慈濟傳播人文志業基金會
海を渡ってあなたに会いにきました
「ドナーは一九八一年生まれの台湾人男性です」という朗報がもたらされ、首を長くして造血幹細胞の寄贈を待っていた趙鴻雁さんの胸に希望の光が灯った。
 
「彼は一九八一年生まれで、私は一九八三年生まれ。じゃあ二歳年上のお兄さんだ。身長が百八十センチで、体重が百キロだといいな」。遼寧省大連に住む趙さんは自分が一人っ子なので、ドナーの彼を実の兄のように慕っていこうと決めていた。
 
中国は二〇一九年八月から台湾への個人旅行を見合わせているが、趙さんは万難を排して、遠路はるばる遼寧省大連市から台湾にやって来た。そして十月十九日のその日に五年間思い続けた「命の恩人」と対面した。この数年間の家族全員を包んでいた暗い気分が一気に消えた。
 
●台中静思堂で行われた「影のように離れ得ぬ愛」と題した骨随授受者対面式。趙鴻雁(右端)は林哲謙(右側から2人目)とその家族の骨髄寄贈同意に感謝した。

思いを寄せていたから、距離は問題ではない

趙さんは、骨随授受者対面式の前日に台湾に着き、翌日は元気な姿で謝意を表そうと思い、睡眠導入剤を一粒飲んで早々と八時に寝た。翌朝シャワーを浴びて化粧をし、最も良い状態で、適合する血液が流れる「台湾のお兄さん」に会う準備を整えた。
 
彼女は、「お兄さん」が自分より二歳年上だということしか知らず、勝手に兄の体重が百キロだと推測していた。というのも、提供する造血幹細胞の量はレシピエントの体重に基づいて正確に採取されるため、彼がたくましい体格であれば、気が咎める気持ちが少しは和らぐからだ。
 
「髄縁」の奇跡を見届ける瞬間が間もなく到来しようとしていた。痩せ型で背が高くハンサムな林哲謙さんは妻子と母親を伴って観客席の中から立ち上がった。既にステ―ジに上がっていた趙さんは途端に跪き、林家の人に向かって三回跪拝した。彼女によると、後の二回の礼は一緒に来る縁がなかった両親の代わりにしたのだそうだ。
 
今回の台湾への旅は、もし中国の中華骨髄バンクと赤十字社の仲介がなければ順調に実現しなかっただろうが、それでも最終的には彼女一人しか来ることができなかった。
 
「台湾のお兄さん」に思いを馳せる気持ちは、移植を受けて健康が回復するうちに、日増しに強くなっていった。実は今年五月の連休中に、彼女は家族と一緒に福建省厦門へ向かい、「小三通」によって船で来台しようと計画したことがある。そして慈済を探して住所を教えてもらえば、自ら恩人にお礼をすることができると思っていた。
 
しかし、一家が厦門に着いた後、台湾への入国には、通行証だけでなく入国ビザも必要であり、それを取得するのに少なくとも半月から二十日間待たなければならないことを知った。やむをえず大連の自宅へ戻った。その後ネットを通じて花蓮の慈済骨髄幹細胞センターと連絡が取れ、今年十月十九日に慈済台中静思堂で骨随授受者対面式があることを知った。
 
彼女は「国務院台湾事務弁公室」及び入出国機関に足を運び、自分の置かれている境遇を必死に訴えたが、「これは国家の政策です。あなたの情況はよく分かりますが、許可を出すわけにはいきません」と言われた。十月八日になってようやく、彼女の申請に特例が下りた。今回の台湾への旅は彼女が力を尽くして掴んだチャンスだったのだ。白血病を発症した当初からどのように治療するかは、すべて彼女自身が選択したのである。
 
●趙さんは2013年11月に発病し、2014年7月に無菌室に入って移植手術を受けた。拒否反応期間を乗り越え、ついに健康を取り戻して再び家族と暮らしている。息子と幸せな旅に出かけた写真も残すことができた。(写真提供・趙鴻雁)

死ぬわけにいかないから生きる!

