慈濟傳播人文志業基金會
西アフリカの暗闇に輝く小さな光
シエラレオネ共和国
 
 慈済のシエラレオネ共和国に対する支援は、五年前のエボラ出血熱の発生をきっかけに開始された。関心と支援を深めていくうちに、より多くの人々が生命の瀬戸際に立たされていることを知った――
 ストリートチルドレン、水害後の貧困地域、医療資源の乏しい障害者コミュニティ……
 現地で三つの慈善組織と手を携え、小さな光で暗闇を照らし続け、変化の契機の訪れを待つ。
 
●フリータウンのクールヴェルト地域は水災の深刻な被害を受けた地域の1つである。500人の住民に対する初の物資配付は午後から夜にかけて行われ、電力不足の状況下で、車のヘッドライトを頼りに続けられた。
 

生きるための戦い

シエラレオネ共和国で現地の三つの慈善組織と慈済とが協力して行う配付会場では、毎回大小様々な騒動が起こり、ボランティア達は秩序を維持するために奮闘している。会場に大勢の人々が押し寄せる光景は、貧困、疫病、天災に苦しむ人々が生きていく最低条件を維持するため、毎日戦わなくてはならない困難を映し出していた。

 

 

 

砂漠の花を守る

ボランティア達が「砂漠の花」コミュニティ学校に毛布や五穀粉などの物資を贈り届けると、子供達はそれを頭に乗せ、嬉しそうな顔をした。そのコミュニティは山を囲むように造られており、子供達の両親の多くは石の切削や販売を生業としている。子供たちの家庭環境は概して苦しく、朝食をとれないことも多い。慈済から届けられる栄養食品は、彼らが最も求めているものであった。
 

シエラレオネ共和国水害・貧困支援  慈済支援プロフィール

背景説明
●シエラレオネ共和国は西アフリカの大西洋岸に位置する。国土面積は台湾の約2倍、人口は台湾の約3分の1で、台湾からの距離は13000キロメートル余、フライト時間は30時間を超える。
 
●100年以上の英国植民地時代を経て、1961年に独立した。1991年に内戦が勃発し、11年間続いた。2014年にはエボラ出血熱が発生し、2016年3月に鎮静化した。2017年8月と2019年8月に洪水が相次いで起こり、貧困にある人々に苦しみを重ねた。
 
●慈済の物資は2015年に初めてシエラレオネ共和国に届けられた。アメリカの慈済人が2016年より人道支援を開始し、長期支援計画が始まった。2019年11月中旬より18カ所で配付を行い、8月の洪水被害を受けた地域及び長期支援機関に対して五穀粉、毛布、古着、白米等の物資を届け、10644人がその恩恵を受けた。
協力パートナー
・カリタス・フリータウン基金会(Caritas Freetown Foundation)
・ヒーリー国際救援基金会(Healey International Relief Foundation,略称HIRF)
・ランイ基金会(Lanyi Foundation)
 
西アフリカのシエラレオネ共和国と言えば、何年も前に上映された著名な映画『ブラッド・ダイヤモンド』を思い出す人も多いことだろう。物語はこの国の置かれた状況を背景にしている。この国では鉱業権と武器の資金源を争って、残酷な内戦が一九九一年から二〇〇二年まで十一年間続けられ、二十万人が死亡し、二百万人が家を追われた。
 
シエラレオネ共和国の村や街を歩けば、今でも内戦の爪痕が、この国に消えない傷を残していることが感じられる。
 
近年シエラレオネ共和国は、二〇一四年のエボラ出血熱の大発生によって知られることの方が多くなった。疫病との戦いは十八カ月に及び、二〇一六年三月にWHO(世界保健機構)がエボラ出血熱の終息を宣言するまでの間、一万四千人余が感染し、四千人近くが死亡した。この疫病が家庭や衛生システム、そして社会構造を破壊し、経済は成長から衰退へと転落した。
 
慈済がシエラレオネ共和国に足を踏み入れたのも、これが原因であった。アメリカの慈済人を中心とする支援チームが現地組織との連携を開始し、カリタス・フリータウン基金会、ヒーリー国際救援基金会、ランイ基金会などと協力しながらエボラ出血熱の生存者や保護機関を長期的に支援し、物資の配付を続けた。それが、今年で四年目を迎える。

