慈濟傳播人文志業基金會
疑いのない愛
地球の反対側にいる人たちが
ポルトガルの山の上にある
ひなびた村へ来たのはなぜだろう?と
疑問に思っていたが、配付の会場でその答えを見つけた。
 
タンテラ市は、慈済がポルトガル森林大火の後に支援配付を行った地域の一つである。タンテラ市政府の幕僚長ミックル・トーレスは被災地の処理と復興事業の責任者である。
 
「トーレス」はポルトガル語で高い塔という意味が込められていると聞いていた。配付の準備をしている時、私たちはその高い塔の外に取り残されたような気がしていた。それに、言葉が通じず意思の疎通が困難で、前回、昨年十二月に支援チームがタンテラ市を訪問した時には予想もしなかった情景だった。
 
ワゼラ市のカンピア学校の運動場で配付式典が行われ、ボランティア全員が被災者に敬意を表していた。
 
今回は五大陸にまたがる地域からボランティアが集まって行われた配付活動であり、言語や文化的背景、時差、さらに考え方の相違による困難があった。そのために、私たちは当初タンテラ市で配付活動を行うことに一抹の不安を覚えていた。意思の疎通に時間を費やし、購買券の契約調印に至り、配付券、案内状などが印刷され受け取ることができるようになると、高い塔の門も少しずつ開かれ、最後の数日には準備が予定通りに整った。
 
一日目はワーツーラ市で配付を行い、二日目にタンテラ市へ行った。この時、ボランティアたちは暗黙のうちに自分たちの配置を守って活動したため、共同作業がスムースにはかどった。そのような互いにいたわり合う雰囲気に住民たちは感動していた。配付活動が終わって皆が戻り談笑していた時、トーレス氏も帰る用意をしていたが、この機会に壇上に上がって皆に一言話をしてくれるよう頼んだ。そしてその時はじめて彼が心を開いてくれたことを知った。
 
彼は「森林火災は非常に膨大な範囲に亘って影響を及ぼしていたので、損失は大きく、私たちは大変辛い思いをしていました。この悲劇が発生した後、慈済が初めて私たちに連絡してくれた時、実は半信半疑でした。地球の反対側にいる人たちが、こんな遠くの小さな町タンテラ市に、本当に関心を持ってくれているのだろうかと」と言った。トーレス氏は米国ニュージャージー州の陳済弘と何回も連絡を取り合っているうち、次第に心配や疑念は不要だと思うようになった。
 
そして、「今日の配付で私はとんでもない誤解をしていたことがわかりました。私は無神論者ですが、今日の配付を受けた人々が、真心のこもった善により尊重されながら配付を受けていた場面は、実に美しかった。それは宣教ではなく、被災者が愛され尊重されている姿で、実に驚きました。また美しい驚きでもありました」と言った。「慈済の皆さんの大愛に対して、私たちが遠方からの援助など信じ難いと疑うことはもうありません!」。トーレス氏は美しい体験が得られたことを、このように感謝していたのだった。
 

リスボンに向かって出発してから

 
昨年六月に森林火災が発生した時は六十四人が犠牲になり、十月に再び火災が起きて、拡散した。この期間に私はポルトガルの首都リスボンのぺトロ弁護士に紹介された。話をしてみると、ペトロ弁護士が愛の心に満ちた人であることが感じられた。なかでもシリア難民に関心を寄せているとのことで、十二月に出発する慈済のポルトガル火災支援隊にも熱心に協力して下さった。
 
彼は三日の内に、ポルトガルの救済活動を司るCCDRーCと連絡をとり、地方自治体と協力して被災の損害額をまとめ、ヨーロッパ連盟行政機構への報告、支援経費の申請など、私たちが被災状況に関して知らなければならないすべての情報を入手してくれていた。支援隊の任務が終わって、ポルトガルを離れる前夜、ぺトロ弁護士は、自分は慈済のボランティアになって以後も連絡係を担うと言ってくれた。その後二カ月にわたり、どんな時にも慈済に対応してくれた上、購買券について慈済に代わって企業と交渉したり、情報を提供してくれたりした。
 
●2017年12月、フランス、米国、英国の慈済ボランティアの被災状況調査先発隊が中部発展委員会主席アンナ(左から4番目)に面会した。この期間にはぺトロ弁護士(右から3番目)の協力があった。彼は慈済の種をこの地で発芽させ、末永く愛護し伝えていくと言っている。
 
彼は民事と刑事を兼ねた弁護士で、仕事がどんなに忙しくても慈済を最優先にして、法廷に出ていても休息の合間に支援の事務をしてくれた。慈済に会って奉仕する機会に恵まれたことに感謝し、遥か遠くから台湾の友人が援助の手を差し伸べているのに、ポルトガル人の自分はもっと努力しなければならないと言うのだった。
 
一回目の配付開始の時、ぺトロ弁護士は従兄弟が自動車事故を起こして生死の境をさまよっており、急遽リスボンへ帰って処置するよう、父からの電話を受けた。彼は遺憾に思いながらもボランティアたちに別れを告げなくてはならなかった。前夜に幼い子供二人を連れ、五時間運転して摂氏〇度近い被災地に着いたと思ったら、また引き返さねばならない世の無常に、皆の心は重たかった。
 

