慈濟傳播人文志業基金會
仏法は永久にこの世に存在する
常に道理があるとこの世に希望をもつ仏の智慧を用いてみよう、
仏寿と同じく私たちの生活の中に存続する智慧を
そして人と付き合う時には、菩薩と共にいるかのように
感謝し、尊重し、愛を忘れずに
 
 
二○○八年五月、大型サイクロン・ナルギズがミャンマー南部のイラワジデルタを襲い、良田は重大な水害を被りました。その当時、現地に慈済人は一人もいなかったため、近くのマレーシア支部の慈済人が駆けつけて、支援を行いました。それ以後、ボランティアとしての責任を担い続け、十年が経ちました。
 
農民の生活は元より苦しいものですが、重大な損失を被った彼らが最も必要としていた物は種籾でした。以前は、種籾を借りて植え、収穫した後に借りた籾を返済しなければならなかったので、いつまでたっても豊かになることはできなかったのです。風災後の数年は、慈済人が毎年続けて種籾を贈ったため、農民たちは悪循環の貧しい生活から抜け出すことができました。
 
農民たちは、初期の慈済人が一日に五銭ずつ貯金していた「竹筒歳月」の話を聞き、「一粒も俵になり一滴の水も大河になる」という精神を知りました。毎日野菜を買うお金の中から五銭ずつ貯金して集めたお金が、今日には、世界中の困っている人たちの支援に役立てられているのです。農民たちはお金を献金する余裕はありませんが、毎日お米を洗う前に一握りの米を甕の中に蓄え、いっぱいになると困っている人に分ける「米貯金」をしています。
 
慈済が種籾を贈ったタイツ(Taikkyi)鎮スイナクン(Shwe Na Gwin)村は、二○一五年から現在までに九つの村で三百世帯が「米貯金」に参加しています。毎月集められた米は四十世帯以上の貧困家庭を助けています。
 
 
スピンクン(Sit Bin Khwin)村の農夫ウメンヤ(Umya Aye)は、二○一○年に慈済の種籾を貰って以来、夫婦で毎日五十ミャンマー・チャットの(一ミャンマー・チャットは約〇・〇八円)貯金を始めて、五、六年後に慈済が村へ来た時、一枚一枚きれいに束ねて献金し、彼らの念願を果たしました。
 
彼らは、善事を発心したからには、この数年はたとえどんな苦労があっても、このお金を使うわけにはいきませんと言いました。雨季の湿った時は紙幣にアイロンをかけ、太陽が出ると干してきれいにしていました。
 
「人を救うためのお金は菩薩銭ですから使えません」と言いました。こんな清らかな心はいつまでも変わりません。「深い信解、清らかで実直」。この志を尊重して、私たちは見習わなければなりません。
 
善行は金持ちだけの特権ではなく、心ある人なら誰でも行うことができます。農民たちの生活は貧しくても心霊は豊かで、五十元であれ、一握りの米であれ、日々途切れたことがありませんでした。この人たちの心に雑念はなく、一点一滴集まった善念が積み重なると、人を助けることができるのです。
 
貪念があっても、お米をどんなに多く持っていても、喜捨をしなくても、同じように一日は過ぎます。善事を行う時は、堅い心さえあれば何の困難もありません。その心をもった三百世帯の人たちが四十世帯を援助しました。これが本当の善というものです。
 
この善の念願は、「六度万行」となり、果てしなく広がっています。天と地の間にいる人間は小さいですが、人間がもつ愛の心は世界中に達することができます。
 

慈善は物資を供応するだけでなく

さらに心霊を安定させ

善良に向かって導く

 
報道によると、スウェーデンではこの数年の間に多くの国の難民を受け入れていますが、その中の数百人の児童は「救生放棄症候群」にかかっています。何か病気をもっているのではなく、ただ長時間の睡眠に陥っているだけで、専門家の研究によると、避難する中で受けた苦痛が心を傷つけ、目覚めることを拒否しているのかもしれないと言っています。 
 
気候や災難は苦しいものですが、人による禍の災難はそれ以上です。近年来シリアの戦火は収まる気配がなく、互いの衝突は化学兵器による攻撃にまでエスカレートして、罪のない人民の悲しい悲鳴があちこちで聞かれています。難民の数は増えるばかりで、今度はどこへ行けばいいのでしょうか。
 
難民は家族と共に異国へ落ちのびる時、パスポートの問題など数々の困難のため、数年経っても故郷に戻れません。長旅と気候の変化、人から受ける冷たい仕打ち、あるいは支援を、子供たちはどのように感じているのでしょうか。
 
 
慈済は長年にわたってヨルダン、トルコ、マレーシアの難民やサルビアにとどまっている難民に食事や防寒着を提供しています。言葉が通じなくても、身振り手振りと優しい表情で、ボランティアたちは心からの関心を示しています。
 
難民の生活ケアの中でとくに医療と教育の負担は重いのですが、これを放棄することはできません。トルコでは毎月定期的に六千世帯への物資配付に加え、三千人の子供たちの学業が中断されないように、四カ所で難民学校の援助を行っています。ボランティアは子供たちの心理状態を気にかけています。教育によって心が健康になり、世の事に関心を持ってすべてを善く解釈し、感謝して足るを知り、そして環境の変化による恨みや対立が社会の動乱の元にならないように願っています。
  
子供たちでさえも「竹筒歳月」にならって、日頃から善事のために小銭を貯金しています。台湾の台南震災、花蓮震災、米国のハリケーンハービー災害の時、子供たちは支援を呼びかけ、自分たちの竹筒貯金箱を持ってきてくれました。
 