雨による災害、貧困者の宿命

慈済と協力する組織の多くは現地支援に長年深く携わっており、慈済にとって大切な手と目の役割を果たしてくれている。二〇一九年八月、協力組織からの情報により、フリータウンで甚大な水害が発生し、住民達が水没した家屋から緊急避難したとの情報を知った。特に河口や窪地など辺境地域に住む貧困層の人々は、支援物資を緊急に必要としていた。
 
カリタス基金会、ヒーリー基金会のボランティア、そして慈済の現地ボランティア達は、慈済が過去に行った配付の過程で、その支援方法については熟知していた。水害後には政府の信頼を得て名簿作成や物資配付を任された。ランイ基金会もすぐに動き、慈済の寄付した白米を使って住民のために炊き出しを行った。
 
慈済花蓮本部は第一線からの災害情報を受けると直ちに支援情報を整理し、證厳法師に救済方針を仰いだ。白米、五穀粉、古着が現地へ届くと同時に慈済人が自ら現地に赴き、證厳法師と世界中の慈済人の愛と祝福を貧困と天災に苦しむ人々に直接手渡したいと願った。
 
支援団のメンバーリストについての指示を幾度か尋ねる中で、私も現地へ向かいたいとの意向を證厳法師にお伝えした。今まで證厳法師は私のためを思い、長すぎる旅が家族の世話に影響しないよう、常に配慮してくださった。そのため、「あなたのその願いが十分に強いのであれば」とだけおっしゃられた。
 
十一月中旬、三十二時間のフライト、乗り換え、待ち時間、渡し舟等を経て遂に、幾度となく悲惨な状況に置かれてもなお、無限の生命力を有するこの地に降り立った。そこに来て私は、證厳法師の言葉の意味をようやく理解した。
 
アメリカ、台湾、マレーシア、南アフリカなどの国や地域から集まった二十二名のボランティア達が現地の団体と協力し、九日間のうちに十八カ所で配付を完了させた。地元の慈済人がいない国では、実に苦労を伴う作業であった。協力してくれるパートナーには、大いに感謝しなければならない。彼らが證厳法師や慈済に対して一定の理解と尊敬を示してくれたこと、また彼らが当地で長きにわたって慈善活動の基礎を築いてくれていたことが、配付の大きな助けとなった。
 
●ランイ基金会と慈済が連携し、エボラ出血熱生存者のコミュニティで農業を指導した。今では稲を年に2回収穫することができるようになり、女性の自立にもつながっている。ボランティアが来訪して、収穫の喜びを分かち合った。

初めての配付は日没後に完了

第一回の配付は首都フリータウンのクラインタウン(Cline Town)地区の海辺に位置するクールヴェルト(Culvert)コミュニティにて行われた。準備時間が限られる中、交通渋滞で物資の到着が遅れ、また受付で世帯毎の人数を確認することが容易ではなく、長い待ち時間が一部の住民の焦りを生んでいた。
 
炎天下で気温が摂氏三十一度もあり、人々の衣服は濡れたり乾いたりを繰り返していた。この時、慈済花蓮病院感染科の鄭順賢医師が衛生教育として、簡単な掛け声と動作で住民に正確な手の洗い方を教えた。こうした一連の活動や声かけによって、住民は集中力を保つことができた。
 
この待ち時間のうち、皆を一番喜ばせたのは、女性達が慈済花蓮病院産婦人科の陳宝珠医師を踊りに誘った時だ。湧き出す音楽と踊りが、人々の心と感情を大きく解き放つきっかけになった。
 
空が暗くなりはじめたが、まだ物資を受け取っていない人々が大勢列に並んでいた。完全に暗くなる前に配付を終えようと、団員の一人一人が最後の力をふり絞ったが、時間は無情に過ぎていった。会場には電力がなかったが、ヒーリー基金会の用意した簡易照明システムのおかげで配付は夜七時過ぎまで続けられ、ようやく完了した。住民が収穫満載で帰宅するのを見て団員達は一安心し、翌日の配付に向けて引き続き尽力した。
 
「女は男のように働き、男は超人のように働く」という言葉は当時の状況を形容するのには足りないぐらいだ。団体訪問の二週間、私はほぼ毎日普段の二倍の食事をとった。地元の住民は一日に一、二回の食事のみで終日働いていた。
 
