慈濟傳播人文志業基金會
母さんの善言は最も心が温まる
潘廖葉
1945年生まれ、
1987年に慈済委員に認証された。
懿德ママのキャリア:30年
 
懿德ママとして世話している子に対して客観的な立場で接し、優しい態度でコミュニケーションを取れば、より多くの本音を聞くことができ、温かさを感じてもらうことができる。「自分の子供に対して、気持ちを楽に持って執着せず、善言を多く使って祝福すれば、子供はもっと良くなるのです」と潘廖葉さんは反省をこめて言った。
 
潘さんが懿德会で世話していた女の子、小芳から電話を受け取ったあの年、小芳は既に慈済護専(看護専門学校)二年制看護学部を卒業して病院で働いていた。彼女は電話の向こうで泣きながら、お父さんが南部で亡くなったと言った。       
私は彼女と台北で待ち合わせ、彼女に付き添って屏東まで行った。着いた時は既に夜明け前の五時頃だった。家に入ると、お兄さんと母親の二人が寄り添ってぼんやりしていた。お父さんの遺体はまだ家に戻っておらず、何処に置かれているのか分かっていなかったのだ。
 
お父さんは工事現場で事故に遭って命を落としたらしく、当時はまだ携帯電話が普及していなかったため、潘さんは警察で聞いてみようと提案した。いろいろ聞き回ったところ、遺体は市立葬儀場に安置されていることが分った。彼女は小芳とお兄さんを連れて安置所に向かい、小芳は多くの遺体の中から、黄色の雨靴を目印にお父さんの遺体を見付けた。
 
「彭さん、私は小芳の懿德ママです。何も怖がることはありません。あなたはこの世との縁が尽きたのですから、あらゆる事を忘れて、落ち着いて私と一緒に念仏を唱えましょう」と潘さんは腰をかがめて、この世を去ったとはいえ初対面である一家の主人に向かって話しかけた。
 
潘さんは小芳とお兄さんを母親の迎えに行かせると、屏東の地元ボランティアが手伝いに来るまで、一人朝まで助念した。その後、小芳一家に付き添って検察官による検死、遺体の着替え、冷凍室への搬送など複雑な事後処理を手伝った。処理すべきことを大体済ませると台北へ戻った。
 
「母親というのは強いものかもしれませんね」と、潘さんは当時の事を思い出して言った。その時はただ小芳のために急いでお父さんの遺体を探そうと思ったそうだ。
 
「彼女一人で崩れてくる天井を必死で支えているような気がして、懿德ママとして手伝ってあげたい一心でした。全く怖いとは思いませんでした」と言った。
 
潘さんは小芳が護専に在学した二年の間付き添い、卒業後二十年経った今でも、よく連絡を取り合っている。
 
「その愛の力は目に見えませんが、今までずっと私をささえてくれました」と小芳が言った。
 
小芳は慈済中学校で看護師の仕事に就いた後、母校の慈済科技大学で教鞭を取っている。家庭環境の厳しい学生に出会うと、彼女は戸惑う学生の手をしっかりと握り、支えてあげたいと思うそうだ。以前、自分が懿德ママの付き添いに温かさを感じたように。
 
●慈済護専の第3期卒業生である小芳(左)は、あるイベントで感謝の心を込めて潘廖葉に花束を贈った。あの愛の温もりは目に見えないが、その影響力は今でも続いている。(撮影・曾東勝)

心配はしても煩悩を抱えない

潘さんは慈済護専が創設された二年目から懿德ママになった。その時は四十五歳で、今はもう七十五歳である。その間に付き添った子供たちは、各大病院の主任になっている人もいれば、慈済病院に勤務している人もいる。皆医療の仕事に従事してそれぞれの領域で良能を発揮しており、その多くが今でも彼女と連絡を取り合っている。
 
護専の学生は殆どが十五歳になって初めて家を離れるので、親が心配するのは当然であるし、心配と同時にお互い言い争いが絶えない。毎月懿德の日で花蓮に行く前、潘さんは親御さんに電話をかけて子供に言付けはないかと聞き、帰ったらまた、電話して子供の無事を報告した。
 
定期家庭訪問は、親御さんが懿德ママに子供に対する心配事を話したり、子供の悩みを話してくれる機会であり、互いにその秘密を厳守して、子供を指導する適切なタイミングを待つ。親が一番心配するのは子供の交友関係や、成績が思う通りにいかないことなどである。このような経験は潘さん自身にも覚えがあった。以前の自分はせっかちな性格が原因で、子供にひどいことを言って親子関係を悪化させたことがあったのだ。
 

