慈濟傳播人文志業基金會
仏の国 ラオス
二○一九年末、慈済の配付チームに同行してラオスを訪問した。配付の合間に田舎の大小様々な寺院を巡り、寺院の殆どの壁に仏教と関連性のある絵が描かれているのを見てきた。釈迦牟尼の成仏前の修行図や人間における生老病死、貧困や富裕層の暮らし、輪廻因果などで、それらの絵はいつも「善意を持つ」よう、人々に警告しているかのようだった。
 
インドシナ半島の内陸部に位置するラオスは、近隣のカンボジア、ミャンマー、タイ諸国の文化と相似しており、人民は主に南伝上座部(小乗)仏教を信じ、仏教寺院や橙色のけさを身にまとった僧侶が至る所で見受けられる。人々にとってその橙色は神聖な存在であり、寺院は人々の心の拠り所であるだけでなく、文化及び教育の伝承の重要な場でもある。田舎では重要な儀式やお祝い事は全て寺院に集まって行う。
 
 
国のシンボルであるタート・ルアン(写真中央の仏舎利塔)からは仏教に対するラオス人の尊敬の念がうかがわれる。仏陀の遺骨を崇拝するために建てられたこの仏舎利塔は戦争で何度破壊されても再建維持され、今でも首都ビエンチャンに聳えている。
都会や田舎のどこに行っても、人に出会う度に相手は微笑み、両手を合わせて会釈する。水害支援の配付を手伝ってくれた現地の華僑‧蔡華杰氏になぜ誰もがこのように自然体で信仰を取り入れているのかと尋ねると、「宗教に敬意を払うというよりも、むしろ既にラオス人の生活に溶け込んでいるのだと思います」と答えてくれた。

早朝に托鉢し、人々の施しを受け取る

古風な趣のあるサバイ寺院で、私はバウンマニ比丘(Bounmany)を訪れ、ラオスと上座部仏教の関係について教えを請うた。
 
若いバウンマニ比丘は、「仏教が伝わる前、ラオス人の多くは民間信仰やヒンズー教を信じていました。十四世紀にファーグム王がラオスを統一してランサン(Lancang)王国を建国しました。国王は仏教戒律が人民を統率して、平穏な社会を築くことができると信じ、仏教を国教にしました」と説明してくれた。
 
フランスの植民地時代には仏教は衰退したが、ラオスの仏教寺院は、絶えず知識の伝承と仏教の研究に関する重要な場であり続けた。とりわけ、上座部仏教は初期に民間信仰とヒンズー教が融合したため、田舎では神廟と寺院を同時に見ることができる。一般の家庭でも、仏壇と祭壇の双方が据えられている。
 
多くの国民は、「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒」という五戒を順守している。仏教を信仰する男性は生涯に少なくとも一度は剃髪し、短い場合で数日、長い人は数年にわたって出家し、住民の供養を受ける。彼らは朝の読経を終えてから、右肩から鉢を下げ、隊列を組んで托鉢に出かける。そして、交差点に出会うと、彼らは川の支流のように異なった方向に分かれて歩いて行く。
 
 
道傍では人々が老若男女を問わず敬虔に跪いて待ち、合掌してもち米(カオ・ニャオ)や果物、料理した食べ物などを鉢の中に入れ、そして僧侶が祝福の言葉を述べるのだ。それがたとえ小僧であっても軽視することはない。蔡氏によると、それは全く普通であり、人々の心の中では修行僧は元々崇高であると思っているため、全ての人は尊敬した態度をとるのである。
 
バウンマニ比丘は、「托鉢で受けた食べ物が多過ぎる時は、それを再度信徒に分け与えるので、人々は頂いたものに福があると思っています。また昼食は、寺院の近くの住民が寺院に持って行って供養します」と教えくれた。
 

教育の機能を仏教寺院が補完する

剃髪はラオスの男子にとって生涯で一度だけの大切な行事であるばかりでなく、福と徳を蓄積する伝統でもある。貧しい家庭の子どもは学校に通えない。出家を選択するのは寺院で基礎教育を受けることができるからだ。
 
仏教寺院が教育に携わる由縁はずっと昔に遡る。ラオス中央仏教懇親会の主任であるプラ・ヨッカム法師は、「昔から仏教寺院での僧侶教育は基礎教育を施してきました。辺鄙な地域では学校が不足しているため、一部の学生は学校まで十~二十キロの道程を通わねばならず、義務教育にもかかわらず生徒のドロップアウト率が高くなります。従って、多くの人は地域の寺院で基礎教育を受けるために出家し、読み書き能力が身に付いてから、還俗して社会に戻り、一般教育を受けたり大学に進学したりするのです」と説明した。
 
寺院では、受戒した比丘が責任をもって沙弥にラオ語や仏教経典を教える。特に仏教経典には文学、哲学、医学、気象学に関する多くのチャプターが含まれている。また地域の状況に応じて、一部の寺院では英語、コンピューター関連、アジア文学などの追加コースもある。学歴を取得することはできないが、基礎教育を身につけることができ、また、都会には沙弥が進学できる仏教学院もある。
 
バウンマニ比丘は次のように説明した。二十歳未満の出家者は全員沙弥と呼ばれ、前述の五戒と共に、昼からの禁食、質素な身なり、歌や踊りを視聴しない、高座に座らない、金銀財宝を貯めない、という十戒を守らなくてはならない。沙弥として二十歳を過ぎたり、二十歳以降に出家した者は、比丘として受戒することを選択できるが、二百二十七もの戒律を厳守しなければならない。
 

寺院の遺跡、時間と空間の凝縮

パクセ市を出発して一路南に向かい、約四十分走って高速道路を下りると、黄色い砂塵が舞う中、車両は小さな田舎町に入った。国連の世界文化遺産に登録されているこの千年の歴史を誇る「チャンパサック県の文化景観にあるワット・プーと関連古代遺産群」は、ラオス北部のルアンパバーンに続いて世界文化遺産に指定された地区である。
 
ラオスの言葉で「ワット・プー」とは「石の廟」の意味である。石畳みの通路の両側にはヒンズー教神廟時代の遺跡である石柱が聳えていた。まだらになった石壁には古代ヒンズー教の彫刻が仏像と共存していた。中央の軸を通る石の階段は急で狭く、それは、仏に敬意を払うために、参拝者には体を横向きにして登ってほしいからだそうだ。但し、王だけはそれを順守しなくてもよい。
 
ゆっくりと階段を上がると、ようやく山頂にたどり着く。山頂から壮観な遺跡を見下ろすことができる。歴代王朝から、フランス植民地時代、独立と内戦を経て今日に至っているが、今なお人々の心の中の神聖な山であり、自然に対する敬意と敬虔な信仰の念を湛えている。
 
見渡す限りの青空を眺めていると、ラオスでの時の流れが格別に緩やかに感じられた。二○一八年にダムが決壊し、二○一九年には深刻な洪水被害が発生した。たとえ家が全壊し、苦しんでも、私が出会ったラオスの人々は楽観的な一面を見せてくれた。振り返ると、数々の記憶は映像のように、今でも鮮明に私の心に深く刻まれている。
 
ラオス全体の発展は、インドシナ半島の近隣諸国よりもはるかに遅れており、人々の苦難に対して無力感を感じるが、彼らはお金では買えないシンプルな生活に満足している。今後この国からあらゆる混乱と災害がなくなるよう、そして人々が日々、素朴で平穏な暮しを続けていけることを願っている。
 
(慈済月刊六三九期より)
NO.282