白血病を患う前、三十歳になろうとしていた趙さんは、ずっと「人生の勝ち組」の一員だった。りっぱな学歴、安定した仕事、愛する家族、そして大事な赤ちゃんがいた。白血病といえば学生時代に新聞の記事で白血病の子供の可哀想な物語を読んだことを思い出した。そして、大学卒業の年に血液検査をして登録し、中華骨髄バンクの志願者の一人となった。それが、人助けをする前に自分が急性リンパ性白血病(ALL)の患者になってしまったのだ。
 
「私の家族には三代遡ってもこのような病気はありません。祖父も祖母も八十五歳以上まで生き、母方の祖母も今年九十二歳で、まだ元気です……」。彼女はすっかり気落ちして世の中が不可解になった。「なぜ私はこんな若さでこの病気にかかったのだろうか。なぜ私なのだろうか」。
 
いつも元気いっぱいで働いていた彼女は、朝から晩まで一日十四時間働いても体力に問題はなかった。以前、白血病と聞いても、家族の遺伝子だろうし、テレビのドラマで見ても他人の物語としか思えず、こんな事が自分の身に起こるとは想像だにできなかった。
 
彼女は一人っ子なので「死ぬわけにいかないから、生きるのだ」とよく分かっていた。「私という掌中の玉が生きられなかったら、両親は耐えられず、病に倒れるに決まっている」。そして、たとえ身代を傾けても彼女の命を救わなければならならない、それが家族全員のコンセンサスだった。「車椅子を推すようになるとしても、娘が生きているだけでいい」と当時、既に六十歳を超えていた母親が彼女にそう言った。それを聞いた彼女は心が痛み、「何がなんでも生き延びなければならない。この命は自分一人のものではないのだから」と自分に言い聞かせた。
 

ドナーが現れて、九死に一生を得た

発病した時、乳飲み子だった彼女の息子はまだ四カ月だったので、息子の世話は両親に任せるしかなかった。一家が力を尽し、彼女に北京の一番いい病院で治療を受けさせた。夫と夫の両親、それに母親が北京で家を借り、彼女が病気の治療に専念するよう、母は食事、夫は病院関係、夫の両親は孫の世話、と役割を分担した。そして、年老いた父は故郷で資金集めに奔走した。
 
彼女は一人っ子なので、適合する可能性の高いヒト白血球抗原(HLA)を提供する兄弟姉妹はいない。両親は六十歳を超え、子供はまだ小さい。造血幹細胞移植を行う場合、骨髄バンクでHLA適合者を見つけるしかない。幸いに適合者が中華骨髄バンクで見つかったが、その希望も二カ月続いただけで途絶えてしまった。ドナーとなった相手は考えた挙句、寄贈を拒否したのだった。
 
絶望のどん底に突き落とされた。さらに医者から相手が拒否したことを伝えられた後で、今度は彼女の母親が卵巣癌を罹っていることが分かった。既に子宮と胃に転移していて、癌を十期に分けたとすれば、既に九期目の悪性腫瘍であると医師が断定した。
 
希望、失望、絶望が悪ふざけの波のように順に押し寄せた。その最悪の状態の中で、台湾の骨髄バンクから届いた良い知らせ――一人のドナーが彼女と適合したのだ!しかも二人の血液の適合性が非常に高かったのである。
 
家族全員が谷底に落ちて再び上り坂を見たような喜びを感じたが、その希望が再びイソップ寓話「オオカミ少年」のようになるのではないかと心配した。しかし、多くの情報が寄せられたおかげでその心配は消えた。「台湾のドナーとの適合ですから、安心してください」。中国本土では数多くの白血病患者が台湾の慈済骨髄幹細胞センターからの寄贈を受けているが、誰もが台湾人の愛に大きな信頼を寄せており、移植患者の間では高い評価を受けている。
 
二〇一四年七月九日、彼女は北京道培病院に入院した。ベッドの上で台湾の見知らぬ命の恩人からの造血幹細胞が一滴ずつ自分の体内に入っていくのを見ていた。その一カ月後、今度は母が北京協和病院で手術を受けた。その期間、二人の世話で人手が足りなくなり、家族全員は実に大変だった。
 