【教育に関する證厳法師の教え】

親になるのは大変なことで、
愛と教育のバランスを保つことは難しいのです。
しかし、心の中の愛は表現すべきであり、
この世でどのようにして人同士が愛し合い、
交流するかを子供に知ってもらうのです。

お母さんの言葉は耳に優しい

慈済に入って懿德ママになる前の潘さんは、ちょうど嫁姑関係と親子関係が深刻化して戦々恐々としていた時期にあった。
 
彼女は子供の頃から学校の先生になるのが夢だったので一生懸命勉強し、村で初めて台北第二女子中学に合格したが、父と兄が相次いで亡くなったため、やむを得ず進学を諦め、家計を支援するために工場で働くことになった。二十歳の時、母の言われるままに潘家に嫁いだ。姑は気性がさっぱりしていて四色牌(カードゲーム)が好きで、夫は小学校しか出ていなかったからか、人情に厚い人だったが、彼女には我慢ならない習気もあった。
 
●潘廖葉(後列左から2人目)が中学2年生の時、クラスメートと撮った写真。成績優秀な彼女は父と兄が相次いで亡くなったため、中学卒業後、進学を諦め、家計を担うことになった。(写真提供・潘廖葉)
  
彼女は三人の子供が自分と同じ轍を踏まないようにと思って、厳しく育てた。長女は母親の苦労を見て、いつも優秀な成績を取り、自慢の子だった。長男の志明は姑に溺愛され、彼女はいつも子育てのことで姑に責められた。
 
長男は五年制高等専門学校の電機学科に合格しても、再受験して建国高級中学(台湾の名門高校)に受かる自信を持っていたが、彼女は息子が本気で勉強するとは信じられず、また合格した電機学科も悪くないと思い、「今のままでは無理でしょ?大人しく専門学校に行きなさい」と冷や水を浴びせた。長男はやむを得ず専門学校に寄宿し、祭日になっても家に帰らなかった。彼女が心配して電話をかけると、二人はいつもちょっとしたことで言い争った。
 
「母さんは僕が小さい頃から悪い子だと言っていたけど、クラスメートに比べたら、まだまだマシだよ!」。志明はタバコ、テレビゲーム、バイクの暴走、マージャンまでをやりだし、とうとう学校の成績は半分以上が不合格になり、自分で休学の手続きを済ませると、彼女にそう報告した。
 
彼女は四十歳の時に慈済と出会い、悩みを抱えて證厳法師に息子のことを話した。證厳法師は彼女に優しく、「親は子供の運命を決めることはできません。ただ良縁を広く結んで、その良縁が自分と子供に回って来るようにするしかありません。毎日子供を叱るばかりでは、子供はどうして言うことを聞いてくれるでしょう?親として、子供の幸せを祈ってあげなければ、誰が祈ってあげられるのですか?」と言った。
 
以前、彼女は、子供に対する期待は子供のためだと思っていた。今は全ての執着を捨て去り、語気を改め、子供の話に最後まで耳を傾け、子供が気落ちした時に追い討ちを掛けるようなことは止めようと決心した。子供の話が終われば、先ず賞賛し、その後で自分の意見を言うが、最終的には子供の決断に任せる。志明も母の話し方が演劇しているようなのに気づいていたが、聞いていて悪い気はしなかった。
 
祝福する心で子供を認めてあげれば、徐々に互いに理解し合うことができるのだと彼女は気が付いた。志明は兵役を終えた後、もう一度勉強し直し、順調に大学への転入試験に合格した。
 
彼女の人生は波乱に満ちたものだったが、当時、冷や水をあびせてしまった長男にとっては今でも記憶に新しく、結婚してからは母親のような子育てをしないようにと自分に警鐘を鳴らしている。
 
波乱を乗り越え、懿德ママになった後、彼女は、世話している子供たちに対しては客観的な態度で接し、優しくコミュニケーションをとることで多くの本音を聞き出すと、そこで彼らが温かさを感じていることに気付いた。親は血縁者への執着にとらわれず、子供を自由にはばたかせてこそ、親子の愛は永く続くのだと彼女は体得した。(続く)
(慈済月刊六四〇期より)
 
NO.281