誰もが関心を寄せなくてはならない

 
ぺトロ弁護士とドイツ在住のボランティア楊沃福の二人が執り行うはずの配付に、急遽現地ボランティアのカルロス、メンドスが代理の命を受けて短時間で予行練習を行い、配付を無事に取り仕切った。メンドスは十歳の時に家族と共にポルトガルのワゼラ市に移民した。火災発生当時、被災地の只中に親戚がいた。猛烈な火の勢いに焦る心を抑えなければならなかったことは生涯忘れられず、その後は付近の被災家族に寄り添っている。
 
彼は地元メディアを通じて、慈済が配付を行っていることを知ると、会社を休んで通訳ボランティアに名乗りを上げ、慈済ボランティアが最も信頼する通訳菩薩になってくれた。現地ボランティアは自分が被災者かそうでなくとも被災者の友人であり親戚だという彼は、人々の気持ちに寄り添うことができた。慈済ボランティアも家庭や事業を差し置いて遠くの地域に赴き被災者に寄り添う。慈済の姿に民族、宗教、国を超越した「無縁大慈、同体大悲」を見た時、彼は最も感動していた。
 
●メンドス(左)は急遽命を受けて、ドイツのボランティア楊沃福と共に配付式典を取り仕切った。
 
慈済人は助ける者でありながら、その態度は柔和謙遜であるという異なる斬新な文化を知ると、彼はただちに協力を申し出た。その後も慈済ボランティアの一員として、この愛を当地に延続させることを願っている。
 

だまって粘り強く傾聴する

 
ワゼラ市の配付式の最中、地元ボランティアのマリアは、法師が被災者に贈る慰問文を代読した。彼女の優しい容姿と落ち着いた声音は多くの被災者の心に響いていた。彼女はボランティアに付き添っていた四日間、通訳だけでなく、問診をする医師の手伝いをしたので、医師が患者に対し母親のように優しく応えていたのを見ていた。
 
マリアは高校教師をリタイアしたばかりで、多くのポルトガル人に特有の外国への好奇心と、世界の異なる文化を大らかに受け止める心を持つ。オーストラリアで十年居住した後に、故郷へ戻ってワゼラ市付近の山の上に住んでいた。国外に住んでいた間、アジア人と交流する機会が多かった。今回は慈済人に巡り会って、多くの啓発を得たと喜んでいた。
 
彼女が最も深く感銘を受けたことは、支援活動に参加している慈済ボランティアが交通費も、宿泊費や生活費もすべてが自費であることと、支援費用は普段から少額を集めていて、そのすべての金額が被災者のために使われていることだった。
 
「これは慈済人が随時、随所に布施する心理と見返りを求めないことを証明しています。私が慈済を好きになった理由です」と言ったマリアは、自分は金銭的に豊かではないが喜んで時間を捧げて奉仕し、慈済の力になりたいと言った。
 
 
  ●マリア(真ん中)はリタイアした英語教師。慈済ボランティアと被災者に寄り添い慰めている。
 
マリアは「英国ポルトガル火災自救会」の関係者として通訳ボランティアとして参加した。これは英国の李宏耀医師の呼びかけによるボランティア団体である。タンテラ市のカーラ・アルメデアもこの呼びかけにより通訳に協力している。カーラは健康診断コーナーで四人の医師の通訳を受け持った。彼女は優しく人の言葉に耳を傾け、目線を合わせ、年配者には自分の親のように、子供には自分の子のように接していた。
 
彼女は裕福ではなかったが、自分のできることで人助けをしたいとその機会を探していたのだという。ネットを通じて支援を必要とする人たちを探し、訪問したが、その時、人々は家、農具、家畜のすべてを失っても、本当に必要としているのはいたわりと愛であり、それが未来に向かう力量の源になるのだと気づいた。それからは、彼らが安心して心の苦痛を訴え、悲しい記憶が薄れるように、カーラは自分の目線を下げて彼らに合わせるようにしたのだという。
 

愛を記憶に留めさせる

 
タンテラ市の人口は約三万人で、そのうち二百二十軒が全焼した。リタ・ロイオの家も全焼した。彼女の家族が再建を期待しながらも悲痛にくれていた時、被害調査に来た慈済に会った。彼女はまた観光客が来たと思っていたが、現地ボランティアの説明を聞いてその来意を了解した。しかし、寄り添い支援するために、ポルトガルの山の上にあるひなびた村にまで来るのは何故だろう?と思っていた。
 
●慈済ボランティアは森林大火の村へ自費で赴き、被災者に寄り添い慰めている。
 
配付活動の中で、通訳として協力していた時、彼女は何が無私の愛であるかを体得した。さらに儀式の中で慈済の歌に手話を交えた場面を見た時は感動を覚えていた。「今日見たすべては、永遠に私の記憶の中から消えることはありません。私の喜びと望みは、もう一度慈済の人たちと共に奉仕することです」と言った。
No.258