不幸も行き着くところまで行くと幸運が巡って来るのであろう。どん底からでも生き返ることができるものだ。幸運にも母と娘は共に生き延びたのである。
 
●受贈者の趙鴻雁(前列右から4人目)、ドナーの林哲謙(前列左から3人目)とその家族。授受者対面式があると聞いて全員が大いに喜び、「皆でレシピエントの元気な姿を見よう」、と言った。彼の横に写っている趙鴻雁は、今回の台湾の旅で大家族を得たことを喜んだ。(撮影・廖偉辰)

生きているだけで幸福

移植というこの治療全体はとても高価である。診断を受けた時、医師から「先ず、キーモセラピーで治療し、次に適合した血液を探して移植します。一連の治療には膨大なお金がかかります」と言われたことをはっきりと覚えている。
 
「最低百万人民元(約一億七千万円)、上限はありません」という医者の言葉は、最低でも百万人民元かかり、病状と治療の経過によっては費用に上限がないという意味であった。彼女は中学校の物理教師だったので、発病を知った学校の同僚の教師や生徒たちが募金集めを始め、僅か三十時間あまりで三十三万人民元を超える金額が集まったそうだ。
 
退職した教師は千人民元(約一万五千円)、小遣いを節約して二千人民元を寄付した生徒、同じように癌の手術をして復帰したばかりなのに直ぐに五百人民元を寄付してくれた同僚、一カ月分の給料を寄付してくれた若い教師等々。誰もができるだけ早く彼女に戻って来てほしいと願ったのだった。
 
老いた父は家を売ったが、資金はまだ不足していた。「私には三人の叔母、三人の叔父、母方にも三人の叔母と一人の叔父がいます」。彼女は、自分の治療のためなら当たり前だと言わんばかりに親族みんなが役割を分担して、全員で懸命に彼女を救おうとしていたことを知っていた。
 
彼女は中国で人気が高かった「私は薬の神様ではない」という映画を思い出した。慢性骨髄性白血病の背後にある高価な薬代についてがテーマだった。彼女も、白血病の治療はお金持ちでないと難しく、多くの患者の家族は全財産をなくし、結局、患者とお金の両方ともなくしてしまう人もいることを知っていた。
 
思い返すと、北京での二年間、家族の家賃と生活費は前後合わせて百三十万人民元(約二千万円)近くになっていた。
 
いつも元気で楽天的にしている趙さんだが、治療開始当初は全く違っていた。治療の間、彼女は殆ど喋ることなく、人ともコミュニケーションを取らず、ベッドに横たわったまま、母親にも他の人と話さないでほしいと言った。「四人部屋で、隣のベッドの患者が退室したり、新たに入って来たりするだけで苛立ちを感じました」。というのも、病室の隣人の症状と結果は明日の自分に当てはまるかもしれないからだった。
 
「あなたはどのタイプの白血病ですか?何回キーモを受けましたか?ドナーは見つかりましたか?移植手術を受けましたか?」彼女の苛立ちははっきり表に現れ、担当の主治医でさえ彼女の心身状態を心配した。毎回、腰椎穿刺または骨髄穿刺をする時、彼女は痛みを顔に出すわけでもなく、泣き叫ぶこともなかった。「体が麻痺しているように感じました。毎日、私はまだ生きることができるのだろうか、と思い続けていたからです」。
 
病気になった原因は分からなかったが、発病する前のほぼ五カ月間、よく眠れなかった。息子が生まれた時の体重は四キロで、昼間は一時間ごと、夜は二時間ごとにミルクを飲ませなければならなかった。産後のうつ病のように、彼女の精神状態は良くなく、ほとんど休む暇がなかった。「精神的に袋小路に入ったような感じで、やがて体がおかしくなってしまったのです」。
 
彼女は、自分の人生はそれまでずっと順調で、勝つことしか知らず、失敗してはならないと思うタイプの人間だったそうだ。「人は一生懸命働けば、必ず成功できるといつも思っていました」。白血病を罹って、移植手術という方法に耐えた後、「私は今、生きているだけで幸福に感じます」と言った。
 
彼女は、移植手術を受けて人生を取り戻した当初、マスクを着けて病院の外に出て、「スーパーに行けるようになっただけでも、涙が出るほど感動しました…」と言った。病気になってから、彼女は人に溢れる活気に満ちた場所を懐かしんできた。「生きていることは実に素晴らしい!」
 
