慈濟傳播人文志業基金會
平凡な人でも 非凡なことを成せる
一見凡庸に見える人でも、
偉大な力を発揮することができる。
低収入の住民や、戦火から逃れてきた難民でも、愛があれば奉仕ができる。 
これこそ平凡の中の非凡である。
 
私は何度か真善美ボランティアに招かれて、取材レポートの書き方について講演した。その都度、私はこう言った。文章の内容はどんな美辞麗句にも増して重要だ、と。よい物語をありのままに表現するだけで、自然に人を動かす力が生み出されてくる。
 

「貧しさの内にも富あり」を捉えた取材

 
二〇〇六年、私は台北市文山区に住む手足に障害のある七十歳の老婦人を取材した。彼女は幼い頃から小児麻痺を患い、両親が亡くなった後は一人暮らしをしていたが、障害のため外で働くこともできず、加えて年をとり体力も衰えたので、社会局の手配で老人ホームに入居することになった。そこで社会福祉士が彼女の事情を慈済に報告し、サポートを申請した。
 
老婦人はラジオ放送で上人のお諭しを聞き、今の自分は一人でも生活できるからと、慈済の救済を辞退した。さらに政府からもらった補助金の一部を義援金として慈済に寄付してくれた。私が取材のため彼女の家を訪れた時、手足とも曲がった彼女は、四坪の広間に横になって休んでいた。その姿を見て、一瞬躊躇した。彼女が高齢であるのを考えると、長期にわたる取材には耐えられないのではと思ったのだ。そこで考えを変えて、お世話係の林瑞芬に老婦人の物語を話してもらうことにした。話を聞くうちに分かったのだが、慈済委員である林瑞芬もまた低所得層だということだった。市政府の手配で一人暮らしのお年寄りの世話をし、生活補助を受けているそうだ。
 
それを知った私はふと慈済に関する噂を思い出した。「慈済の制服を手に入れるには百万元かかる」という噂だ。真実を知る人は嘘だとすぐ分かるが、事情を知らない人は容易に信じてしまう。
 
「私が息子の学校で手続きをした時、息子が『お母さん、僕達が低所得者だと人に言わないで』と言ったのです」。林瑞芬の夫はセメント工夫で安定した収入があったが、友達が飲酒運転する車に乗り、 車もろとも谷に落ち、重傷を負った。夫は七年もの寝たきり生活の後、亡くなった。後に残された林瑞芬は一人で三人の幼い子供を育てるのは負担が重いので、低所得者の申請をし、子供達の学費も補助された。
 
毎月の収入は法律で定められた基本給に達していないが、林瑞芬はとても満足している。彼女がまだ慈済に関わっていなかった時、あるボランティアが彼女の事情を慈済と家庭援助センターに知らせようとしたが、林瑞芬は婉曲に断わった。もうすでに政府の援助を受けているから十分だという理由だった。
 
その後、彼女は訓練を経て正式に慈済委員となった。さらに奉仕を行う縁に恵まれ、長期間にわたって一人暮らしのお年寄りを世話したり、政治大学の慈青社(慈済の学生ボランティアチーム)の学生たちが団地の低所得家庭の子供達のために行っている補習を手伝っている。大学生が「瑞芬ママ」と呼ぶ林瑞芬は、まさに「貧しさの内に富あり」の模範だった。
 
●林瑞芬(一番右)は慈青に協力して貧困家庭の子供達を世話している。彼女自身、正式に慈済委員になってもまだ低所得層だった。志がありさえあれば、貧富を問わず、人徳という才能を発揮することができることを証明している。(撮影・林静芳)
 

大愛精神は仇敵を超越する

 
人々を感動させるストーリーは、台湾だけではなく、八千キロも離れたヨルダンでも発生している。
 
「私は難民二世なのですよ」。ヨルダンのボランティア、リリの人生は近代中東史の縮図であるとも言える。彼女の父はアルメニアから異国へ渡って来た。一九二〇年代、トルコの迫害から逃れるため、英国統治下のパレスチナに来たのである。一九六七年、彼女が二十三歳の時ヨルダンの作家に嫁いだ。ちょうどこの年、彼女が生まれ育った故郷エルサレムは、イスラエルが支配する「外国」となった。
 
