慈濟傳播人文志業基金會
世代をつなぐ 学びの絆
 「慈済懿德会」は、三十年前の学校においては斬新な試みだった。慈済ボランティアは生徒たちに寄り添う中で、図らずも自分自身の子供との関わり方を見つめ直すことになった。
 
 生徒たちは親のような役割を果たす慈誠パパや懿德ママとの交流を通じて、大人との付き合い方を学ぶことができた。表面的には、子供が一方的に助けられているように見える関係だが、実際には二つの世代がそれぞれに学びを得たのだ。
 
●懿德母姉会が創立された当初、ボランティア達は毎月花蓮で子供たちと会う前に證厳法師との座談会に出席し、教育理念を吸収した。(写真提供・花蓮本部)
「自分の子供すらまともに育てられないのに、人様の子供をどうやって教えるというの?」二十年前のこと、訪れた慈済看護学校の生徒をを見た潘廖葉さんの姑は、心に浮かんだ不安が口をついて出た。
 
張り詰めた嫁姑関係とバランスを失った親子関係に覆われた家庭で、潘さんは嫁として素直になれず、母親としても心が折れていた。慈済に入った後も家庭問題を解決する方法を学んでいるところだった。「懿德ママ」になった他のボランティアたちと同じく「どうすれば、他人の子供を導くことができるのだろう」と不安になった。血を分けた子供ですらまともに育てられず、学歴も高いわけではない自分に、教育ボランティアなど本当に務まるのだろうか?

自ら反省し、品格のある子供を育てる

慈済看護専門学校は一九八九年に創設され、その一カ月後に三十六名の慈済委員からなる懿德母姉会が編成された。證厳法師は、「懿德」は母親として持つべき品格であること、我々は気品と尊厳の模範を示し、子供たちを「甘やかす」のではなく「愛する」べきであること、そして人生における自分の役割を果たすためには人としての基本的な道理を身につけるべきことなどを、丁寧に教えてくださった。
 
「證厳法師は、髪をきちんと梳かし、朝は快活であるようにとおっしゃいました」ボランティアの潘さんと林雪珠さんは、偶然にも同じことを口にした。毎月の懿德日の活動の前には證厳法師との座談会が開かれたが、法師の本質的な教えは責任感を持つこと、そして品格のある子供を育てるには自分自身がまず品格を持つべきであるという。
 
林さんは夫と共にプラスチック工場を経営していた。事業は成功し、子供たちの教育や学業成績は自然に任せていた。だが人様の子供を預かるとなると心配になった。「懿德の子供とは毎月二時間交流するだけ。彼らは私のことなど相手にするだろうか?まして『母親』として認めてくれることがあるのだろうか?」
 
看護学校の生徒たちにとって、懿德ママは不請の他人である。どうすれば他人という隔たりを乗り越え、家族に近い関係を築くことができるのか?「中途半端ではよくない。責任をもって取り組まなくては!」彼女は重く受け止めた。
 
だが思いとは裏腹に因縁に従わざるをえない時もある。ある時、彼女は懿德の子供が単位を落としたことを知った。夏期講習の費用は一学期間の学費よりも高く、この子供の家庭環境にとっては重い負担であることが明白だった。そこで住所をたよりに花蓮の山村にある子供の実家を訪ねたが、おそらく長い貧困によるものだろう、両親は子供の学習状況をどうすることもできず、「彼女が勉強しないのなら、どうしようもない」とだけ言った。対話は望ましい結果を得られず、彼女は黙ってその子の実家を後にした。
 
彼女はかつて、心からの努力が徒労に終わっていると感じることもあったが、「責任をもって取り組む」という決心を忘れることはなかった。自らが品格を保ち続ければ、いつかその姿勢が子供の身にも反映される時がくると信じていた。
 
彼らはボランティアで培った経験を生かし、懿德日のほかにも自費で出かけ、都合を合わせると懿徳の子供を連れて貧しい人々を訪問したり、医療ボランティアを体験させ、これから進むべき分野に早くから接して病気と苦しみを知ることができるようにした。ある時、訪問の帰り道に台湾東部北端の海岸にある野柳地質公園に立ち寄ると、子供たちは女王の頭の形をした奇石の前で記念撮影をした。潘さんは、まるで雀の群れのように高い声をあげてはしゃぐ子供たちを眺めていた。
 
時が経ち、あの子供たちはもう職場で立派に働いている。あの時ボランティアたちと共に貧困や病気の現場に入ったことが彼女たちの貴重な経験となり、将来の患者に対する深い関心と思いやりにつながったのである。
 
●1990年代の慈済看護専門学校の卒業生たちは故郷に帰って懿德母姉会を訪ね、静思精舎で一緒に餃子を作った。(写真提供・花蓮本部)
●懿德ママは家庭訪問や保護者との対話を通じて子供の生活や学業の状況を理解し、子供達により深く寄り添えるようにと願った。

愛とは寄り添うこと 親として必要な修行

一九四〇年から五十年代に生まれた世代は、台湾が物資の不足した貧しい時代から抜け出して経済的に飛躍する過程を経験している。家族構成は小さくなり、教育資源はより豊かになった。一つ前の世代に比べれば子供達への関心も高まったが、やるべきことは増えて忙しくなった。多くの女性は家庭と仕事の両立に奔走し、子供たちはかつてのように大家族の中で過ごし、近所の人たちに育てられることもなくなった。
 
彼ら働き盛りのボランティアたちは使命感をもって懿德ママの役割を引き受けたものの、自分たちは教育に対して確固たる考えを持っていないことに気がついた。経済成長期の勤労世代であった彼らは、常に上を目指して努力してきた。かつての貧困からは抜け出したが、子女の教育については幼い頃に自分自身が受けた教育の記憶に頼ることが多かった。子供にとっても良い学歴と良い仕事を得ることが人生の成功への近道だと考えたのだ。
 