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以前は、いわゆる「成功」や「成績優秀」、「出世」といったことばかり考えていたが、今、それらは彼女の人生のリストには載っていない。「年老いていく両親に寄り添い、息子が成長する過程をこの目で見届けることこそが幸せだと感じています」。亡くなった同じ病気の患者と比較して、彼女は自分が多すぎるほど所有していることを知った。
 
「人生はその苦痛でわたしの魂に口づけしましたが、私は歌でその恩に報いたい」。趙さんは、インドの思想家タゴールの作品『迷い鳥たち』の名言になぞらえて今の心境を語った。
 
台湾の空港に到着してから帰国の途に就くまで、彼女が台中や台北のどこにいても、慈済ボランティアが同行した。今回の旅は彼女一人で来て、自分の体に適合する血が流れている「台湾のお兄さん」一家に会うことができた。身軽な旅支度でやって来たが、愛をいっぱい持って帰国した。
 
彼女は既に計画を立てている。政府が個人旅行を開放した時には絶対に大連の家族を連れて、もう一度台湾に来たい!  
(慈済月刊六三七期より)
 
 
感動の中にも心残りがあった
 
文・趙鴻雁 訳・常樸
 
台湾での授受者対面式の写真を家族に見せると、皆、感激の涙を流してとても喜んでくれたそうだ。ただ、心残りだったのはみんなで出席できなかったことだった。それというのも、お兄さんは一家全員が揃って出席したのに、彼女は一人で家族を代表するしかなかったのだから。
 
「今回の感謝の旅は距離が遠く、来るのは容易ではありませんでした。夫は十月二十一日の夜に福州空港に私を迎えに来ました。彼に会った途端、私は涙を流しました。というのも、今回の旅は心を打たれて感動することがとても多かったからです。私は深夜三時まで夫に纏わりついて喋り続けました。私達は他の都市を巡ってから大連へ帰るつもりでしたが、私の心は景色に集中できませんでした。この数日間お兄さんの事が頭から離れられず、夜も夢にまで見る始末で、心が落ち着かなかったのです」。
 
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僕は最高に幸運な人
 
文‧林淑懷〈台中慈済ボランティア〉 訳・高雪白
 
「趙さんが健康で生き生きとして、ここに来ることができたのを見て安心しました。助けてあげられたのも縁であり、彼女にはこれからの日々を、勇気を持って健康に気をつけて子供と家族のために精一杯生きて欲しいと思います」。林哲謙さんは骨髄バンクのドナーである。自分のレシピエントの話を聞いた後で、このように彼女に祝福を送った。
 
二○○八年十一月、二十五歳だった林さんは当時ガールフレンドだった妻と一緒に骨髄バンクのドナー登録をした。採血量は10ccと普通の献血の一袋にも満たない量だったので気にすることもなく、年が過ぎるにつれて忘れてしまった。
 
二○一四年六月、慈済の造血幹細胞ケアチームのボランティア林香雀さんから電話があり、「一人の患者の血液が貴方の血液とマッチしました。患者の容態は思わしくなく、直ぐに移植手術をする必要があります」。林さんは人助けはしなければならないと当然のことのように思ったので、早速すべての検査と手続きを済ませ、二○一四年七月に骨髄を提供し終えた。今でも体に異常は全くない。
 
彼が造血幹細胞を寄贈したことで、母親は慈済を理解し、養成講座を経て慈済委員になった。レシピエントである趙さんから「お母さん、お母さん」と呼ばれた時の喜びは、たとえようがなかった。彼女は「本当に感謝すべき人は嫁の母です。当初彼女が息子と嫁に登録を勧めなかったら、この縁は結ばれなかったでしょう。息子が人助けする幸運に恵まれ、レシピエントが健康になってくれたことを心から祝福したいと思います」と言った。
 
林さんは相手の立場に立って善行をした。彼自身、父親が危篤だという知らせを受け、病院に駆けつけた時は既に昏睡状態だったという経験を持っている。医者が「手の施しようがありません」と宣告したその時、彼は立っていられないほどの悲しみに襲われた。身内が亡くなる時、誰かにすがりたい気持ちになるのは皆同じだと思う。そうだとすると人に求められる人間になれたのは最も幸せなことではないだろうか。
(慈済月刊六三七期より)
NO.282