「あの時は避難するため、皆家の鍵だけを持って家を飛び出しました。きっとまた帰って来られると思っていましたが、なんと戦争が終わっても戻ることはできませんでした」。イスラエルとアラブ諸国の六日戦争の後、リリと夫はヨルダンの首都アンマンに定住。十年後やっとイスラエルへの出入国ビザが取れ、エルサレムに帰ることができた。
 
彼女がかつての我が家の扉をノックした時、中から出てきた新しい屋主はユダヤ人だった。「すみません。入って昔の寝室を見てもよろしいでしょうか」と尋ねると、「だめです」と即座に断られた。期待に胸を膨らませていた里帰りの旅も、生涯で残念な思い出となった。
 
リリはもう一つの出来事を語った。ある日、再びエルサレムに帰った時、なんとパスポートを床の上に投げ棄てられたのだ。原因はイスラエルの警備員が彼女に出生地を聞いたとき、「パレスチナのエルサレムです」と答えたからだという。
 
彼女の話の中で一九六七年の事変は今も記憶に新しい。その不満を彼女はキリスト教の信仰と慈済精神のおかげで、愛を以て乗り越えたのである。「私はユダヤ人を恨みません。信仰が私に『愛はすべてに勝る』と教えてくれたのです。聖書も、人々に手と手をつなぎ合い一緒に愛に向かって進むことを教えています」
 
リリのストーリーにはアルメニア人の苦難とパレスチナ人の悲運があった。戦火を逃れた数千万人の人々と同じように、迫害者をののしり、世界で不公平な待遇を受けていることを恨むこともできたが、彼女は一群の青と白の制服を着た慈済ボランティアと一緒になって、シリア難民に暖かい関心を寄せることを選んだ。でもこれが原因で、同胞達からののしられることもあった。
 
●リリ(左)は身を以て中東戦争の動乱と離散の日々を体験したので、シリア難民の苦境がよく分かる。支援活動の現場では、年長者として常に穏やかに、思いやりをもって相手の苦情に耳を傾け、いたわり慰める。(撮影・蕭耀華)
 
「ヨルダンにも大勢貧しい人がいるのに、なぜ君達はシリア人を助け、自分の同胞を顧みないのか?」。二〇一二年の末、ヨルダンの慈済ボランティアが国境の町でシリア難民に食糧を配付していた時、一人の青年が会場に押しかけてきて、大声で怒鳴った。
 
一緒に配付活動を行っていた慈善団体、アルタフルのメンバーは、急いで青年に歩み寄り制止した。この時、リリはあの孫にも等しい年齢の青年に、こう説いた。「今週はシリア人の世話をしますが、来週のスケジュールも決まっていますよ。地元のシリア住民に配付をするの」
 
七十歳近い彼女は青年をこう諭した。「もちろん私たちは地元の人々にも関心を寄せています。でも考えてごらんなさい。あのシリアの人達は住む家をなくし、肉親も失ったんですよ」
 
食糧配付活動の時に発生したこの予想外のハプニングに、リリはたじろぐことなく、こう言った。「ヨルダンには『愛の家』という別称があります。なぜなら私達は周辺五カ国、レバノン、エジプト、シリア、リビア、パレスチナの難民達を受け入れているからです」
 

他人を責めず、受け入れる 

 
リリは奉仕活動中も敬虔なキリスト教徒であり続け、また慈済人でもある。七十歳を超えた彼女は苦労をいとわず、陳秋華ら慈済ボランティアと一緒に取材や食糧配付、病人の見舞いなどの活動に参加している。そして娘が母を亡くしたシリア人の孤児を育てることを全力で支持した。その子は「アミール(酋長、王子の意)」と名付けられた。
 
二月に台湾で開催された音楽会「国際大愛、全ての人の心に蓮の花を」で、私は一歳の誕生日を迎えたアミールの写真を見た。その天真爛漫な表情に誰もが魅了されたにちがいない。私はこう信じている。愛に満ちた環境で成長すれば、将来きっと愛を知って他人に奉仕し、感謝の気持ちを持った人になれるだろう。
 
林瑞芬とリリを見ていると、「賢明な人は黙って自ら歩く道を開く」という言葉を思い浮かべる。二人とも平凡な人物である。しかしその利他の精神と見返りを求めない偉大な思いやりが、非凡なる光芒を四方に放っている。
(慈済月刊六〇七期より)
No.249