慈済看護専門学校の創立期には懿德ママしかいなかったが、後に男子学生のために慈誠パパが仲間に加わった。慈誠パパを務めた林朝富さんは、十五歳になる息子の家鴻がラップ音楽に夢中になった時にそれを理解することができなかった。彼は若い頃に台湾南部から北部に上京し、懸命に働いてきた。子供の人生計画は大学に入り、安定した仕事を得ることだと考えていた。だが子供がこの「安定したレール」から外れようとした時、怒りと驚きを感じるばかりで、一体どうすれば良いか分からなかった。
 
慈誠懿德会 プロフィール
 
1989年に慈済看護専門学校が創立された時、ボランティアたちが自身の子供に対する愛情をもって親から離れている学生たちに寄り添い、経験と智慧を次世代の若者に伝えてくれることを願って、懿德母姉会が組織された。
 
1994年に慈済医学大学が創立されると、両校の制度改革によって学部が増設され、懿德母姉会は慈誠隊ボランティアも参加することになったため、名称を「慈誠懿德会」、略称を「慈懿会」と改めた。現在は10〜12名の学生に対して教師1人、慈誠パパ1人と懿德ママ2人が付き添う。
 
このような制度は30年前の学校においては斬新な試みであったが、最近流行しはじめた「世代間交流による相互学習」と本質は同じである。この制度は教育志業分野だけでなく、慈済の慈善、医療、人文という他の志業分野でも推進され、今では異なる世代が交流する過程で互いの専門性と経験を分かちあう、慈済の各志業の特色の一つとなっている。
(整理・陳麗安)
 
彼らが寄り添った懿德の子供達も、自分たちの子供と同じく、社会の価値観が変化する時代に大人になる前段階としての思春期を迎え、その心の中では戦いや綱引きが行われていた。日本のユング心理学者である河合隼雄はこれを「大人になることのむずかしさ」と表現した。彼らは生理的にも法律的にも立派な「大人」であるにもかかわらず、社会的及び心理的にはまだまだ未熟であり、その落差が現代人の苦しみを生み出しているという。
 
潘さんの息子は束縛を嫌い、全てに反抗することで自分が大人であることを証明しているように見えたが、兵役中に人間関係に挫折して生命を断とうとしたこともあった。彼女は證厳法師の言葉を引用しながら、心を開いて何度も話し合った。すると息子は徐々に他人と関係を築く方法を自ら見つけ、その後も人生経験を経ながら、理想的な大人への道を歩み出したのである。
 
家鴻と父親の関係を救ったのは、口数の少ない母親の林如金さんであった。父と子が荒れていた時、彼女は看護専門学校の懿德ママを務めながら、仕事と家庭の両立に奔走する職業婦人だった。彼女は子供を矯正したり頭ごなしに過ちを認めさせようとしたりすることなく、子供が必要としている時にただ寄り添った。自分の置かれている立場を認識させ、後悔のない決定を下し、たとえ間違ったとしても自分で責任を取る覚悟を持つよう導いたのである。
 
親としての成長は、證厳法師の教えをしっかりと胸に刻み、自分に励んで修行し、現実にしっかりと向き合い、心配と束縛から解き放たれることでもたらされた。彼らは證厳法師の導きの通り、子供に必要なのは「愛」であって「甘やかし」ではないということ、そして彼らを無限の「愛」で包み込みながらも、自分自身の力で世界に立ち向かう勇気を鍛え、愛をもって人に接する心を育むように導くことだった。
 
●慈済看護専門学校を卒業した彭小芳は、母校で教職についた。学生の頃に感じた愛を伝え広めていきたいと言った。(写真提供・彭小芳)

世代間の交流 慈誠懿德親子の学び

慈済看護専門学校が創立三十周年を迎えた時、懿德ママは慈済おばあちゃんと呼べる年齢になり、看護専門学校もまた科技大学へと改制された。慈済科技大学の人文室主任である謝麗華先生は、交通の発達や科学技術の進歩により、花蓮はすでに辺境ではなくなったという。社会は大きく変化し、学生の生き方も多様化した。慈誠パパと懿德ママたちは年齢を重ねながら若者たちと価値観や得意分野、習慣の面で交流し、思いやり、励まし合う経験の中で互いに学び合っている。
 
謝先生は十数年間にわたり経験した実際の物語をもとに『青銀之間──世代交流による慈済懿徳教育物語』(参考図書で紹介)を著した。書中には、慈済懿德会のメンバーが学生たちとの接触を通じて、自分自身の家庭や親子関係を客観的に見つめ、調整しながら、證厳法師の期待された「菩薩の心をもって自身の子女を教育し、母親の心をもって天下衆生を愛する」という理想を成しとげた物語が綴られている。本当の親子間には親しさゆえの無礼がつきものであり、また愛ゆえの執着が生じる。だが慈済の子供たちは両親の近似系ともいえる慈誠パパや懿德ママとの関係を通じて、年長者と対話する方法を学ぶのである。
 
毎月延べ七百人の慈誠パパと懿德ママが花蓮に戻り、慈済の子供たちと会う。彼らは確固とした教育のパートナーであり、子供たちの心の支えとなる決意がある。表面上は子供たちが一方的に助けられているように見えるかもしれないが、実際には二つの異なる世代が互いの人生において交流する中で、互いに学びを得ているのである。
 

参考図書

『青銀之間──慈懿代間教育故事
(青年と壮年の間で
ー世代交流による慈済懿徳教育物語)』
出版:慈済人文出版社
作者:謝麗華
(慈済月刊六四〇期より)
 
 
 
NO.281