾では、多くの人が福を造っており、台湾に生まれた子供たちは幸せです。世界に目を向けると、天災や人災が絶えず、今でも多くの人が支援を求めています。慈済は半世紀を超えて慈善活動を行い、「竹筒歳月」の五銭に始まって少しずつ累積したものですが、「ある程度まで貯めてから救済」したことはありません。助けを必要とする人がいれば、直ちに支援しています。支援の費用は人々の日々の発心によるもので、それは家庭生活に影響しないばかりか、善を貯蓄しているのです。
 
人を助けられる人は幸せな人です。善を積む家には必ず喜びがあり、自分の平安の為、また子孫のためにも持続して福を造って人々を導き、大地を護って人心の浄化に努めましょう。
 
二〇一九年十二月の歳末祝福会のための行脚は、南部から北上しました。屏東では法号に「静」の頭文字が付いているお年寄りたちの近況を聞くと、皆年を取って外出ができない様子でした。私は現地の慈済人たちに、私に代わって彼女たちの世話をするよう言付けました。
 
彼女たちは来られず、私も行くことができません。しかし師弟の縁は深いのです。生命には限りがあり、私も同じくこの一、二年の間、突然人の顔を忘れることがあります。人それぞれ老いて、老いと共に容貌も変化しますが、幸いにも皆さんはまだ私を忘れていません。
 
自然の法則はそうですが、私は自分に「この生涯に遺憾はありません」と言いきることができます。若い時は親に孝行を尽くして家を守り、両親を悲しませたことはなく、出家後は導師の下さった二言「仏教の為,衆生の為」を守り通してきました。何の遺憾もないのは、私の周りに慈済人がいるからです。
 
行脚の時、毎朝のように慈済人たちが接客室に来ます。職歴や学歴の高い、低いに関わらず、感想は深みと広さがあるものでした。なぜなら慈済の志業を成して世間の諸々を見尽くし、大衆の中で多くの試練を受けたのですが、経験のたびに智慧が増すばかりでなく、世間で福を作り出すと同時に智慧が成長しているからです。聴いていると、私がしようと思っていることを弟子たちはみなやってくれています。志と願を体得する人もいれば、それを続ける人もいて、とても喜ばしいことです。
 
師弟共に無私で奉仕に尽力し、慈善活動、病院の建設、教育志業及び人文を伝承するのは自分の為ではなく、社会にとって重要なことを正しく行うためです。慈済人の奉仕には企みはなく、名利を求めず、地域社会で貧しい病人に寄り添うときには何の目的もなく、ただ愛があるだけです。環境保全ボランティアは大地が傷つくのを見るに忍びず、物を大切にしているだけなのです。慈済人は四大志業、八大法印の全てを成し遂げている菩薩です。
 
もしこの生命を善に活用せず、日々を虚しく過ごし、ただ資源を消費して環境を汚染するだけなら、地球は危機に瀕するようになるでしょう。或いは心念に偏りがあって、道を踏み誤って煩悩に満たされたならば、とても苦しい日々になります。それよりも日々楽しく、はっきりした意志で菩薩道を歩んで、心は正しく、両手を使って人々を利し、行ける所ならどこでも出かけて人助けができる日々は、心安らかで自在になれるのです。
 
縁を逃さず生命を善用して価値のある日々を過ごせば、悔いはありません。皆さん心して精進に励みましょう!
(慈済月刊六三九期より)
NO.279