●住民が並んでエコ毛布や台湾で集められた古着を受け取っているところ。昼夜の激しい温度差に対応するためである。

疫病に別れを告げ、偏見をなくす

エボラ出血熱と聞くだけで、多くの人は顔色を変える。シエラレオネ南部の州都であるボー地区(Bo District)には、エボラ出血熱の生還者が集中して居住するコミュニティがあり、女性達が情熱的な歌と踊りで私達を迎えてくれた。彼女達の明るい色彩の衣服はとても眩しく、慈済人と協力パートナー達の来訪を迎えるため、特別に着飾ってくれたに違いないと思った。
 
オレンジ色の服を着た女性が、現地のクリオ語で歌を歌ってくれた。その歌詞は、エボラ出血熱が広まり命を奪っていった時のこと、患者の苦しみ、ぶり返す骨の痛み等、彼らの経験を物語るものだった。生存者の中には親戚の多くを失った者もいる。僅かに生き残った彼らはこのコミュニティに集められ、お互いに支え合って生きている。
 
我々の協力パートナーは常に、疫病の生還者は普通の人々であり、正常な扱いを受けるべきだということを現地社会に訴えてきた。我々が持ち込んだ白米は、台湾や全世界の慈済人の愛の象徴である。これらの支援物資が役立つ期間は短いが、彼らが最も必要としている愛と祝福を深く感じてもらえるに違いないと思う。
 
団員は人々の中に一人の可愛らしい幼児を見つけた。皆がその子の置かれている状況を哀れみ、代わる代わる抱っこしている様子を目にし、私も思わず彼女の頬に口づけをした。数日後、写真を見た皆が私に尋ねた、「ここでは安易に口に物を入れたり、手で物を触ったりしてはいけないというのに、子供に口づけをするのは大丈夫なの?」と。私としては、心の底から感情が溢れ出したその瞬間、起こり得る危険性を思わず忘れてしまったのだった。
 
●慈済支援団は2カ所の児童更生施設を訪問した。花蓮慈済医院の陳宝珠医師が少女の編み物の技術に感心し、より多くのかぎ針編みの方法を紹介しているところ。

色あせた青春に必要な希望

滞在中、我々は二カ所の児童更生施設を訪問した。何重にもなった鉄製の扉の奥に閉ざされていたのは、多くの青少年の人生の希望であった。
 
配付の過程で分かった事だが、多くの家庭は大変複雑で不完全な状況にあった。一家の生計を立てる役目を、女性が一人で背負っていることもある。
 
父親のいない家庭では、成長期の子供はエネルギーの制御方法を知らないかもしれない。そのために過ちを犯し、喧嘩やもめごとに巻き込まれ、時にはその中で思いがけず殺人を犯してしまうことさえある。そこにいた一人の少女は、自分と母親が酷い目にあった時、自分を守ろうとするなかで手を滑らせ、相手を殺してしまった。その日、陳宝珠医師が毛糸の編み方を教えると、彼女はすぐにそれを習得した。生来聡明な彼女は、ただ学習の機会が欠けていただけなのだ。
 
アメリカの劉鏡鏘師兄が慈済と大愛の精神について語るのを、男の子達が注意深く聞き入っていた。正しい父親の役割というものが、彼らの生命にはとても重要なのだと確信した。そのうちの一人の男の子が、もう十四カ月もここに来ていて、十二月には出ていくけれど、もっと教育を受け勉強する機会が欲しいと言った。慈済人は彼を心から祝福し、将来彼がボランティアとなって、他者を助ける人生を歩めるようにと願った。
 
●シエラレオネ共和国では、子供の成長にも多くの困難がつきまとう。慈済団員林裴菲は幼児の無事な成長を願った。

縁を把握し、劣勢を覆す

この度の団員の一致団結した努力により、慈済人を象徴するブルーのシャツに白いズボン、慈済の言葉、そして仏教の大愛の精神が現地に花開いた。だが、これは始まりに過ぎない。多くの背景があるこの地において、慈済の種が芽を吹き、根を張る日を迎えるまでには、長い将来にわたって努力を続け、深く関ることが必要であろう。
 
もとの便利な生活に戻ると、慣れるのに時間がかかった。だが、以前は見過ごしていた生命の豊かな色彩を感じるようになり、人に感謝することも増えた。證厳法師が願われるアフリカ転換の願いは、どうすれば本当に叶うのだろうと考えるようにもなった。
おそらく、私達が現地の自力更生を励まし、彼ら自身が助け合い平和に共存できるようになった時こそ、本当の契機が訪れるのだろう。より多くの人が共にこの地を歩いて、慈済の歴史を描いていって欲しいと願う。
(慈済月刊六三八期より)
NO.279