すべての苦難は、人の欲念によって天地の安寧を脅かしています。慈済が難民に寄り添う時に最も大切に考えていることは、その人たちの心が安らかになるようにということです。慈善は物資の提供だけでなく、被災者の痛んだ心を善良に導くために、誠と尊重の態度を以て接し、そしてその心に愛が開花するように導くことにあるのです。
 

菩薩の道場は遍く天の下にある

あらゆる場所を「救う所、護る所、拠り所」と見なす

 
今年の正月に六カ国の慈済人がポルトガルに集まって、昨年森林火災で被害を受けた住民に購買券と毛布を贈って、健康診断を行いました。その中で人医会の医師は、虚ろな目をした元気のない七十歳くらいのおばあさんを診察しました。医師は自分の手を優しくおばあさんの膝にのせて、その顔を見ながら語りかけました。
 
そして「安」の字が書いてあるストラップを見せながらおばあさんに言いました。おばあさんの気持ちはよく分かりますよ、さぞかし驚いたでしょう、でも危険は過ぎましたから今は無事ですよと慰めると、血圧は徐々に下がりました。
 
おばあさんの目つきは変わってきて笑顔を浮かべ、医師の手を握り返しました。おばさんは薬も飲まずに元気を取り戻し、最も良い薬は有名な製薬会社の薬ではなく、真実の愛であることを医師はしみじみと感じました。
 
この時以来、ヨーロッパ、米国などのボランティアはポルトガル森林火災の被災者の苦しみを見るに忍びず、需要に応え、愛を以て随所で苦労を厭わず被災地をたびたび訪れ、被災者に寄り添い慰め、配付を行っていました。
 
《無量義経》の菩薩道の教えの中に「諸々の衆生は請われなくてもその師となる」とあります。それは「人の傷を見て我痛み、人の苦を見て我悲しむ」ということです。種々の困難を克服してでも、自発的に奉仕しなければなりません。
 
 
昨年十月、米国のサンタローサでカルフォルニア史上最大の森林火災が発生し、八千世帯が全焼しました。猛烈な火の勢いに近づくこともできず、ボランティアたちははやる心を抑えて、火の勢が弱まるのを辛抱強く待っていました。火の勢いが収まり、現地へ行けるようになってからの六カ月間は、被災者への寄り添いやケアサポートを続けました。千世帯の配付を終えた後も、この寒空のもとにもともと生活が苦しい人たちや、家をなくして車上生活をしている人たちを探しました。車のある人はまだいいのですが、車のない人は避難所に入れたとしても、期限がくれば出て行かなければなりません。
 
家族を連れてどこへ行けばいいのかと、路頭に迷う人たちの苦しみを見たボランティアは、彼らのために家を探しました。現地の非政府組織と政府機関は、慈済人が苦難の人たちのために奔走していることを見て、協力を申し出てくれました。苦難の人々が一縷の希望を見出した時に、北カルフォルニア支部執行長の謝明晋は、自分が宝蔵を探し得たように喜んだと言いました。ボランティアたちは「無縁大慈、同体大悲」の大義の下に、菩薩の方向に向かって突き進みました。愛の力による共知、共識、共行がすなわち菩薩の赴く所なのです。
仏陀の教育とは、身体力行し精魂こめた愛の奉仕を以て、衆生を苦難から開放することです。衆生が安楽を得た時が人間菩薩が最も嬉しく感じ満足する時です。
 

時は飛ぶように過ぎ去る

凡夫はその地にとどまらずに

生命の指針に向かって確実に精進すること

 
人の世の成住壊空、生老病死は時間と共に過ぎ去ります。年齢、体格、記憶は自分の思い通りになりません。しかし自分の年齢を数えるのではなく、精神能力を発揮して常に精進することが最も現実的です。
 
法を心に受けて日常生活に応用し、普遍的に群衆の中で互いに触れ合い、互いに教え合って、人々に生命の価値を了解させるのです。時を無駄にせず、衆生に利益して善縁を結ぶこと、他人に利益するとは言うものの、その実善念を発心することは、真っ先に自分に利益することになります。身体を以て勤め励むと、さらに来世の功徳の糧を積むことになるのです。
 
二千五百年前に、仏陀が霊鷲山で説かれた《法華経》は、形のある人の世では隔りがあるが、無形の心に距離はなく、もしも仏の知見を悟ることができると、その一刻が仏の説法されている時だという教えです。衆生がどれだけこの道理を了解したかが、仏寿の長さになります。常に道理があると人には希望があります。
 
 
仏の智慧は永久に世間に留まっていますから、仏の智慧を受けてそれを用いると、仏の寿命と同じように私たちの生活の中に生きてきます。心霊の道場はいつも荘厳です。人と親しくし、感謝、尊重、愛が周囲にあるならば、全てが菩薩です。
 
日々法の流れの中で沐浴を受けるには、感謝し足るを知ることが必要です。この広い社会のこれほど多くの衆生の中で、因縁を得るのは困難なことですが、師と共に共同の善知識と、六度万行に投入して、さらに大切な包容が必要となります。
 
日々この菩薩道の中で、ある人は早く到着し、ある人は早く歩きます。比較的遅く着いた人、または現地の風景の中をあちこち見回っている人もいます。しかし、お互いに励まし合い、一分一秒も無駄にせず、丁寧に過ごすことです。お互い手に手をとって一緒に精進の道へと邁進しましょう。
 
一生の中で今のこの一秒は重複することはなく、生命も流れるまま待ってはくれません。
 
もしも煩悩や無明に固執して、停頓していたら、世間の濁気に染まったままでしょう。しかし、いくら憂いても仕方がありません。ただちに「法を受持して、正教を弘め」、何秒間があれば、その何秒間で責任を果たすことです。刹那を把握することとは、永劫に生命の指南針に向かって的確に誠実精進することです。
 
皆さん、心して取り組んでまいりましょう。  
(慈済月刊六一八期より)
No.258